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愚かな連中は、迷いにとらわれ、悪の種をまけば悪の報いがあり、善の種をまけば善の報いがあるという原理を信用しない。(日本霊異記)
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Culture
2020.06.10

一夜で3万の敵兵が消失?伊達政宗の人生最大の危機。奇跡を起こした隠密集団「黒脛巾組」の全貌

この記事を書いた人

戦国の世では、信じられない出来事が、まことしやかに伝えられる。例えば、豊臣秀吉の墨俣城(すのまたじょう)。一夜で城を築いたとされるが、真相は未だ不明。資材だけを組んで白い紙を壁に見せた、いやいや、既にあった遺構を利用して短期間で築城したとも。

どちらにせよ。
目の前になかったモノが、一夜で出現する。それはド派手なイリュージョン同様、見た者を驚愕させる。その威力は半端ないほど。

しかし、逆もしかり。
「目の前にあったモノが一夜で消失する」

こちらだって、当事者からすれば、大いに度肝を抜くほどの衝撃なのである。
そして、じつは、コレが今回のテーマ。実際に、戦場で起きたというから、余計にアンビリーバボーなオチ。

一体、何がどうなったのか。
簡単にいえば、一夜にして、目の前に広がっていた敵勢3万の兵が消えたのである。それも、敵軍の方が優勢で、こちらは負け戦。明日には討ち取られる確率100%の状況だったとか。ちなみに、人生最大の危機に陥っていたのは、あの奥州の覇者・伊達政宗(だてまさむね)。当時は、血気盛んな19歳。若き日の政宗は、討ち死覚悟で最後の夜を過ごしたに違いない。

けれども、なぜ?
忽然と敵兵は消えたのか?

今回は、そんなミステリアスな「人取橋(ひととりばし)の戦い」をクローズアップ。すると、まさか。見えないモノ、いや、見えてはいけないモノが見えてきた。

その名も「黒脛巾組(くろはばきぐみ)」。

伊達政宗の隠密集団といわれる者たちである。
本当に彼らは実在したのか。その真相に迫りたい。

隠密集団「黒脛巾組」は実在した?

残念ながら、「黒脛巾組(くろはばきぐみ)」の存在は、仙台藩の正史『伊達治家記録』には記録されていない。

うん?いや、ちょっとタイム。
よく考えれば、残念でもなんでもない。だって、記録があれば、隠密じゃなくなるじゃん。それでは、ただの精鋭集団となってしまう。だから、記録がないことに越したことはない。しかし、全くないのも困る。どこかしら、匂わせるような記録はあってほしい。ホント、ややこしいのだが。

で、探すと。これが、あったのだ。希望通りの記述である。まずは、一般的な内容からご紹介しよう。伊達政宗の従兄弟である伊達成美(しげざね)が記した『政宗記』である。その一部を抜粋する。

「草調儀(ちょうぎ)或は草を入る、或いは草に臥(ふす)、亦(また)草を起す、扨(さて)草を捜すと云ふ有」

これは「奥州の軍言ば(いくさことば)」についての記述である。

うん?いや、やっぱりタイム。
今の個所のどこに隠密集団「黒脛巾組」の記述があるのよ。これって草刈りの話……?では、もちろんない。じつは、隠密集団が行う活動内容のガチ記録。

戦国時代、「忍び」の術を用いて情報収集を行っていた者たちの呼び名は、1つでない。一般的には「乱波(らっぱ)」や「透波(すっぱ)」「隠密」など。他に「草(くさ)」とも呼ばれていた。今回の記述に出てくる名称である。

さて、もう一度『政宗記』の内容を見てみよう。
「草」は「忍び」を意味する。そして、「調儀」とは策略のコト。「入る」は敵地への潜入、「臥(ふす)」は潜伏。また、「起す」は敵の間者を討つコト、「捜す」とはそのまま、自国の領地に入った敵の捜索である。まさに、影の集団という感じ。

また、この「調儀」には他の意味もある。「襲撃」だ。夜のうちに、敵地に潜入して、身分を問わず殺害する。侍、百姓関係なく、該当地域の者を無差別に襲撃。特に領国の境目(さかいめ)では、人間だけでなく作物も標的に。「苅田(かりた)」など、作物を刈り取って兵糧を断つということも、頻繁に行われたという。こうして、敵勢の戦意喪失を狙う。これら一連の実行担当が「草」なのだ。

隠密集団「黒脛巾組」を召し抱えていたとされる伊達政宗の像

さて、他の資料にも詳細な記録が。仙台藩の半田道時(はんだみちとき)が記した『伊達秘鑑(だてひかん)』である。その一部を抜粋しよう。

「政宗公兼ねて慮(おもんばか)りあって、信夫鳥屋(しのぶとりや)の城主安部対馬重定(あべつしましげさだ)に命じて、偸(ぬすみ)になれたる者五十人をえらみ、扶持を与へ、これを黒脛巾組……(略)」

おっと。呼び名まで明記されている。そもそも「黒脛巾組」という名は、脛(すね)に黒革の脛あてをつけていたからだとか。しかし、この記録からすれば、伊達政宗が命名したようである。なお、ここでの「偸(ぬすみ)」とは、情報収集を意味する。影の如く忍び込み、もしくは潜入して会話をキャッチする。「黒脛巾組」は、そんな技に長けた者たちで構成されていたという。

彼らのスタイルは様々だ。商人の場合もあれば、山臥(やまぶし)や行者の場合も。複数の業種に身を化けさせていたようだ。特に、周辺には山岳信仰としても有名な蔵王連峰がある。それゆえ、修験者の恰好であれば、怪しまれずにどこへでも行けたのだとか。

亡き父の復讐戦だった「人取橋の戦い」

それでは、最初に話を戻そう。
そもそも、どうして伊達政宗は敵軍にそこまで追い込まれたのか。父の復讐戦と燃えた「人取橋(ひととりばし)の戦い」について、触れておこう。

天正13(1585)年10月8日。織田信長が自刃した「本能寺の変」の3年後。ちょうど、豊臣秀吉が圧倒的な兵力で四国遠征をやってのけた年である。着々と秀吉が天下統一に向けて前進している一方で、奥州(東北地方)では、未だ幾多の武将が雨後の筍状態に。群雄割拠真っ只中という時期であった。

ただ、奥州は特殊な地域でもある。政略結婚で血縁状態となってパワーバランスを取るのが主流。実際、周りは政宗の縁戚ばかり。最上義光(もがみよしあき)は伯父だし、佐竹義重(さたけよししげ)も叔父。葦名義広(あしなよしひろ)は従兄弟。政宗の周囲には、血縁包囲網が張り巡らされていたのである。

そんな状況の中、前年の天正12(1584)年10月。伊達政宗は家督を譲り受ける。晴れて伊達家17代当主になるのであった。血気盛んな政宗は、「どうせ裏切ったって血縁なんだから」という柔い雰囲気を真っ向から否定。天正13(1585)年8月の「小手森城(おてのもりじょう、福島県)の戦い」では、城兵のみならず籠城する者全員を撫で切りに。周囲を恐怖に陥れる。

これにビビりまくったのが、二本松城(福島県)の畠山義継(はたけやまよしつぐ)。ビビるだけなら良かったのだが、なぜか血迷ってしまう。伊達政宗の父・輝宗(てるむね)を勢いだけで拉致。結果、父・輝宗と畠山義継は共に伊達軍に撃たれて死亡。

伊達輝宗の初七日が過ぎた天正13(1585)年11月15日。復讐心に燃えた政宗は、まず1万3000の兵で二本松城を包囲。畠山義継の跡を継いだ「国王丸(くにおうまる)」と対峙する。二本松城は堅牢な山城。両者ともに膠着状態となる中で、なんと、国王丸に救援が。反伊達連合軍が北上してきたのである。

反伊達連合軍とは、叔父の佐竹義重を筆頭に、葦名氏、岩城氏、石川氏、白河氏、二階堂氏ら約3万の連合軍のコト。どうやら、数か月前に起きた「小手森城の戦い」を重く見ていたようだ。姻戚など関係なく皆殺しにした伊達政宗に対する「牽制」の意味合いが強かったという。

ただ、この反伊達連合軍の動きは、政宗からすれば厄介な展開に。というのも、国王丸のいる二本松城にも兵を配置しなければならないからだ。結果、伊達軍は半数の7000の兵で3万の反伊達連合軍と戦うことに。戦闘は同年11月17日早朝より開始。阿武隈川の西、青田原(あおたばら)で激戦が繰り広げられた。

7000と3万では、あまりにも数が違い過ぎる。さすがの伊達政宗も、この兵力差を覆すことはできず。徐々に押し込まれ後退。敵軍は政宗の本陣近くまで迫ったという。この危機に、自らの命に代えて政宗を逃がしたのが「鬼庭良直(おにわよしなお)」、御年73歳。老体のため重い甲冑がつけられず、綿帽子の軽装での出陣だったとか。家臣を率いて人取橋を南に超え、敵陣の中に突っ込んだという。

こうして、政宗は命からがら本宮城(二本松城の支城)まで退却。兜に銃弾5弾、矢一本を受けるほど。まさしく、運が悪ければ、討ち死の可能性もあったとか。鬼庭良直の犠牲の上で、九死に一生を得たのである。

なんとか、日没のため自然停戦とはなったものの。夜が明ければ、すぐにでもカタがつく。この時点で、もう、負け戦は明白であった。ただ、政宗からすれば、亡き父の弔い合戦であり、引くに引けない戦なのだ。このまま、本当に命運が尽きてしまうのか。政宗率いる伊達軍は、重い空気に包まれていた。

しかし。
予期せぬ事態が。

夜が明けた同年11月18日朝。
3万の兵は突如、姿を消していた。勝利目前にして理由不明の撤退。
一体、反伊達連合軍に何が起こったというのであろうか。

奇跡?の裏で暗躍するスペシャリスト

『伊達政宗卿』によれば、佐竹氏の常陸(茨城県)の本領が、江戸重通(えどしげみち)に攻め込まれたからだという。一方、『会津旧事雑考』では、佐竹義重の軍師が家僕に刺殺されたからとも。

さて、気になる真相はいかに。
いやいや、お待たせしました。ようやくのご登場である。この戦いの裏で暗躍したといわれるのが、コチラの方々。政宗直々の隠密集団「黒脛巾組(くろはばきぐみ)」である。

ここで謎が1つ。
実際に、どのようにして「黒脛巾組」は「人取橋の戦い」を勝利に導いたのか。

先ほどご紹介した『伊達秘鑑』。当時の反伊達連合軍の陣内の様子が、このように記されている。

「石川・白河の人々は、伊達へ親族なれば内通ありと云唱(いいとな)え」

反伊達連合軍の石川昭光(いしかわあきみつ)は政宗の叔父。そして、白河義親(しらかわよしちか)には、そもそも「反伊達」への思い入れがない。まあ、周囲に流されて参加したようなモノ。つまり、伊達軍と内通しているのではという話が出てきたというのだ。

「又会津の者共伊達へ傾き、境目の諸将逆心して伊達の人数引入ると云出」

また、伊達政宗の領地の隣国である会津・葦名氏。その両国の境目にある城が調略され、伊達軍を城内に引き入れているとも。なんとも、ウマい具合に噂が立ったものである。

確かに、この状況では、さもありなん。
というのも、反伊達連合軍は1つの目的に奮い立ったワケではない。なんだかよく分からんが、参加しておいた方がいいのか……多分。くらいな感じで参加した者が多い。なんといっても、臨時の寄せ集めに過ぎないのだ。

ただ、あまりにも噂話のタイミングは良すぎるという気もする。連合軍といえど、こうも簡単に反目し合うものなのか。

否。
互いに疑いの目を向けさせる。そう仕向け促した者たちがいたのである。それが、あの「黒脛巾組」。じつは、反連合軍の反目は、彼らの策略によるものだったというのだ。

以下は『伊達秘鑑』に記された内容である。
まずもって、大町区内(おおまちくない)と太宰金七(だざいきんしち)の両名で情報を収集させる。彼らは「忍び」だという。ある意味、こんなに堂々と名前がバレても平気なのか?とも、思わなくもないが。

彼らの活躍の成果により、政宗は、1週間前には反伊達連合軍の動きを把握。同時に、敵軍の陣内に柳原戸兵衛(やなぎはらとへえ)と世瀬蔵人(よせくろうど)らを放つ。彼らは早期から侵入し、数々の流言、あらぬ噂話を広めたのだとか。「求む拡散」という感じだろうか。

かくして、全ての歯車がカチッと噛み合わさったとき、奇跡は起こるのだろう。最初に離脱したのは、反伊達連合軍の筆頭である佐竹義重。自領が侵攻を受けるとの情報を受け、陣払いに踏み切る。そうすると、次々に自然と流れは解散の方向に。「だったらうちも」「いや、うちこそ」と、こぞって「me too」の嵐である。こうして、明け方には3万の兵は跡形もなく消えていたのである。

これが「人取橋の戦い」の真相、隠密集団「黒脛巾組」の暗躍の舞台裏だったのである。

じつは、彼らには、このあとも重要な任務が待っていたという。「摺上原(すりあげはら)の戦い」や「郡山合戦」。これらの戦いで勝利できたのは、ひとえに彼らの情報戦があったからだとか。

隠密集団だからこそ、確たる証拠はない。
けれど、「奇跡」で片づけるには、あまりにも口惜しい。だって、こんなにもドラマティックで鮮やかな幕切れは、そうそうないのだから。

さて、最後に1つだけ。
個人的で申し訳ないのだが、気がかりなコトが。
それは、「黒脛巾組」のメンバ―の名前。世瀬蔵人(よせくろうど)だなんて。なんとも、俳優の芸名みたいにカッコいいではないか。本名?偽名?

それにしても、黒革なんぞを脛に当て、さっそうと走り去る影の集団。
それこそ、裏稼業だなんて、口惜しい。

参考文献
『あなたの知らない戦国史』 小林智広編 辰巳出版株式会社 2016年12月
『戦国合戦地図集』 佐藤香澄編 学習研究社 2008年9月
歴史人2016年10月号『戦国合戦の一部始終』岩瀬佳弘編 KKベストセラーズ 2016年9月
新・歴史群像シリーズ19『伊達政宗』小池徹郎編 学習研究社 2009年6月
『伊達政宗』 小林清治著 吉川弘文館 1959年7月
『独眼竜の野望 伊達政宗の生きざま』 晋遊舎 2013年12月

書いた人

日本各地を移住するフリーライター。教育業界から一転、ライターの道へ。生まれ育った京都を飛び出し、北海道(札幌から車で4時間、冬は-20度)で優游涵泳の境地を楽しむ。その後は富山県、愛知県へと流れつき、馬車馬の如く執筆する日々。戦国史、社寺参詣、職人インタビューが得意。