日本軍最後の戦い・占守島のソ連軍侵攻に立ち向かった戦車指揮官池田末男

日本軍最後の戦い・占守島のソ連軍侵攻に立ち向かった戦車指揮官池田末男

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1945年8月15日に戦争が終わった、というわけでは決してない。

実はこのあとも、旧満州地方や千島列島では戦闘が続いていた。ソ連軍が南下してきたのだ。

特に千島列島は、日本とロシアが18世紀から領有権を争ってきた地域である。とはいえ、終戦後の進軍は明確な侵略行為だ。スターリンの領土欲は、日本列島に差しかかろうとしていた。

が、そこに立ち塞がり奮戦したのは戦車第11連隊、通称「池田戦車連隊」だ。

柔和な性格の戦車指揮官

作家の司馬遼太郎は、戦時中は戦車兵だった。

幕末明治の歴史小説の大家になった司馬は、朝の洗顔と髭剃りの度に陸軍戦車学校の教官(のち校長代理)だった池田末男(最終階級少将)について思い出していたという。

そもそもが文学家肌で、学校というものが嫌いだった司馬遼太郎こと福田定一は、戦車学校の中でも成績が良くなかった。エンストや車両故障を何度もやらかし、その度に教官に怒鳴られていた。が、同時に司馬は戦車学校長代理の人格者としての側面を間近で観察していた。

池田は柔和な性格で知られている。

彼は自分の褌の洗濯を当番兵にやらせず、自分で洗った。その傍らで恐縮している当番兵に対し「君は国に仕えているのか、私個人に仕えているのか?」と質問する。さらに、学徒動員の若者には「君たちは得た知識を国のために生かすのが使命だ。私たち軍人と君たちは立場が違う」と話した。

もしも司馬が戦車学校で優秀な成績を収めていたら、彼も1945年8月の占守島(しむしゅとう)に配属されていたかもしれない。現に司馬と同期の学生が、この島で命を散らしているのだ。

白虎隊のように

千島列島北東端にある占守島。

カムチャッカ半島の目と鼻の先にある小さな島だが、ここが終戦後に日ソの激戦地となった。1945年8月18日、ソ連軍が占守島への上陸を開始した。

これを受け、占守島の日本陸海軍は戦闘行動を開始。各部隊が迎撃態勢に入った。そう、ソ連軍を迎え撃つという決断をしたのだ。ヨーロッパ戦線でドイツ軍を完全敗北に追い込み、この時点で満州をも蹂躙している恐るべき共産主義国家の軍隊を前に、戦わずに降伏するという選択肢は誰も考えなかったようだ。

戦車第11連隊長の池田も、部下に対してこう問うている。

「赤穂浪士のように生き延びて後世仇を果たすか、白虎隊のように民族の防波堤となって玉砕するか」

すると、部下たちは白虎隊のようになることを選んだ。

この時の池田戦車連隊は、計39両の九七式中戦車チハを装備していた。そのうち20両は57mm砲の「旧チハ車」、残りの19両は47mm砲の「新チハ車」である。なぜ直径が違うかと言うと、要は「撃破する相手」の想定の違いだ。旧チハ車の主砲は榴弾で歩兵やトーチカ等を撃破するという想定だが、新チハ車のそれは敵戦車の装甲を貫くことを前提にしている。

39両のチハ車を繰り出した池田戦車連隊は、上陸してきたソ連軍を逆襲した。それは終戦後に繰り広げられた、ソ連軍にとってはまったく無意味の大規模戦闘だった。占守島の戦いで、ソ連軍は1500人もの死傷者を出してしまった。千島列島から北海道へ手を伸ばそうとしたスターリンの計画は、最初の一歩で大きくつまづいたのだ。

士魂は今も

池田は軍服の上着を脱ぎ、ワイシャツに鉢巻という姿で砲塔の外へ出て突撃の戦闘に立ったという。

池田戦車連隊に対し、ソ連軍は4門の対戦車砲と100挺以上の対物ライフルで対処した。次々にチハ車が撃破される中、池田も壮絶な戦死を遂げる。連隊は27両の戦車を失った。

が、ソ連軍の損害はそれ以上だった。一度は占守島の高地へ進んだものの、池田戦車連隊の反撃を受け上陸地点である竹田浜に叩き戻された。多くのソ連兵の死体が、その場に放棄された。彼らの遺骨は今も回収し切れていないほどだ。占守島の日本軍が戦う決断をしていなければ、今現在の日露の領有区分は大きく変わっていたかもしれない。

なお、池田戦車連隊の部隊マーク「士魂」は、現代でも陸上自衛隊第11戦車連隊(北恵庭駐屯地)が引き継いでいる。

アイキャッチ画像:国立国会図書館デジタルコレクションより

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