もしや拙者、騙された?定価の8倍でガトリング砲を購入した長岡藩家老・河井継之助

もしや拙者、騙された?定価の8倍でガトリング砲を購入した長岡藩家老・河井継之助

目次

戊辰戦争は「珍兵器の見本市」だった。

もちろん、のちの兵器史に直接的な影響を与えたものもある。しかし中にはアメリカやヨーロッパで「ダメ兵器」と烙印を押された代物も大量に混ざっていた。もっと言えば、それらの兵器を日本に押し付けたのだ。

代表的なのはガトリング砲である。

長岡藩の家老河井継之助が戦場に投入したことでよく知られているこの兵器は、実は曰く付きのものでもあった。もしかしたら、河井は騙されていたのかもしれないのだ。

戦争の早期終結を目指したガトリング博士

ガトリング砲は、その名の通りアメリカのリチャード・ジョーダン・ガトリングという発明家が開発した製品である。

彼は医学博士号を取得しているため、以下「ガトリング博士」と呼称する。

ガトリング博士は様々な職業を経験していて、同時に様々なものを発明している。その中で一番出来の良かった製品は種蒔き機だった。のちに彼は自身の発明した種蒔き機から、さらなるインスピレーションを得ることになる。

1861年、アメリカは真っ二つに分裂した。南北戦争が勃発したのだ。ガトリング博士は、この戦争にあることを見出した。「兵士たちは銃弾に当たって死ぬよりも病気にかかって死ぬ可能性のほうが高い。戦病死者が増えるのは戦争が長引いているからで、故に戦争は一刻も早く終わらせなければならない。ならば、ひとりで100人を殺せるような兵器を作れば戦争は早期に終結し、結果として死者は少なくなるはずだ」

現代人から見ると相当にぶっ飛んだ発想だが、連発銃や機関銃が戦争を早く終わらせるという理論は第一次世界大戦の頃まで提唱されていた。その上、20世紀にアレキサンダー・フレミング博士がペニシリンを開発するまでは銃弾に当たって死ぬ兵士より感染症で死ぬ兵士のほうが圧倒的に多かった。ガトリング博士は平和のため、種蒔き機の設計を応用した新兵器を開発することにした。

機関銃もしくは機関砲に近い兵器は、既に存在していた。1718年にジェームズ・パックルというイギリス人が開発したパックル砲は、9連シリンダーを装着する機構で矢継ぎ早に連発できる仕組みだった。主に拠点防衛を想定した設計思想のパックル砲だが、150年後に生まれるガトリング砲もほぼ同様のコンセプトだ。ガトリング博士がパックル砲を意識したわけではなく、機関砲はどうしても大型化するから拠点に備え付けて運用するしかない。

また、ガトリング砲の発明よりも10年前にベルギーでミトラィユーズという連発火器が登場している。しかしガトリング砲がこれらの兵器と違うのは、1分間に200発の砲弾を発射できる点だ。6本の銃身がひとつの束になり、手回し式クランクを動かすことで各銃身への給弾・装填・発射・排莢を自動的に行う。

生産工場が焼失!

当時の歩兵銃は、1発撃つ度に再装填しなければならない単発銃が主流だった。

先込め式、元込め式の違いはあるにせよ、基本は1発1発の装填&発射。その中で大量の砲弾を周囲にばら撒くガトリング砲は、まさに戦場の脅威と化した……はずだった。

兵器製造企業を立ち上げたガトリング博士は、6門目のガトリング砲を完成させたところで災難に見舞われる。何と工場と製品が火災で焼けてしまったのだ。それに懲りず、ガトリング博士は13門のガトリング砲を追加生産したが、結局は北軍の将官が私費で購入するに留まった。

とりあえずこの13門は売りさばくことができたからよかったよかった……ではない。北軍即ち合衆国軍がガトリング砲を制式採用したのは、南北戦争が終わったあとのことだった。「ガトリング砲で戦争を早期終結させる」というガトリング博士の願いは叶わなかった。

ところが地球の裏側で、彼の発明品は高値で売却されることになる。

1門1000ドルなのに……

長岡藩は、幕末諸勢力の中でも特異な存在だった。

欧米の武器商人との太いパイプを持ち、新政府軍にも劣らないレベルの最新兵器を揃えていた。冒頭の河井継之助は、当時日本に3門しかなかったガトリング砲のうち2門をアメリカの武器商人スミスから買い上げてしまった。それだけ藩の重武装化に注力していたということだ。

しかし、この買い物が果たして賢いものだったか否かは別の話。

というのも、ガトリング砲M1862のアメリカでの価格は1門1000ドルだが、河井はこれに8000ドルも出してしまったのだ。買ったのは2門だから計1万6000ドルである。詐欺のような取引だ。この額を提示したスミスという男は、さぞや笑いが止まらなかったに違いない。

しかもこのガトリング砲、南北戦争では殆ど活躍できなかった。

歩兵銃の進化と共に、歩兵はナポレオン戦争期のような密集隊形ではなく、ひとりひとり散開する隊形を実施するようになった。その上、ガトリング砲は砲手が立脚した状態で操作する兵器。その場に伏せたり蛸壺に入れたりしなければ、真っ先に砲手が狙撃されてしまう。

この欠点は、もしかしたら北越戦争でも露呈したかもしれない。

当初は新政府軍と幕府軍との調停役になることを模索していた長岡藩だが、新政府軍はそれを許さなかった。戦略上の問題から新潟を制圧する必要が新政府軍にはあったのだ。

この戦いは、結果として大激戦になった。河井継之助は自らガトリング砲のクランクを握り、押し寄せる新政府軍の兵士を次々になぎ倒したという記録がある。しかし、それを以て「ガトリング砲が長岡で大活躍した」とするのはまた違うようだ。小説やドラマでは、まさに鬼神の如き威力を発揮するのだが……。

コスパの悪い兵器だった?

長岡藩は新政府軍に対して食い下がったが、それはガトリング砲の威力によるものではないというのが一般的な説である。

そもそも、本体に砲架と弾薬を加えたら100kg以上の重量があるガトリング砲を、どう持ち運ぶのかという問題がある。気軽に移動させられるものではないし、散開する敵兵に回り込まれでもしたら終わりだ。何とかガトリング砲が活躍した場面はないものかと筆者はいろいろ史料を探ってみたが、結局は局地的な戦果しか挙げられなかったようだ。正直、1門8000ドルに見合う成果とはとても言えない。あ、河井ファンの皆さん怒らないで。

このように、戊辰戦争は欧米諸国からすれば「不要になった兵器の捌け口」という側面もあった。故にその頃からの珍兵器が今も日本各地に、しかも大量に眠っているのだが、それについてはまた次の機会に解説したい。

トップ画像左:国立国会図書館/右:Wikimedia Commons

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