Culture
2020.08.18

明暦の大火とは。少女の恋が原因だった?江戸を焼き尽くした大火事のミステリーに迫る

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明暦三(1657)年、1月18日から20日にかけて、江戸市内の大半を灰燼にした大火事があった。その名も、明暦の大火。俗に「振袖火事」と呼ばれ、2日間にわたって江戸の町を燃やし、およそ10万人の死者を出した江戸時代最大の大火災だ。
歌舞伎や浄瑠璃、浮世絵でも有名なこの火災、じつは恋の病でこの世を去った娘の振袖が原因だったとか。その真相はいかに?

出火原因は誰の恋?振袖火事にまつわる逸話

明暦の大火、いわゆる「振袖火事」には、たくさんの逸話が残されている。火事の原因とされる問題の振袖は、娘の死んだ棺に入っていたものだとか、事の発端となった上野の花見で娘が着ていたものだとの説もある。

振袖の持ち主とされる主人公の名前もじつにさまざまだ。
江島屋の娘といわれることもあれば、真田屋の娘とされることもある。娘たちの名前も菊、花、梅野など花の名前があてがわれていたり、他にも、きの、いく、たつ、などなど。

いろんな話を比べてみるだけでも十分に面白いのだが、すべてを紹介ことはできないので、今回はごく一般的に知られている「振袖火事」のお話を紹介しよう。

上野の花見でひとめぼれ。届かなかったお菊の想い


それは春のことだった。
浅草諏訪町の大増屋十右兵衛の一人娘、お菊は上野の花見へ行った帰りに、寺小姓の美少年にひとめぼれをしてしまった。それからというもの、お菊は食事ものどを通らず、寝ても覚めても寺小姓を想う日々。

ある日、お菊はせめてもの慰めにと、かの美少年が着ていたのと同じ模様の振袖を作ることにした。それでも想いはつのるばかりで、ついには病に臥せ、恋しい相手に会うこともできず、明暦元年1月16日、16歳(17歳とも)の若さでこの世を去ってしまうのだった。

娘たちに不幸を招く呪われた振袖


娘の気持ちを憐れんだ両親は、お菊の棺に振袖をかけて、本郷丸山の本妙寺に葬った。35日の法事が済むと、住職はお菊の振袖を古着屋に売ってしまった。こうして振袖は持ち主を変えながら次々と不幸を運んでいくことになる。

死んだお菊の振袖を最初に手に入れたのは、本郷元町の麹屋吉兵衛の娘、お花だった。お花は、古着屋で見つけたこの振袖に心を引かれて両親に買ってもらったのだ。しかし翌年、お菊と同じ1月16日に16歳で病死する。
お花の葬式は本妙寺で執り行われ、これまた振袖が寺に納められた。法事が終わり、振袖は再び古着屋の手を経て、今度は中橋の質屋伊勢谷五兵衛の娘にわたるのだが、彼女も2人の娘と同じく翌年の1月16日に16歳で亡くなってしまう。

どうもこの振袖はおかしい。
振袖によってもたらされる不思議な因縁に恐ろしくなった住職は、供養をして振袖を焼き払うことにした。

明暦3(1657)年1月18日。和尚が読経しながら振袖を火に投じると、突如として一陣の強風が吹き荒れた。すると、火のついた振袖は火の粉を散らしながら舞い上がり、本堂はあっというまに火柱になってしまったという。火はどんどん広がっていき、江戸の市内をも燃やしつくした。

カラカラの天気。ぐんぐん広がる火。大パニックの江戸


ところで、どうして振袖は舞い上がってしまったのだろう。娘の妄執が不思議な霊力を働かせたのだろうか。そうかもしれないし、あるいは、当時の天候も関係していたかもしれない。

明暦の大火が起こったその日、江戸は前日からの北西の強風が吹いていた。そのうえ、江戸の町は明暦2年の11月から翌年3年1月にかけて、80日近くも雨が降っていなかった。一滴も雨が降っていないカラカラの天気に、強い季節風。市内は乾いた砂ぼこりが舞い上がり、さぞかしよく乾いていたのだろう。
現代の日本なら、さしずめ天気予報士のお姉さんが「江戸は異常乾燥注意報が出ています。火のもとに注意しましょう」なんてテレビで注意喚起してくれたはずだ。

そんな日に、あの大火事は起こってしまった。
このときの大火の被害状況を江戸時代後期から明治時代初期にかけての江戸の町人、斎藤月岑(さいとうげっしん)は、『武江年表』に「万石以上の御屋敷五百余宇、御旗本七百七十余宇、堂社三百五十余宇、町屋四百町、焼死十万七千四十六人といへり」と記している。江戸の町の人口は28万人だったというから、数字からも被害の大きさがうかがえる。

明暦の大火の記録書『むさしあぶみ』

『むさしあぶみ』(国立国会図書館デジタルコレクション)

『むさしあぶみ』(国立国会図書館デジタルコレクション)

明暦の大火の記録書『むさしあぶみ』には、江戸市内に広がった火に逃げ惑う人びとの姿が描かれている。当時の消火活動は、燃えている屋敷は放置して、その周辺の家々を長鳶口やさすまた、大綱などで片端から破壊していくというもの。しかし茅葺きや板葺きの家屋にいったん火がついてしまえば、延焼はそう簡単にとめられない。こうしてみると、振袖火事は不運が重なって起きてしまったのかも…と思えなくもない。

「喧嘩と火事は江戸の華」なんて言われるように、江戸はとにかく火事が多かった。天正18 (1590)年に徳川家康が江戸に入部してから、明暦の大火までの67 年の間に、江戸では 140件の火事が発生している。当時、江戸とともに三都と呼ばれた京都や大阪よりも江戸の火災は多かったのだ。火災の 62%が武家屋敷から起こった、というのも興味深い。

さいごに

ところで、振袖火事と称した江戸の大火で亡くなった人の多くは身元や身寄りのわからない人びとだったという。こうした無縁の人びとの亡骸を弔うために建てられたのが、東京・両国にある回向院(えこういん)だ。火元になった本妙寺は、移転して今は西巣鴨にある。この大火のあと、江戸の町は整備され、今日の東京の街並みの原型ができたとされている。

3年続けて同じ月日に、同じ年齢の娘の命を奪ったとされるいわくつきの振袖にまつわる奇怪な「振袖火事」。出火の原因は恋の病でこの世を去った娘の妄執?はたまた武家の失火?あるいは都市計画のために幕府が仕向けたものだったりして。いずれにしても、真相はすでに燃え尽きて、灰のなかだ。

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参考資料:『1657 明暦の江戸大火 内閣府防災担当』

アイキャッチ画像:メトロポリタン美術館蔵 富岡英泉

書いた人

文筆家。12歳で海外へ単身バレエ留学。University of Otagoで哲学を学び、帰国。筑波大学人文学類卒。在学中からライターをはじめ、アートや本についてのコラムを執筆する。舞踊や演劇などすべての視覚的表現を愛し、古今東西の枯れた「物語」を集める古書蒐集家でもある。古本を漁り、劇場へ行き、その間に原稿を書く。古いものばかり追いかけているせいでいつも世間から取り残されている。