戦国時代の幕開けのきっかけともいわれる「明応の政変」。それを引き起こした人物が、細川政元(ほそかわ まさもと)である。「応仁の乱(1467~1478年)」で東軍の総大将だった管領・細川勝元(ほそかわ かつもと)の子で、「半将軍」と呼ばれるほど権力を持った人物だ。しかし、彼は江戸時代に「戦国三大愚人」の一人に数えられるほど奇行が多かったことでも知られている。一体どのような人物だったのか、その素顔に迫っていきたい。
「聡明丸」という名の通り、聡明な子だった政元
1466(文正元)年、室町幕府における三管領の一家・細川家の嫡男として生まれた政元。幼名を聡明丸(そうめいまる)と言い、その名の通り非常に聡明な子だったそうだ。父・勝元は「この子がいれば細川家は安泰である」言い残し、この世を去ったとの言い伝えもある。
政元は、応仁の乱の真っ最中に父・勝元を亡くし、わずか8才で家督を継いだ。さすがに幼すぎたため、管領に初めて任じられたのは21才。しかし、たった9日で辞職してしまう。既にこの頃から少し風変わりな人物だったようだ。
「明応の政変」を起こし、日本を戦国の世に導く
「明応の政変」とは、1493(明応2)年に政元が起こしたクーデターのことだ。この政変を、戦国時代の幕開けとする説も多い。
このクーデターでは、政元が10代将軍・足利義材(あしかが よしき、後の義植〈よしたね〉)を追放し、代わって足利義澄(あしかが よしずみ)を11代将軍として擁立した。義澄はお飾りの将軍で、実権は政元が握ることに。このクーデターで政元が築いた権力者の立場は、後に三好長慶や織田信長などの戦国武将へ引き継がれていくこととなる。
このため、政元が戦国時代の幕を開けた人物とも言われているのだ。
女性を一切寄せ付けなかった政元
武家の家督を継いだ者にとって、世継ぎをつくることは重要な使命だった。しかし、政元は女性嫌いというレベルの話ではなく、一切女性を寄せつけない「生粋の男色家」だった。
当時武士が男色を嗜むのは当たり前のことだったが、それでも妻をもち、子孫を残すのが務めである。お家存続に関わる重要なことに全く関心をもたなかった政元は、変わり者と思われても仕方ないだろう。
女性を受け付けなかった政元は3人の養子を迎え、このことが後に大きな家督相続問題を引き起こすこととなる。政元はこの家督争いが引き金となり、暗殺されてしまった。
天狗になりたくて!?政治より修験道や魔法にハマる
政元には興味深い話が残っている。修験道という、山にこもって悟りを開く修行に没頭したり、天狗になりたくて空を飛ぶ練習をしたり、魔法の練習をしたりしていたというのだ。
しかし、単にこれを趣味と捉えることはできない。越後の修験道のルートを利用して、越後守護の上杉氏のもとへ向かい、後援を得るためだったとも考えられる。
政元は、修験道や天狗修行のために旅に出てしまうことがあり、しばしば幕政が混乱した。このことが周囲をイライラさせ、「愚人」と呼ばれてしまう原因となったのではないだろうか。
時代を切り開く男は「愚人」なのか
時代を大きく変えた男、細川政元。「戦国三大愚人」と不名誉なグループ分けをされてしまうこともあるが、あの織田信長も大うつけ呼ばわりされていたことを考えてほしい。一般的に真面目なことは良しとされ、破天荒で自分に正直に生きる者は否定されることが多いだろう。しかし、政元や信長のように、誰かが突破口とならなければ歴史は動かないのではないだろうか。それに「馬鹿と天才は紙一重」という言葉もあるように、実際に彼らは普通ではない武の才を持っていたのだ。
愚人と呼ばれた政元がいなければ、信長も秀吉もいなかったかもしれないし、今の日本の姿もなかったかもしれない。
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天魔ゆく空(上) (講談社文庫)
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