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2020.02.24

「ひみつ箱」は旅の必需品?ハリスやヒュースケンも辿った箱根旧街道・歴史散歩

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女ころばし坂、七曲り、猿すべり坂―箱根湯本から芦ノ湖畔の元箱根へ続く旧街道を上っていくと、こんな情緒たっぷりの地名が続きます。
バスにのんびり揺られていても、江戸時代に東海道一の難所といわれた箱根八里(小田原宿から箱根宿を通って三島宿までの約32㎞)の険しさがしのばれるよう。今回はそんな箱根旧街道にある寄木の里、畑宿(はたじゅく)へ行ってきました。

寄木の里「畑宿」には逸品がたくさん

いくつものカーブと坂を越えてバスを降りると、またカーブ、そして坂。ここが箱根の寄木細工発祥の地、畑宿です。道沿いに寄木細工の工房や専門店が並び、のぞいてみると他ではあまり見られないめずらしい作品が展示されていたり、寄木の体験ができたりします。

箱根駅伝の往路優勝トロフィーは、寄木細工で作られたものって知ってました?これは削り出しの「無垢」という技法で作られているのだそうです。(畑宿寄木会館)

 

この寄木の家は屑屋といって、もともとは寄木細工を作った残りの端材を集めて作られたものだというから驚きです。(畑宿寄木会館)

実は奥が深い、箱根細工と寄木細工の歴史

箱根の寄木細工は200年ほど前の江戸時代後期に、畑宿で生まれた石川仁兵衛(いしかわにへえ 1790年~1850年)が駿府から箱根へ技術を持ち帰り、はじめたと伝えられています。
今では日本の伝統的工芸品にも指定されている箱根の寄木細工ですが、実は寄木の工芸品は箱根以外でも作られています。奈良の正倉院に寄木の箱が残されているほどその歴史は古く、シリアからシルクロードを通って日本に伝わったと考えられているのだそう。

ではどうして「箱根といえば寄木細工」といわれるほどになったのでしょうか?

「箱根の山は天下の険」と歌われた箱根の山は簡単に人を寄せつけない分、豊かな木々に恵まれていたのでしょう。古くから材料を求めて職人が移り住み、ロクロを挽いて茶器やお盆などの挽物(ひきもの)が作られ、やがて木材を組み合わせた箱や引き出しのような指物(さしもの)が作られるようになっていったそうです。
「箱根細工」の名は寄木細工がはじまった江戸時代より前から評判でした。

シーボルトもうっとり!伝統工芸士に聞いた、箱根寄木細工ができるまで

豊かな材料と高度な技術。その2つの支えがあったから、箱根ならではの寄木細工へと発展していったのではないでしょうか。

寄木の模様は、木の天然の色で描かれています。ずっと見ていたいような美しさ。(畑宿寄木会館)

「ひみつ箱」は旅の必需品だった?

もう1つのキーワードは、旅。
この日、畑宿でとても興味深い話を聞くことができたのですが、箱根の寄木細工の中でも有名なひみつ箱は、元々は旅人が携帯する枕だったそう。
時代劇などで見覚えがないでしょうか。昔の枕は箱枕といって、木でできていたんです。枕にからくりがついていて貴重品がしまえるなんて、アイデア賞ものですよね。

これが箱根の寄木細工を代表するひみつ箱。何度も手順をふまないと開かないからくりになっています。(浜松屋)

箱根の寄木の作り方や歴史を教えてくださったのは石川仁兵衛から7代目にあたる、伝統工芸士の石川一郎さん。(浜松屋)

東海道の間の宿として栄えた畑宿

ひみつ箱の由来を聞いて「なるほど!」と思ったのですが、畑宿には東海道を行きかう旅人の姿がしのばれるような、歴史的な場所がいくつもあります。

一里塚

江戸時代に街道や宿場が整備された際に、距離の目安となるよう一里(約4㎞)ごとに作られたのが一里塚。畑宿の一里塚は日本橋から二十三里にあたります。

畑宿から見て右側にはモミが、左側にはケヤキが植えられています。(写真は畑宿に復元された一里塚)

石畳

当時の箱根八里は険しいだけでなく、水はけが悪くぬかるんだ道だったそう。歩きやすくするために当時としては画期的だった石畳が敷かれました。

石畳の両脇には古い杉並木。徳川家康の命で街道沿いに植えられ、日差しや雨風から旅人を守りました。(写真は畑宿の一里塚から続く石畳)

本陣跡

本陣というのは参勤交代の大名行列などの宿泊所となった地元有力者のお屋敷のこと。畑宿には名荷屋という屋号の本陣があり、当時の賑わいは浮世絵にも残されています。

無断転載禁止 東海道箱根畑 歌川芳虎 画(所蔵:箱根町立郷土資料館)

畑宿の本陣でハリスもほっと一息ついた

残念ながら畑宿の本陣(茗荷屋)は大正時代の火災で焼失していますが、跡地には江戸時代に初代米国総領事のハリスや通訳のヒュースケンも休憩したという説明がありました。
それによると、お吉物語で知られるタウンゼント・ハリスは、幕府と通商条約を結ぶために安政4年(1857年)伊豆下田から籠に乗って江戸へ上京しましたが、箱根の関所改めを「外交官に対する無礼」だと拒否。結局ハリス自身は馬に移って、関所の役人は籠のみを改めることで妥協したのだそう。この一件に怒っていたハリスですが、山を下って茗荷屋に着くとはじめて見た日本庭園の美しさに感動し、機嫌を直したといいます。

「入り鉄砲に出女」といって江戸への武器の持ち込みと、江戸に留め置かれた大名の妻子が地元に帰らないよう監視する役目があった当時の関所。開国の外交使節団も幕末の志士も南から江戸に入る者はみな関所を通るために、箱根八里の険しい道を辿りました。(なんと、中国の商人から将軍に献上された象も箱根を越えたそう)

東海道五十三次 箱根 廣重 画(国会図書館デジタルコレクション)

シーボルトも感嘆した箱根の寄木細工

さてこの本陣では、大名やオランダ商館を相手にしっかりと寄木細工の売り込みもしていたようです。
長崎の出島から上京したオランダ商館付きの医師シーボルトは、江戸参府紀行の中で箱根の寄木細工の値段が高いことに触れながらこう記しています。「骨の折れる道を辿り辿りて、畑村hatamuraに達す。精巧なる木細工あるにて名高く(中略)日本国民の真趣味に通じて作りたるなり」
こうして箱根の寄木細工は海を渡り、海外でも評判になっていきます。

箱根八里の小田原宿から箱根宿の途中にあって、間の宿とよばれたのが今の畑宿。旅の目安となる一里塚が置かれた場所だったので、本陣に泊まれるようなお大尽様でなくてもここでちょっと休憩となったのでしょう。街道沿いにはたくさんの茶屋が並んでいたそうです。
甘酒、力餅、川魚の塩焼き、険しい山の途中ですから出せるごちそうには限りがあったかもしれません。でも、旅人は茶屋で一服しながら寄木細工を吟味したことでしょう。江戸への行きがけに注文し、帰りに持って帰るといったこともあったようです。
箱根の寄木細工は東海道を行きかう旅人たちによっても磨かれ、山を越えてその評判を広めていったのかもしれません。

シーボルトが寄木細工を鑑賞し、「日本人の本当の趣味を表している」と讃えた畑宿は、箱根の旧街道にあります。歴史を感じる情緒たっぷりの道、ぜひ辿ってみてください。

畑宿寄木会館 基本情報

施設名:畑宿寄木会館
住所:〒250-0314 神奈川県足柄下郡箱根町畑宿103
営業時間:9:00~16:30(冬季は9:00~16:00)
定休日:木曜日・年末年始
*変更になることがあります

浜松屋 基本情報

店舗名:浜松屋
住所:〒250-0314 神奈川県足柄下郡箱根町畑宿138
営業時間:9:00~17:30
定休日:年中無休
公式webサイト:http://www.hamamatsuya.co.jp/

書いた人

岩手生まれ、埼玉在住。書店アルバイト、足袋靴下メーカー営業事務、小学校の通知表ソフトのユーザー対応などを経て、Web編集&ライター業へ。趣味は茶の湯と少女マンガ、好きな言葉は「くう ねる あそぶ」。30代は子育てに身も心も捧げたが、40代はもう捧げきれないと自分自身へIターンを計画中。