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2020.07.23

熱烈ファンと結婚した「明治の会いに行けるアイドル」あやちゃんは、現代アイドルの先駆け!?

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明治時代に「会えるアイドル」がいたのをご存じですか?

そのアイドルの名前は、竹本綾之助(たけもと あやのすけ)。
明治20(1887)年、まだ舞台に女性が立つことがなかった時代に、12歳で娘義太夫(むすめぎだゆう)の太夫としてデビューしました。

三味線の伴奏に合わせて物語を語る義太夫は、現在の「朗読ライブ」のようなものかもしれません。(たとえが無茶すぎる?) 
東京の娘義太夫界の女王と仰がれ、ファンからは「あやちゃん」と呼ばれていた竹本綾之助。彼女が寄席で義太夫ライブをするとなると、彼女目当てのファンが押し寄せるだけではなく、「堂摺連(どうするれん)」と呼ばれる追っかけもいたそうです。

竹本綾之助は、24歳の時、結婚・引退。しかも、結婚相手は熱烈なファンの一人でした。
竹本綾之助は、日本のアイドル史の先駆者的な人生を送ったのです!

そもそも、「娘義太夫」って何?-娘義太夫の歴史-

ところで、「義太夫」って、ご存じですか?
おそらく、「義太夫?何それ?」という方が多いのではないでしょうか。
「義太夫」「義太夫節」とは、三味線を伴奏にして、太夫が物語を語る音曲(おんぎょく)の総称です。

もしかしたら、私のように歌舞伎好きの方ならば、「歌舞伎の舞台の横で、三味線の伴奏で、独特の節をつけて歌舞伎の物語を語っているのが義太夫だよね。竹本とも呼ばれているよね?」とイメージすると思いますし、文楽が好きな方でしたら、「三味線の伴奏で太夫が語る義太夫節の浄瑠璃に合わせて,三人遣いの人形が操られているよね」とイメージするかもしれません。

義太夫の誕生

義太夫の誕生は、竹本義太夫が大坂・道頓堀で人形浄瑠璃(文楽)を上演する竹本座を開創した貞享元(1684)年とされています。竹本播磨少掾(たけもと はりまのしょうじょう)・豊竹越前少掾(とよたけ えちぜんのしょうじょう)をはじめ、多くの名人を輩出し、現在も上演される「菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)」「仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)」などの名作を続々と発表し、義太夫節の芸を完成させました。

竹本座は、18世紀の中頃(享保末から宝暦頃)には、元禄16(1703)年に創設された豊竹座とともに人形浄瑠璃の全盛期を築き、歌舞伎を圧倒していたのですが、その後、歌舞伎の隆興に押されて人形浄瑠璃は衰え、明和4(1767)年、竹本座は廃座となりました。
 

歌川豊国(3世)「二十四好今様美人 義太夫好」 国立国会図書館デジタルコレクション

江戸でブームとなった「女浄瑠璃」とは

「女義太夫」とは女性の義太夫節語りのことで、「女流義太夫」、略して「女義(じょぎ)」とも呼ばれます。また、多くは若い娘が演者となって語ることから、「娘義太夫」とも呼ばれます。
義太夫節は男性が語るのを原則としますが、江戸時代の文化・文政頃から女義太夫が流行して、素人受けするさわりの部分を語りました。

明治以降は、「女義太夫」「娘義太夫」などと呼ばれていますが、江戸時代は「女浄瑠璃」とも呼ばれていました。江戸中期以降、浄瑠璃界の主流は竹本・豊竹の二派が占めます。女性の太夫も、このいずれかを名乗りました。

文化2(1805)年以降、風俗を乱すという理由で、女浄瑠璃も禁止されましたが、人気は一向に衰えません。天保8(1837)年秋には『娘浄瑠璃芸品定(むすめじょうるりげいしなさだめ)』という評判記が出版されるほどもてはやされました。
幕末まで、たびたび女浄瑠璃の禁止令が出されます。天保の改革では、女性芸人が禁止され、36人が投獄されました。

明治になって、娘義太夫ブーム、復活!

明治10(1877)年、「寄席取締規則」が改正され、女芸人が寄席へ出られるようになると、女義太夫のブームが出現します。
 

朝倉盧山人著『娘義太夫』(一二三館 1896年)口絵 国立国会図書館デジタルコレクション

明治の後半期には、大阪の豊竹呂昇(とよたけ ろしょう)、東京の竹本綾之助によって、女義太夫は空前の人気を博します。

竹本綾之助の少女時代

明治時代の人気アイドルだった女義太夫の太夫・竹本綾之助の本名は、石山園と言います(名前を「その」「薗」とする資料もあります)。明治8(1875)年6月10日、大阪で金銀細工を行う錺屋(かざりや)・石山源兵衛の三番目の子として生まれました。

源兵衛の妹・お勝は、早くに夫と死別して子どもがいなかったこともあり、源兵衛に頼み、お園が6歳の時に養女として貰い受けました。
お園は幼少の頃から浄瑠璃に才能を見せ、義太夫の芸を身につけていきました。お勝自身は「鶴勝(つるかつ)」と名乗り、義太夫の三味線ひきになりました。

子どもの頃のお園は、後の「娘義太夫の女神・竹本綾之助」というアイドル姿からは想像することができない、五分刈で男の子のような恰好をした腕白者だったとか。男の子のように竹馬に乗って遊ぶお園を、養母のお勝は小言も言わずに、ほおっておいたそう。
そんな、元気はつらつでやんちゃなお園には、仰天するようなエピソードがあったのです!

エピソード1・ご褒美にお酒が飲みたい!?

お園が7歳の頃、近所に新助という義太夫の師匠がいて、お園を非常にかわいがっていました。新助がお園に義太夫のサワリを語って聞かせるうちに、お園はいつしか義太夫好きになり、次第にその真似をするようになりました。お園は記憶力もよく、子どもとは思えないほど達者に義太夫を語る様子を見た新助は、本格的に「由良(ゆら)の港の山別れ」の稽古をつけました。たちまち達者に語るようになったお園を、新助は自慢がてら、あちこちに連れまわし、お園に義太夫を語らせたのでした。

ある日、「由良の港の山別れ」を一段語り終えた後、お園は、
「ご褒美のかわりに、お酒が飲みたい」
と言い、灘の銘酒を5合ほど飲んで見せたのだとか。列座の人々も、そんなお園の様子に舌を巻いたそうです。

エピソード2・素人稽古会に殴り込み?

これも、お園が7歳の時のエピソードです。

大阪・新町のある茶屋に、素人義太夫の稽古会がありました。素人といっても、義太夫の生まれた土地で鍛錬した自信満々の旦那衆の集まりで、さらに、後見役に師匠筋の太夫や三味線ひきを揃え、衣裳や小道具にも贅を尽くしていたのです。
そこに、普段着の男の子の姿で飛び込んだのが、お園。
「自分も一段語りたい」
と言うと、おもしろがった人々はお園をからかって
「そんなに仲間入りがしたければ、三味線弾きをつれておいで」
と答えます。
お園は、あたりを見まわして一人の師匠を指さすと、師匠は、お園の振る舞いに怒りもせず、にこにこしながら「鈴が森」を弾いてくれましたのですが、実は、その人こそ当時の名人・竹本住太夫(たけもと すみたゆう)だったのです!
住太夫はお園の胆気と語り口の奥床しさにほれこみ、「自分の跡を継いでくれる者が見つかった!」と喜び、お園を養子に貰い受けたいとお勝に申し出たのです。
しかし、男の子だと信じていた子どもが女の子だとわかると、住太夫は非常に失望して悔しがったとか。それでも、住太夫は、心を込めて、お園に義太夫を教えたそうです。

東京に進出して、大ブレイク

明治18(1885)年、お園が11歳の時、養母・お勝と一緒に、日本橋久松町で医者をしていた平井という親戚を頼って上京します。
ある晩、平井が近所の人を大勢よんでお園に義太夫を語らせた時、浅草猿若町にある市村座の座主も聞きに来ていました。子どもに似合わないお園の語り口に感嘆し、市村座の座主は、お園を舞台に立つよう、手はずを整えたのです。

竹本玉之助の名前でデビュー

お園は、浅草の寄席・文楽(ぶんらく)座に竹本玉之助の名で出演し、美声を披露しました。
 

「娘義太夫の竹本京子と京枝」(『風俗画報』明治32年3月号) Wikimedia Commons)
綾之助が「竹本玉之助」の名でデビューした頃の女義太夫界の大看板は、竹本京枝(たけもと きょうし)でした。

文楽座への出演がきっかけとなり、玉之助は竹本綾瀬太夫(後の5代目竹本土佐太夫)に入門、稽古をしてもらうことになりました。芸名を改める段になると、玉之助は、
「お師匠さん、私はあなたの綾の字を一字いただいて、綾之助とつけますよ」
と自分勝手に竹本綾之助と改名したのです!

真打昇進

竹本綾之助は、デビューするとすぐにアイドルとして人気を集めます。
明治19(1886)年頃、両国の寄席・新柳亭で真打に昇進。その頃の綾之助は、五分刈り頭の男の扮装、凛々しい目つきと愛らしい口元は、絵にかいた牛若丸のようだったとか。綾之助に贈られた初真打の高座の後幕は張りきれないほどの数で、幾枚も幾枚も振り落として掛け替えられたそう。

新川にある酒問屋・藤田の主人は、綾之助贔屓のあまり、鉄道馬車の中に広告を出して非常に注目を集めました。

役者の似顔絵で知られていた人形町の絵双紙屋の具足屋では、「名物人気揃」と題して、落語家で人情噺の名人・三遊亭円朝や義太夫節の全盛期をもたらした明治の名人・2世竹本越路太夫(後の竹本摂津大掾(せっつのだいじょう))と並べて、綾之助の似顔絵を摺り出しました。そこには、
「綾ちゃんは今年十二だが大人も跣足(はだし)で真の麒麟児だね」
と、竹本綾之助は「今年でまだ十二歳だが、大人もかなわないほど優れた芸を持つ子ども」だと書かれていたのです!

「東京自慢名物会」「三住家勝冶郎」「調製本舗 倉田屋 小峰文次郎」「竹本綾之助 藤田その」「見立模様神田明神画革」 明治29(1896)年 東京都立中央図書館特別文庫室

元祖アイドル・竹本綾之助

綾之助が寄席に出演すると、その八丁四方が不入りとなるので「八丁荒し」「八丁饑饉」の異名をとるほどでした。

美貌と美声に恵まれた竹本綾之助は、学生たちの絶大な人気を誇っていました。竹本綾之助は、明治20年代の東京の女義太夫全盛時代を築いたスターだったのです! 綾之助のスケジュールは、正月から12月まで、1年のすべてが埋まっていたと言われており、まさに、元祖アイドル並みのハードスケジュールでした。

作家・長谷川時雨は、当時の様子をこのように書き残しています。

十四、十五と花の莟(つぼみ)は、花の盛りに近づいていった。明治23年には十六歳となった。女義界の綾之助は桜にたとえられた。それと同時にこれも売出しの若手に越子は藤の花、やはり男髷の小土佐は桃の花と呼ばれ、互に妍(けん)を競い人気を争った。

当時、竹本綾之助、竹本越子、竹本小土佐といった娘義太夫の太夫たちが、花々が咲き誇るように芸と美を競い合っていたことがわかります。

明治24(1891)年には東京一の人気者(アイドル)として『東京女義太夫芸評』(旭峯居士、傘の台主人著 博盛堂)、『女義太夫名花評判記: 東都芸苑』(芳州情史著 紅楼)などでも高く評価されるようになります。
 

竹本綾之助(『東京女義太夫芸評』より) 国立国会図書館デジタルコレクション

劇評家、著述家の岡鬼太郎(おか おにたろう)も綾之助の美声を認め、明治30(1897)年11月16日の『報知新聞』で、「寄席芸人中、一等の人気」と評しています。また、綾之助の写真(現在のブロマイドのようなもの)が大いに売れたそう。

竹本綾之助の追っかけ「堂摺連」とは?

明治の後半期には大阪の豊竹呂昇、東京の竹本綾之助によって、娘義太夫は空前の人気を博しました。
実は、当時の娘義太夫の聴衆は、芸の鑑賞よりも、自分たちの「推し」である10代から20代前半の義太夫語りが、見台に手を当てて張りあげる美声に日本髪がほつれ、華美なかんざしがゆらめく濃艶な容姿に熱狂したのです! そして、佳境になると、客席から拍手とともに「どうする、どうする」の声がかかりました。

ファンの多くは書生や青年たちで、「どうする、どうする」と奇声をあげることから、「堂摺連」と呼ばれ、彼らは推しが出没する寄席から寄席へと追いかけ回したのです。彼らは、自分たちの推しが出演する寄席には、遠くても、雨が降ろうと雪が降ろうと出かけます。推しの人力車に随従して人力車で追いかけるだけではなく、熱狂的な者は推しの人力車の轅(ながえ)につかまったり、人力車の後押しをしたり、前へ立って駆け出したりする者もいたとか。

学生の仲間にも、ファンの各党派がありました。綾之助党は三田の慶応義塾と芝の攻玉舎の生徒が牛耳をとっていました。

ファンと結婚して引退するも、10年後に復帰

明治31(1898)年、竹本綾之助は貿易商の石井健太と結婚し、義太夫界から引退しました。
綾之助の夫となった石井は、デビューしたての12歳の頃の綾之助の姿を知っている長年のファンでもあったのです! それは、石井が慶應義塾に在塾の時でした。

結婚までの長い道のり

石井は、慶應義塾を卒業した後、三田聖坂(ひじりざか)に一戸をかまえて、横浜の貿易商に支配人として雇われました。
二人は、いつしか密かに愛をはぐくみ、それを知った石上福次郎――彼も綾之助のファンであり、石井の友人の弟でした――は、群馬県安中にいる石井の両親が選んだ許嫁のあったのを破約にさせるよう、骨を折ったのです。

次第に、綾之助に恋人がいることが噂に立つようになり、綾之助の高座に悪戯をする者も出てきた中、石井は仕事で一旗揚げようと、先に渡米していた石上福次郎を頼ってアメリカに行くことになりました。

石井が不在の間、綾之助はどのように過ごしていたのでしょうか?
綾之助は、飛ぶ鳥も落とす人気の娘義太夫の太夫でした。表向きは人気太夫として華やかな生活を送る一方、石井の帰国を待ちわびながら過ごしていたのです。忙しい間をぬって石井宛に手紙を書き、将来のために、裁縫などを習ったり、花嫁修業もしていたそうです。

5年後、アメリカで成功して帰国した石井を、23歳の綾之助が出迎えました。
二人はすぐにでも結婚したかったのですが、人気の綾之助が出る寄席は満員御礼、大入り繁盛だったことから、寄席組合からの懇願もあり、綾之助の引退は1年先に引き伸ばされることになったのです。

母親になった綾之助

綾之助は、さだ子、いと子、ふじ子という三人の娘の母親となりました。娘たちは、母の美しさと父の秀いでたところをとって生れたそう。二人の間には長男も誕生したのですが、残念ながら長男は早くに亡くなってしまいます。
また、石井は、明治33(1900)年頃の相場の不況で、事業に失敗。幼い娘をかかえて苦しい時期もありましたが、二人で力を合わせて乗り越えたそうです。

竹本綾之助がカムバックするも、女義太夫ブームは終焉

日露戦争後、琵琶や浪花節が流行するにつれて女義太夫は衰退。
竹本綾之助は、明治41(1908)年、女義太夫にカムバック。明治43(1910)年、女義太夫再検討を図って「藤菱会(ふじびしかい)」を組織しましたが、昭和2(1927)年秋をもって、演奏活動を中止します。

大正12(1923)年の関東大震災後は凋落の一途をたどります。さらに、第二次世界大戦で、女義太夫は公演の場を失い、絶滅の危機に瀕しましたが、竹本素女(もとめ/1966年没)の尽力によって復興、昭和26(1951)年以降、定期公演を続けています。
現在は義太夫節保存会が重要無形文化財に指定されています。

小説のヒロインになった竹本綾之助

初代竹本綾之助こと石井園は、昭和17(1942)年1月31日、68歳で亡くなりました。引退後の綾之助がどのように生きたのか、詳細は不明です。

そして、明治のアイドル・竹本綾之助が主人公の小説があるのをご存じでしょうか? それは、松井今朝子さんの小説『星と輝き花と咲き』(講談社)で、思いがけずアイドルとなっても芸の道を進もうとする竹本綾之助が、追っかけの書生・石井健太と恋に落ち、妊娠・結婚・引退するまでが描かれています。

この記事を読んで、初代竹本綾之助、娘義太夫に興味を持った方は、この小説を読んでみてはいかがでしょうか。

主な参考文献

書いた人

秋田県大仙市出身。大学の実習をきっかけに、公共図書館に興味を持ち、図書館司書になる。元号が変わるのを機に、30年勤めた図書館を退職してフリーに。「日本のことを聞かれたら、『ニッポニカ』(=小学館の百科事典『日本大百科全書』)を調べるように。」という先輩職員の教えは、退職後も励行中。