お前は本当に魔王の子か?信長の「不肖の息子」織田信雄の残念エピソード

お前は本当に魔王の子か?信長の「不肖の息子」織田信雄の残念エピソード

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「トンビが鷹を生む」という言葉があるが、今回の記事ではそれと逆の現象について書きたい。

鷹がトンビを、いや、鷹が土鳩を生んだかのような親子が戦国時代に存在した。それはあの織田信長と、その次男の信雄である。

戦国マニアであれば、まあ大体は想像できるだろう。「ああ、あのバカ息子か」という具合に。

今回の記事では、当時も囁かれていた「信長の次男はバカ息子だった!」という話をしていきたい。

父に無断で進撃→大敗北!

たとえば、現代の軍隊の将官が自分の率いる師団を参謀本部に無断で動かしたらどうなるか。

この将官は軍法会議にかけられ、長期の禁固刑は免れないだろう。今でも国によっては最高刑が銃殺という場合もある。それだけ「命令を無視して部隊を移動させる」というのはシャレにならないことなのだ。

織田信長の次男坊信雄は、それをやった。

1578(天正6)年に第一次天正伊賀の乱という戦いが勃発している。これは織田信雄の軍勢と伊賀国の国人衆が激突し、何と織田軍が敗退してしまったという内容だ。この時の信雄は8000の兵を率いていたが、ゲリラ戦に持ち込まれて重臣まで失った。散々の負けっぷりである。

もっとも、「散々の負けっぷり」を晒した戦国大名は少なくない。徳川家康も三方ヶ原の戦いで脱糞しながら敗走しているし、そもそも信長ですら人生の中で幾度も戦に負けている。

問題なのは、この時の信雄は信長に無断で伊賀に進軍していたという点だ。にもかかわらず、多くの兵と重臣を失い逃げ帰ってしまった。

信長がキレるのも無理はないだろう。この時、信雄は信長から絶縁を言い渡されていると伝わる。結果的にそうならなかったとはいえ、ここで信雄の評価は固まってしまったようだ。

こいつは本当に信長の子か?

何もしなかった信雄

信雄のバカ息子ぶりが遺憾なく発揮されたのは、本能寺の変である。

この本能寺の変で信長が落命したことは言うまでもないが、その直後に嫡男(この時点では既に織田家の当主)の信忠も明智光秀の軍勢に討ち取られている。つまり、この時点での信雄は「織田家当主に最も近い男」だったのだ。

しかも信雄は甲賀まで進軍していた。京都までは目と鼻の先だ。しかし彼は、最後まで謀反人光秀と戦うことはしなかった。「今の自分は実質的な織田家当主だから」という具合にカリスマ性を発揮して兵力を増強させる……というのもまったくなかった。

2016年に中京大学が公開した「信雄の書状」がある。宛先は豊臣秀吉で、清州会議の3日前の日付だ。内容は、陣を置く場所について信雄が秀吉に指示を仰いだものだ。

秀吉が光秀を破った山崎の戦いは既に決着がついており、信雄はそのあとに「近くに陣を寄せたいので、そちらの都合に合わせて連絡してください」と秀吉に伝達した。正直に言ってしまえば、これから織田家の当主になる者の態度ではない。信雄は戦国の世において「物事の主導権を握る」ということができない男だったのだ。

自分で始めた戦を丸投げ

信長が築いた絢爛豪華な安土城を焼いたのは信雄、と言われている。

その真偽については今の時点ではどうか分からないが、少なくとも宣教師ルイス・フロイスは「安土城に放火したのは信雄」と断言している。

フロイスの証言は容赦ない。信雄は「普通より知恵が劣っている」とまで書いている。現代だったら問題になりそうな表現だが、ここでは「信雄は当時からそういう評価をされていた」ということに注目していただきたい。

信雄は山崎の戦いからしばらくは秀吉に寄り添っていたが、その関係は永遠ではなかった。1584(天正12)年に勃発した小牧・長久手の戦いは、秀吉への反抗を決意した信雄が徳川家康を頼って始められた戦だ。兵力差で言えば、秀吉側の圧倒的有利である。しかし家康側は戦術を駆使して互角以上に戦っていた。特に徳川四天王のひとり榊原康政の活躍は、秀吉ですらも震え上がったほどだ。

ところが、これはあくまでも戦術面での勝利である。戦略面に関しては、家康より秀吉の方が上手だった。

秀吉は、この戦いの発端である信雄が「織田のバカ息子」であることを利用したのだ。

家康は一時的に無視して、信雄と単独講和を結んでしまおう。すると家康は戦の大義を失くすから、信雄に続いて講和の席についてくれるはずだ。

信雄から見れば、自分の意思で始めて周囲まで巻き込んだ戦を、自分の手で投げ出すということである。常識的に考えれば、こんな身勝手でグダグダな終わり方は絶対にない。ところが、信雄は秀吉の口車に乗って単独講和を結んでしまったのだ。

それを聞いた家康の衝撃は大きかったはずだ。当然、大いに怒っただろう。第一次天正伊賀の乱の時の信長と同じように。

生き長らえたバカ息子

「肖像集2 織田信雄」出典:国立国会図書館

信雄は長生きした。関ヶ原の戦い、大坂の陣と彼の運命を左右する出来事を乗り越えつつ、最後は家康から与えられた領地に住まう大名としてその地位を確立した。

上と下の兄弟が悲惨な殺され方をされている事実を考えれば、彼は強運の持ち主とも言える。

なお、天正期にあれだけ強大な勢力を誇った織田信長だが、江戸時代に大名として残ったのは信雄の系統のみである。

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