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2020.10.01

血の雨が降り注ぐ、魔都・上海の恐怖。美人スパイと特務機関ジェスフィールド76号

この記事を書いた人

上海は、今も昔も変わらぬ魔都である。

そんな上海がもっとも混沌を極めたのは、1937年からの数年間。第二次上海事変、中国側の呼称で記すなら淞沪会战から、太平洋戦争終結までの8年あまりのことである。
「事変」という宣戦布告なき全面戦争が泥沼に陥ったまま太平洋戦争へと突入し1945年の敗戦へと至った歴史を知らぬものはいない。でも、ここ上海で繰り広げられた暗闘は日本ではほとんど顧みられることはない…………。

魔都を生み出した上海の租界

1937年8月13日に日中両軍の小競り合いから始まった第二次上海事変。数カ月に及んだ戦いは10月26日に中国軍の要衝・大場鎮が陥落。11月9日には中国軍は退却を始め、上海は日本軍の占領下に置かれることになった。
占領下に置いたとはいえ、すべてが日本軍の手に落ちたわけではなかった。
それは、上海には租界があったからなんだ。

新旧が入り交じる上海の繁華街は今でも魔都の雰囲気がある

租界とは中国各地に設けられた外国人居留地のこと。その始まりは19世紀、阿片戦争後に弱体化した清国が諸外国と締結した不平等条約で設けられたものだ。20世紀末までイギリスが香港と共に植民地としていた九龍半島のような租借地よりも狭い地域、都市の一部を借地しているのが租界なんだな。借地といえば聞こえはよいが、実態は軍事力を背景として治外法権を認めさせた小さな植民地なんだ。

上海には、イギリス・アメリカ・日本など中国と条約を結んだ20カ国以上の人間が治外法権を持つ共同租界とフランスが独自に所有するフランス租界とがあった。多くの国の人間がモザイク状に入り乱れ、独自の統治機構と警察が置かれた租界は活発な経済活動の場であり、同時に法の網の目をくぐる人々が逃げ込むに適した魔窟だったんだ。表向きは洒落た店が並び華やかな男女が行き交いつつも、裏には常にドス黒いものが渦巻いていたんだ。

上海が日本軍の占領下に置かれたことで、日本の影響力は増したとはいえ、租界は依然として英米仏を背景とした孤島の中立地帯だった。むしろ、各国の企業が拠点を置く租界の経済活動は戦争と共に活発になった。経済的利益や、中立地帯であることから平和を求めて租界へと逃げ込む者は多かった。そこに、迫害を逃れヨーロッパからやってくるユダヤ人なども含めて、租界の人口は瞬く間に事変前の3倍にまで達したんだ。

租界に居を移すのはカネとか平和を求める者ばかりではなかった。大都市でありながら、日本軍の統治が及ばない租界。そこは、戦争を継続する蒋介石率いる重慶の国民政府の特務機関にとって格好の潜伏場所となっておった。

地下戦を繰り広げるC・C団と藍衣社

 
1937年12月13日の首都・南京陥落で蒋介石を屈服させることができると考えていた日本側の目論見は脆くも崩れてしまった。武漢を経て重慶へと逃れた蒋介石は抗日戦の継続を宣言する。1938年1月にドイツが仲介する和平工作・トラウトマン工作が失敗に終わると、時の総理大臣・近衛文麿は「国民政府を対手とせず」で知られる第一次近衛声明を発表したんだ。

この声明のせいで、和平の見通しは立たないままに戦線だけが拡大していくことになってしまったんだ。戦線が拡大する一方で密かに進められたのが、重慶政府の大物である汪兆銘への工作だった。蒋介石に反して和平を主張していた汪兆銘の離間工作は成功し、1940年3月30日には既に日本軍統治下に成立していた傀儡政権を統合し南京に「和平・反共・建國」を掲げる汪兆銘政権(正式には中華民国国民政府)が成立する。

今は信号無視した外国人も説教されているから安全かも知れない

この年表に書かれるような歴史の裏で日本軍の上海占領から繰り広げられていたのが、特務機関の死闘なんだ。長らく内戦状態が続いて来た近代中国の中で台頭した国民政府の特務機関の実力は群を抜いていた。戦線の拡大と共に、その活動は活発になった。日本軍への破壊工作のみならず、日本人や日本軍に協力する中国人……漢奸の暗殺と、ありとあらゆる謀略が渦巻いておった。

元来、蒋介石政権は二つの特務機関を手中に収めることで権力を確立しておった。すなわちC・C団と藍衣社だ。

C・C団は1927年の第1次国共合作のさなかに政争に敗れて下野していた蒋介石を支援するために陳果夫と陳立夫兄弟が結成した組織だ。この蒋介石を支援する秘密結社が最初「中央倶楽部」と名乗ったことからCentral Clubの頭文字をとってCCと名乗ったという説もあればCentral Chinaから来ているという説もある。この結社は単なる政治的な集まりではなかったんだ。権力を手中に収めるために彼らが真似たのはソ連の指導下で秘密裡に組織を拡大しつつある中国共産党だった。本来は敵である中国共産党のやり口を参考にしてC・C団は蒋介石を支える特務機関として隠然たる影響力をもっておった。

もうひとつ、蒋介石を支えたのが満州事変後に蒋介石直系の黄埔軍官学校の人脈によって生まれた藍衣社だ。正式名称は三民主義力行社というのだが、古来より平民の服の色である藍色を制服に用いていたことから、こう呼ばれておった。のちにC・C団が国民党中央委員会統計調査局(中統)の実権を握るのに対して藍衣社は軍事委員会統計調査局(軍統)の表看板を掲げて実権を握っていた。とりわけ藍衣社の特務処長であった戴笠は特務工作に天才的な能力を発揮する男だった。太平洋戦争が終わった翌1946年に飛行機事故で死亡したが、蒋介石をして戴笠がいれば国共内戦に勝利できたともいわしめた逸材だったんだ。

この二つの特務機関は盧溝橋事件、第二次上海事変を経て抗日戦のための工作活動に全力を注ぐことになった。もとより対立する中国共産党や党内の反対勢力、親日派との死闘を繰り広げ経験を積んでいたものだから、日本軍の特務機関は後手に回るばかりだった。それだけではない、戴笠の工作により青幇(中国の伝統的な秘密結社。その神秘性ゆえに多くの物語の題材になっているのだが、この時代の資料を読むと構成員は極めて多い)の首領の一人だった杜月笙が結成させた忠義救国軍、さらには三民主義青年団と新手の特務機関が日本軍と汪兆銘政権を恐怖のどん底に陥れていたんだ。

重光堂に現れた二人の中国人

日本軍が占領地での破壊や暗殺工作に苦慮していた1939年の初頭。上海の重光堂を訪ねる二人の中国人がいた。重光堂というのは上海の虹口にあった日本海軍陸戦隊本部の北、虹口公園の近くにあった洋館だ。今の住所でいえば上海虹口东体育会路7号だ。洋館は木々の茂る中にある古ぼけた二階建ての建物で、日本陸軍謀略工作を束ねる土肥原賢二中将の本拠であった。

朝の9時頃にやってきた未知の客。国民党員だというが何者かわからない二人と土肥原が面会したのは、和平工作が行き詰まっていたからだと思われる。どちらも年の頃は三十代半ば。ただ二人の雰囲気は対照的だった。ねずみ色のスーツを着た男は目がカミソリのように冷たく光っておった。もう一人の中国服の男はといえば、ふっくらとした顔つきで朗らかそうな雰囲気だった。スーツの男は丁黙邨、中国服の男は李士群といい、いずれも国民党特務機関の大物である。

古い上海の風景も再開発で次第に姿を消している

二人の目的は日本に降ることであった。丁黙邨はもとはC・C団に属し上海で発行されていた国民党系の『社会新聞』に属したり学校長をやったり文化工作を経て戴笠と並ぶ特務の大物になっていた。李士群は、元はソ連に留学したこともある中国共産党員だったのだが、国民党へ転じ、C・C団から軍統へと所属を移しながら地下工作に従事しておった。

そんな大物が日本に降ることを決めたのは、蒋介石の路線への反発なんだな。後に成立する汪兆銘政権が一定の支持を集めた理由でもあるが、国民党内には日本との戦争が長引けば、いずれ決着をつける相手である共産党との戦いがおぼつかなくなることを危惧する声も強かったんだ。重慶では抗日戦に反対する意見は受け入れられないと考えた二人は、一転して敵であった日本に協力することを申し出たんだ。

ジェスフィールド76号の誕生

二人は立派な手土産をもっていた。「上海抗戦団体一覧表」という図表だ。そこには、上海のあらゆる抗日組織の名称や幹部の名前。命令系統なんかが記されていたんだ。その内容はとにかく具体的だった。資金や武器の調達ルート。拠点に使われている租界内の建物の名前まで書かれていたんだ。日本軍がどんなに追いかけても得られない情報ばかりだ。そればかりでなく丁黙邨は、既に「上海特工計画書」という書類を準備してたんだ。自分たちに資金さえ提供してくれれば、どういう段取りで重慶政府はもとより共産党の特務までをも壊滅させるかのプランが個別具体的に書かれていたんだ。

目的は重慶政府の抗戦派を打倒し和平中国を建設すること。そのために、なるべく流血も避けながらやむを得ない時は暴力も用いつつ上海に潜むC・C団や藍衣社の地下組織を壊滅させること。そのための人員の獲得と訓練方法、予算などなど……。この提案は、汪兆銘への工作を行っていた影佐禎昭中将による「梅機関」が担当することとなった。影佐に命じられ実際の担当となったのが晴気慶胤少佐だった。この晴気が戦後に執筆した回想録が日本側の唯一まとまった資料となっておる。

煌びやかな河畔にはやはり妖しげな魅力がある

日本側の期待は大きかったのか、新組織には毎月三十万円の資金提供が決められ、500挺の拳銃が貸し出される。本拠地となったのは共同租界にあった洋館である。黒く重い鉄の門を持つ洋館の住所はジェスフィールド路76号。ここに、魔都をさらなる血に染める特務機関・ジェスフィールド76号が誕生することになったんだ。

丁黙邨と李士群は本当に優秀な人物だった。なにより目的のためなら手段を選ばないという非情さがあった。「上海特工計画書」では、時には暴力も辞さず云々と記してはいたが、実際は暴力を用いることに躊躇はなかった。中でも共同租界で76号は猛威を振るった。太平洋戦争の勃発まで、共同租界は曲がりなりにも権益を持つ各国からなる工部局という行政機関による統治が行われていた。

だから、ここに逃げ込まれてしまえば日本軍の特務機関も、おいそれとは手を出しようがなかったんだ。だが76号は別である。李士群によって組織された「租界秘密突撃隊」は活発な暗殺を繰り返した。暗殺とはいうが、捕捉した重慶政府の特務を白昼でも構わず射殺するのだ。租界内で事件があれば工部局警察も犯人を追うがジェスフィールド路の洋館へと逃げ込まれてしまえば踏み込むことはできず、手をこまねいて見ているしかなかったんだ。

そんな隠然たる勢力が徐々に上海全土を覆い尽くしていた。C・C団や藍衣社に与えた打撃は大きかった。なにしろ、手の内がすべて知れているんだ。丁黙邨も李士群も暗殺一辺倒ではなく、元同僚のリクルートにも熱心だったんだ。相次ぐ暗殺に恐怖したり、捕らえられて説得されて76号に身を移す者も絶えず、抗日組織は次々と崩壊していった。

血の雨が降り注ぐ上海の恐怖

暴力の矛先はスパイ同士の戦いだけには留まらない。おおよそ汪兆銘を首班とする和平運動に反対する者はみんな攻撃対象なんだ。租界を抱える上海では、周囲を日本軍に囲まれながらも汪兆銘に批判的な論陣を張る新聞社もあった。そうした新聞記事を消すのも76号の重要な任務だった。最初は話し合いから始めるが応じなければ次の手段に移るというわけなんだな。

味のある街角にも今ではコンビニもあったり存外に現代的である

毒入りの果物を送りつけて脅迫し、それでもだめなら当たり前のように暴力で口を封じるんだ。1939年に汪兆銘を批判する記事を掲載していた新聞『申報』は会社を76号に襲撃され1人が死に18人が負傷しておる。時にメンバーが逮捕されたりすることもあった。そうすると意に沿わない判決を下した裁判官や検察官も容赦なく暗殺されることになったんだ。
暴力の矛先は相手を選ばない。日本軍や汪兆銘政権の方針に従わないとなれば銀行にだって爆弾を仕掛けられるだ。
汪兆銘政権の成立後、組織は国民党中央委員会特務委員会特工総部として正式な政府機関になるのだが、それによって権力はさらに強大なものになったいった。

悪の限りを尽くす76号の面々

その頃には本来の敵であった重慶政府の特務機関も壊滅に追い込んでいた。そうなると「実績」を背景に民間企業なんかにも支配の手を伸ばしていくんだからタチが悪い。気がつけば76号はあらゆる利権を掌握し、いわば政府機関に属するマフィアのようになっていたんだ。

抗日戦を継続する蒋介石に反対して日本に降った丁黙邨と李士群には、曲がりなりにも思想があったように見えるが、実際にはそんなものはなかった。彼らの考えていたのは、戦乱の中でいかに立ち回って権力を得るかしかなかったんだ。

世界情勢を見ると世界を手中に収めるのは、英米の自由主義か、ソ連の共産主義か、はたまたイタリアやドイツのファシズムかといわれていた混沌とした時代である。日中の双方に同じように、思想よりも勝ち馬に乗ろうと考えているヤツらはざらにいた。

中でも李士群はとにかく権力欲が強かった。もともとが共産党から国民党に鞍替えしたような男なんだ。思想などなくただただ金・権力・女しか求めていなかった。
そう、こんな事件もあった。
1941年の秋、平祖仁という重慶から派遣された特務が捕らえられた。この男の恋人というのが英茵という芳紀25歳の美しい映画女優だったんだ。

あちこちをあるけば古い時代を感じる風景も(ここは蘇州)

伝手を辿って李士群に面会した英茵は恋人を救いたい一心で哀願した。
この女優がよほど好みだったのか、支配欲がくすぐられたのかはわからぬが、李士群は二つの条件を出した。まずはカネ。それと二週間自分と付きあうことである。恋人の命を救うために拒むことなどできなかった。

ところが李士群は目的を達すると、かまわず平祖仁を銃殺刑にしてしまったんだ。哀れ英茵は恋人の葬儀を終えると、睡眠薬を買い求め南京路の国際飯店に投宿し命を絶ってしまったんだ。この話は上海の街中の噂となり76号に恨みを抱く者も多かった。

76号を支えた美人スパイ

スパイものの作品といえば必ず出てくるのは美しい女スパイ……。美男子の主人公と美女が単身敵地に乗り込んで任務を果たすなんてのは007だとかの映画の世界の話だ。大抵の任務というのは地味な作業の繰り返しで、大勢の人の手が加わるものだ。最初から150名あまりが集められた76号は次第に大所帯になっていった。そうなると当然、物語然とした女スパイというのも出てくるんだ。

76号を語る時に欠かせない女スパイが、余愛珍だ。76号の警備隊長・呉四宝の妻だ。つまり夫婦で揃って76号のメンバーだったんだ。呉四宝という男は上海の貧民街の生まれで幼い頃に両親に死なれてから姉夫婦に引き取られて競馬場で馬の世話をする仕事をしておった。貧しい身の上の必然なのか、成長して運転手の職に就いた頃には呉四宝は青幇の構成員になっていた。

運転手という職を活かして様々な「仕事」に用いられる武器の運搬なんかを請け負っていた呉四宝は、優れた体躯の持ち主だったが同時に残酷で執念深い性格で恐れられていた。76号に加入する前には最初の妻が情夫と密会しているところに踏み込み、二人を射殺した後に国民革命軍に入隊し4年あまりの間逃亡しておる。

こういう街場のメシに都市の空気を感じるんだ

その後、上海に帰ってきて再び運転手の仕事についてから出会ったのが余愛珍なんだな。余愛珍は上海の裕福な茶の商人の娘で幼い頃から可愛らしくかつ、近所の子供を従えて女ガキ大将になっている活発さで知られていた。そんな性格だから、成長し親にいわれるままに裕福な子女の通う女学校に入学したが勉強や読書にはあまり興味を示さなかった。

一方で、学校の行き帰りには男に声をかけられることも多かったんだ。そうして、自分の持つ天性の魅力に気づいた余愛珍は、親の目を盗んでは映画館やダンスホールに通って街の不良たちと親しく交際するようになっていったんだ。余愛珍の魅力というのは単なる美しさだけではなかった。独特のカリスマ性があったんだ。ダンスホールや酒場で女王様然として振る舞う、まだ10代半ばの少女に、街の不良たちはなぜか働き蜂のように仕えてしまうんだ。そんな世界こそが余愛珍の輝く世界だったんだ。結局、学校を卒業すると当時、上海のアンダーグラウンドの大物だった季云卿の養女になっておる。詳しくはわからないが、この頃にはすっかりアンダーグラウンドな世界の住人になっていたらしい。

その間、一度は結婚に失敗しているんだが、その後、二人目の夫になったのが呉四宝だった。当初76号に雇われた時に呉四宝は過去の犯罪を帳消しにするからとして徴募された下っ端に過ぎなかった。拳銃を運ぶだけでなく射撃の腕も知られていたが、ようは使い捨てにされる程度の扱いだったように見える。そんな夫に知恵を授けて出世の糸口を掴ませたのは余愛珍だった。いや、むしろ余愛珍の功績の報奨として呉四宝が出世したんだ。呉四宝も結婚当初から妻のほうが特務の才能があると考えていたのだろうか、自分の持つ射撃の技術を教え込んだ。

もともと才色兼備という言葉がよく似合う女性だから飲み込みは早かった。あっという間に弓を両手で引き、射撃も難なくこなすようになっておった。その技術で多くの抗日人士が血の海に沈むことになったんだが、余愛珍は色仕掛けにも長けていた。もとより丁黙邨と李士群にしてみれば、以前の同僚を殺害したり捕らえているわけだ。使える人物であれば説得して仲間にしたほうが有益なのは当たり前だ。獄に繋がれて拷問されても頑として信念を曲げないような筋金入りの特務が、余愛珍に説得されると途端に転向するなんてこともあった。彼女が美しかったことはいうまでもないが、単純な言葉では表現しきれない魔性の魅力があったんだと思う。

ちなみに、二人が一時期暮らしていた于愚园路749弄は汪兆銘や彼の政府関係者も暮らしたことのある界隈なのだが、今も当時の家が多く残っておる。先日から、一軒売りに出されているのだが日本円で5億円ちょっと。ちょっと高すぎる買い物だが歴史を感じるためには、ちょっと住んでみたいとも思うものだ。

美貌と悪名が轟く「76号の女蛇」

もう一人「76号の女蛇」なんて悪名を轟かせた钮梅波という女スパイがおった。これまた、誰もが道ですれ違えば立ち止まって振り返るような美人だった。父親は裕福な商人だったんだが、妓院で見初めたロシア人の娼婦を水揚げして結婚して生まれたのが钮梅波だ。

だから東洋人にはないエキゾチックな顔立ち。それにちょっと下世話な物言いをすれば出るところの出ている見事なプロポーションの持ち主だったんだ。この文章を書くにあたって参照した文献にも、その美しさがえらく熱心に書かれているので、相当の美女だったんだろう。

後方にそびえるタワーマンションの家賃が魔都感。東京よりも格段に高いんだ

そんな美女の転機は21歳の時だった。それまで裕福だった父親が事業で詐欺にあって失意のあまり自殺してしまったんだ。たちまち生活に困窮することになった钮梅波は福州路的長三堂……当時の上海の娼館が並んでいたところに身を寄せた。いうなれば、裕福な商人の娘から苦界に身を堕とした良家の娘の哀れな物語の開幕……と、まあ『新妻鏡』のようにはならんかった。

その美貌が評判になりまくって、たちまち上海の社交界で知らぬ者はいない名妓になったんだ。「賽貴妃」なんて通り名もついて、多くの名士が客になった。

毎夜共にするのは各国の領事館に派遣されている役人や企業人、それに国民党の幹部や、色々と怪しい人々。そうなれば寝物語に、様々な情報に触れる機会も尽きない。

そこに目をつけたのが影佐禎昭だった。1932年5月、影佐は钮梅波を口説き落とすと東京に送ってスパイとしての教育を施した。租界に集う各国の人士や国民党の幹部までと交際し情報を集める役目を担っていたんだが、76号が結成されると、その一員に加わるよう命じられる。表向きは日本軍から派遣されたすご腕の特務。その内実はいわゆる二重スパイというわけなんだな。

二重スパイとはいえ76号での活躍はめざましかった。钮梅波の入手した情報で上海を中心に日本軍占領地に張り巡らされた重慶政府特務の地下連絡線は次々と破壊されていったんだ。

その手腕をもっとも評価したのは日本軍のほうだったようだ。钮梅波を「諜報の花」とまで称賛した日本軍は1942年6月、重慶への潜入工作を命じる。新たに国民党が新たに設けた軍事委員会技術研究室、日本軍の暗号解読を担う部署の情報を入手し、この機関を崩壊へと導くのが与えられた任務だった。钮梅波にとって、この任務はお手のものだった。研究員の父親に近づき、その愛人に納まった後に息子のほうにも接近して情報を漏洩させたんだ。けれども、天才的な特務である戴笠がそれを察知しないはずがなかった。

正体が露見し捕らえられた钮梅波が生き残る術は、それまで知り得た情報をすべて話して重慶政府に協力することだった。こうして、上海社交界の花だった美女は日本軍と汪兆銘政権、そして重慶政府の三重スパイになったんだ。

あの辻政信が下した李士群暗殺指令

太平洋戦争の勃発を前に、次第に76号にも終わりのはじまりが近づいておった。上海の重慶政府特務を壊滅させた後、巨大な暴力を背景に経済はもちろん新聞に至るまであらゆる産業を手中に収める巨大なマフィアとなった76号。うずまく利権の中では、当然争いも起こる。

創立者である丁黙邨と李士群も次第に利権を巡って争うようになり、中統から送り込まれた美人スパイ・鄭蘋茹にからくも暗殺されかかったりと、下手をうった丁黙邨は1941年8月に汪兆銘政権の交通部部長に任じられ組織からは放逐されてしまった。

でも、76号の権力をすべて独り占めした李士群の絶頂期も長くはなかったんだ。

なんだかんだと、マクドナルドやスタバがどこにでもある社会主義国…………

巨大な76号という組織は後援者である日本軍にとっても目の上のたんこぶになっていた。太平洋戦争の勃発と共に日本軍はアジア一帯の占領地から軍需物資を大量に調達する必要に迫られておった。太平洋戦争の開戦を決断した当時の政府の判断を批判する論拠のひとつとして開戦前に日本が戦争相手のアメリカから、石油の8割を輸入していたことが挙げられるものだ。石油だけでなく綿花も同様だった。だから日本軍は中国の占領地をアメリカとの戦いに備えて物資を調達する先にしなければならなかったんだ。

物資の集積地であり、工業化の進んだ上海と江南地方は、それまで以上に重要な土地におった。ところが、物資の流通を押さえて自らも会社を経営しているのが李士群なんだ。当然、一度手に入れた利権は手放すまいと日本軍の意向を受けてやってきた日本人商人には、あの手この手で妨害をしてくる。日本軍が必要な物資を引き渡すように命じても面従腹背である。抗日地下組織の壊滅に役立った76号、そして李士群はもはや邪魔な存在でしかなかったんだ。

李士群暗殺指令が日本軍内部で決定されたのは1943年9月のことだった。その前月、大佐に昇進し支那派遣軍第3課長として赴任してきたのが辻政信だった。天才的な才能で奇矯な行動を好み、多くの将兵を死地に追いやった日本陸軍の負の側面を象徴する有名軍人。敗戦後にはアジア各地に潜伏して戦犯指定を逃れた挙げ句、参議院議員となって最後はラオスで消息を絶った男だ。

この男がやってくるのと前後して、日本軍に李士群に絡む新たな不穏な情報がもたらされていた。李士群が1941年頃から共産党との接触を始め、今年に入ってからは新四軍、すなわち共産党系の軍隊と密接な関係を築きつつあるというのだ。謀略に長けた辻政信にしてみれば、同類といえる李士群が日本軍の敗勢を見越して動き出していることは自ずと理解できた。そして、その危険性も。

もはや手切れとなったわけだ。確証はないが、辻政信が赴任してきたことで日本軍の方針は李士群の抹殺に決まったんだと思う。

でも、李士群を抹殺するのは一筋縄にはいかなかった。強大な76号がごっそりと敵に回ってはかなわない。当時、李士群は汪兆銘政府の特工総部主任、かつ江蘇省の省長兼保安司令になっておった。早い話が暴力団と警察の両方を押さえた人間が県知事になっているようなものである。組織的に反撃されたら日本軍も甚大な被害を被ることになるから、手段は暗殺となる。自分が暗殺を実行する側である李士群だから暗殺への警戒心はこの上なく強かった。
手段は毒殺の一択である。

租界の風景が残るバンドは観光地。昼夜となく常に賑わっている

最初の試みは宴会の席上で李士群の酒杯に毒を仕込むところまで成功したが、酔った日本軍人が事情を知らぬままに、その酒を飲んでしまいそうになり失敗に終わった。

もとより暗殺を警戒する李士群は宴会の席でも酒や食べ物になかなか手を付けないため、毒殺は困難だった。そこで、李士群が酒や食べ物に口を付けなくてはいられない状況をつくることになったんだ。
9月6日、李士群は上海憲兵隊特高課課長岡村適三の自宅への招待を受けた。夫人と共に出迎えて酒や食べ物を勧める岡村課長に、李士群は「風邪をひいていて酒も食べ物も控えている」といい、ほかの招待客が口をつけた皿にだけ手を伸ばしておった。やがて、岡村夫人が牛肉餅の皿を持って来た。

岡村課長は「これはうちの妻がもっとも得意とする料理です。どうぞ食べてみてください」と李士群にすすめた。
ほかの招待客が「これはうまい」と牛肉餅を頬張るのを見て李士群も手に取り、口へと運んだ。
今をして思えば、夫人まで利用した極めて緻密な作戦だったと思う。

この時、李士群が食べた牛肉餅にだけ細菌が仕込まれていたんだ。
その最近は、目論見通りに働いてくれた。翌日の昼から李士群は高熱を発し嘔吐と下痢が止まらなくなった。すぐに医者が呼ばれたが、医者は注射をしたりはしようとしなかった。日本軍は密かに一帯の病院と医者に李士群を治療することはまかりならんと警告を発していたんだ。こうして3日ほど苦しんで李士群は39歳で死んだ。

その前年に横浜正金銀行上海支店から、日本軍の金塊を盗みだそうとして逮捕され、釈放直後に死んだ呉四宝と同じ死に方だったと噂になった。この暗殺に用いられた細菌は731部隊が開発したものだったともいわれるが、確証はない。

それぞれが辿った特務の末路

李士群の死と共に勢力を失った76号は汪兆銘政権の一部門として命脈を保ち、日本の敗戦による政権崩壊と共に消滅することとなった。

生き残った者たちの運命は様々だった。中には返り咲いた蒋介石政権下で再び特務に徴募される者もあった。丁黙邨もその一人であった。8月15日に戦争が終わるとすぐに丁黙邨は蔣介石の国民政府に浙江地区軍事専員として採用されたんだ。だが、安堵の日々は数日だった。9月になり漢奸として獄に繋がれ1947年7月、南京で処刑された。

こうした風景もじきに姿を消していく

三重スパイとなっていた钮梅波の運命は、もっとも過酷だった。戦後、戴笠指揮下の特務として上海で活動することになった钮梅波だったが、戴笠は1946年3月に飛行機事故で死んでしまう。一転して钮梅波は漢奸裁判にかけられることになった。衆目を集める美女の裁判ということで新聞は色を用い贅の限りを尽くした女漢奸であると書き立てた。

だが、その美貌にはまだ利用価値があると考えられたのか、無罪判決を受け釈放されると新たに国民政府に組織された国防部第二庁に召集された。新たな任務は上海に組織されつつある共産党の地下組織の破壊だった。

目論見通り钮梅波は優れた能力を発揮した。上海に潜伏する共産党員は次々と捕縛されていったが、国共内戦の劣勢は覆らなかった。1949年5月27日、人民解放軍は上海に入城。同年10月1日、毛沢東は北京で中華人民共和国の成立を宣言。12月、国民政府は政府機能を台湾へ全面移転し台北を臨時首都と定めることとなった。钮梅波は台湾へ逃れることはなく、依然として上海で活動を続けておった。

1950年に朝鮮戦争が勃発すると、大陸反攻を狙い国防部保密局は新たな任務を命じる。暗殺、爆破、放火などあらゆる手段を用いて上海を混乱させ中国の朝鮮戦争への参加を妨害するというものだった。既にスパイとしては知られすぎていた钮梅波だが、正体を隠しつつ放火や暗殺を遂行した。しかし、上海市長の陳毅暗殺計画を練っていた1950年末、钮梅波はついに囚われの身となった。1955年4月、上海市人民法院で死刑判決を下された钮梅波は刑場へと連行され、銃殺刑となった。
享年49歳。美貌で知られる一方で苦労ばかりの人生だった。

こうしたカオスな物売りを見るのが中国旅行の醍醐味である

さて、もう一人の美貌の女スパイである余愛珍はどうしたか。

戦後、すぐに捕縛され漢奸として裁判にかけられた余愛珍だが、その罪状に対して判決は懲役7年だった。それも1949年には釈放されてしまう。その後、数年間を香港で過ごした後、日本に渡った余愛珍は胡蘭成と再婚する。胡蘭成は汪兆銘政権で政府法制局長官になったこともある作家でジャーナリストだった。戦時中には一時期、同じく作家として知られる張愛玲と結婚していたこともあるが余愛珍との浮気がバレて離婚したんだ。漢奸同士の夫婦である。胡蘭成は一時才能が評価され台湾に戻り大学で教えることもあったが結局は日本に居を構えた。胡蘭成は湯川秀樹や岡潔、川端康成らと親交を結んだことで知られているが、その妻である余愛珍の戦後はほとんど知られておらん。

ジェスフィールド76号の事績は日本では、ほとんど知られていない。僅かに晴気慶胤が戦後に記した回想録がある程度である。一方、中国では戦時下の上海の研究が盛んになっているようで中国本土はもとより台湾や日本の公文書館に所蔵されている資料をもとにした马振犊『76号特工总部』のような本も出版されている。

先日、ビリビリ動画(中国の動画配信サイト)で配信されていた『五号特工組』というドラマを観た。
このドラマは、まさにこの時代の上海が舞台。日本軍特務機関や76号を相手に主人公ら5人の男女が戦うという物語なんだ。
蒋介石暗殺阻止に始まり、ドイツから亡命してきた原爆の技術を持つユダヤ人科学者を助けたりする007風の連続ドラマである。
007風だから「ありえないよ」と思う過剰な演出も多い。なにしろ、主人公たちに毎回してやられる日本軍特務機関を仕切るのは冷徹な美女なんだ。
日本の特撮ヒーローものがそうであるように、やっぱり中国でも敵の女幹部のほうが人気が高いのはいわずもがなである。
それでも、史実を参考にしたシーンが多いのがとても興味深いんだ。

日本ではほとんど顧みられることのない上海の地下戦。もっと熱く語り合える同志が増えることを願ってやまない。

もう魔都のロマンも過去のものになってしまったかと、ガーデンブリッジの前に佇んで考えた

<参考文献>

晴気慶胤『上海テロ工作76号』毎日新聞社 1980年
バンリン『オールド・シャンハイ 暗黒街の帝王』東方書店 1987年
马振犊『76号特工总部』重庆出版社 2017年
马振犊『汪伪特工总部76号完全档案』金城出版社 2018年
任中原『戴笠全传』中国華僑出版社 2013年

書いた人

編集プロダクションで修業を積み十余年。ルポルタージュやノンフィクションを書いたり、うんちく系記事もちょこちょこ。気になる話題があったらとりあえず現地に行く。昔は馬賊になりたいなんて夢があったけど、ルポライターにはなれたのでまだまだ倒れるまで夢を追いかけたいと思う、今日この頃。