Culture
2020.06.25

「ない」の聖地・埼玉。没個性の秘密を江戸時代にみーつけた!

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何か誇れることはないかと聞かれれば「東京に近い」などと言い出す埼玉。それは「場所の目安」であって「誇り」とは違うのではないか。以前、埼玉出身という話をしていたら、「横浜に近くていいですね」と言われたことがある。いや、横浜には近くない。埼玉は栃木、群馬、茨城、千葉、東京、山梨、長野の7都県に隣接しているが、神奈川には隣接していない。

そんな埼玉だが、「独自色がない」「郷土愛もない」ともよく言われている。「こだわりがない」というか、ある意味どこにでも溶け込みやすい県民性ゆえだと思うのだが、この「没個性」な気質がどのように育まれてきたのかを探ってみたい。

今も昔も埼玉は通過点?

現在の埼玉県全域、東京都と神奈川県の一部を合わせた「武蔵国」が制定されたのは633年頃だと考えられている。そして平安末期になると、武蔵国や相模、常陸といった坂東(現在の関東地方)では坂東武者が台頭し、「名こそ惜しけれ」の精神とともに名を馳せ、多くの戦場で手柄を挙げていく。

坂東武者の活躍と時を同じくして開かれた鎌倉幕府では、何かあれば武士たちは「いざ鎌倉」を合言葉に、鎌倉へ集結。鎌倉までの通り道として、数々の武者が今の埼玉エリアを通り過ぎたのだった。ところで筆者は埼京線のホームにて「この電車、横浜に行きますか?」と聞かれたことがある。残念ながら埼京線は人気オシャレスポット・横浜には停車しないので、横浜に停車する別の路線を案内した。それと同じように(?)「この道行けば鎌倉に着きますか?」と聞かれた市井の人が、武蔵国にもいたかもしれない。

没個性は江戸時代の幕開けとともに

武蔵国の中で、現在の埼玉県域のことを「北武蔵」と呼ぶ。関ヶ原の戦いのあと、敵対した大名を改易、減封し、全国支配の体制を固めた徳川家康は、特に北武蔵に近親者や家臣を配置し、関東支配を強化していく。支配の過程で北武蔵の城は統廃合され、最終的には川越城、忍城、岩槻城の3城が残る。この「武蔵三藩」の藩主は、老中をはじめ、幕閣の中心となる人物を輩出するなど、いずれも次々と幕府内で出世し、北武蔵は江戸幕府への出世街道となっていた。

埼玉県行田市にある忍城(おしじょう)本丸跡

しかし、藩主が相次いで幕閣に採用され江戸に入るということは、領民側からすれば藩主に馴染む暇もなく、トップが交代する状態。現代で言えば、新しい上司が着任したと思えばすぐ異動になるようなもので、そうした中「独自のカラー」を出すのは、難しい状況だったのではないか。

嫌いじゃないけど……郷土愛最下位

幕藩制の安定期と呼ばれる江戸末期。北武蔵の大名領(藩領)は川越、忍、岩槻、久喜、岡部の諸藩だったが、これら諸藩は城という本拠地のほか、あちこちに点在する領を所有。加えて天領、旗本領、寺社領が入り組み、かなり複雑な所領関係となった。これが「細切れ支配」「モザイク支配」と言われる要因でもある。領地は点在してまとまらないうえ、領主権は弱められ、結果として領民側も領民意識が低くなり、両者の関係は希薄なものとなった。

まさに「47都道府県中、郷土愛最下位」の源流とも言える関係が、江戸時代には、すでにできあがっていたということになる。領土からしてまとまってないのだから、当時なら「領土愛」とでもいうのだろうか、そういった「地元への愛着」が芽生える土壌が育まれなかったのも、無理のない話である。

米将軍吉宗の新田開発時代

正徳6(1716)年、7代将軍家継が幼くして病死、その後を継いだのが名君の誉れ高い、紀州徳川家藩主の8代将軍吉宗である。当時、元禄の栄華や明暦の大火で幕府は財政難に陥っていたが、吉宗は大奥の縮小など、自らも倹約して財政危機の解消に努める。また、大岡忠相(ただすけ)といった有能な官僚を採用。忠相らの意見によって享保9(1724)年、諸物価引き下げ例を出し、商人の仲間組合を作らせ、生産価格の高騰を抑えるといった「享保の改革」を進めていった。さらに「米食い都市」江戸の穀倉地帯として、北武蔵での新田開発に力を注いだのも吉宗である。これは当時の埼玉の農民生活に大きな影響を及ぼした。

北武蔵には「日照りには凶作なし」という言い伝えがあった。水に恵まれているので、日照りでも渇水の心配がない。しかし恩恵を受ける反面、利根川、荒川に沿った地域では絶えず水害に悩まされてきた。吉宗は北武蔵の豊富な水資源を有効活用しようと新田開発したものの、もともと出水の多い地域を開発したことにより、寛保2(1742)年の台風では甚大な被害をもたらす。「享保の改革」で持ち上げられる吉宗に対して、「飢饉と不況をもたらしただけ」という、手厳しい感情があるのも事実だ。

今も昔も大都市を支える衛星都市、埼玉

江戸のために産物を供給し、江戸を水害から守るために、利根川や荒川などの河川工事を引き受け、新田開発により幕府を支える穀倉地帯と呼ばれ……。こうして振り返ると現代の「埼玉⇔東京の関係」とあまり大差がないように思える。昔も今も変わらず、「生産地埼玉」が陰ながら支えているからこそ、「消費地東京」は大都市としての機能と役割を果たせているという構図が浮かぶのではないか。確かに特別個性的な県民ではないかもしれないが、舞台裏の人間というのは目立つことを好まないものだ。

東京スカイツリーから都心を見下ろす埼玉県民の筆者

「独自色がない」――大いに結構。これからも無色透明変幻自在の水のように、飄々と大都市に寄り添い、堂々と「東京に近いです」と宣言しよう。

<参考>
吉宗の時代と埼玉/秋葉一男