クイズ!戦後初の日本人五輪金メダリストは誰?3人いないと練習できない競技!?

クイズ!戦後初の日本人五輪金メダリストは誰?3人いないと練習できない競技!?

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第二次世界大戦の敗戦国である日本は、戦後僅か7年でオリンピックの金メダリストを輩出した。

1952年のヘルシンキオリンピックで、石井庄八という選手が見事1位に輝いたのだ。では、何の競技で?

この当時の日本で最もメダルが期待されていた種目は競泳だった。「フジヤマのトビウオ」と呼ばれた古橋廣之進が次々と世界新記録を打ち立てていたのだ。が、ヘルシンキオリンピックでの古橋は競泳選手としてのピークを既に過ぎていた。400m自由形で8位という結果に終わってしまう。

が、その一方で日本国民からまったく期待されていない競技で日本は金メダルを獲得してしまった。

レスリングである。

元予科練の大学生レスラー

石井庄八は戦時中、海軍飛行予科練習生として従軍していた。いわゆる「予科練」だ。

石井が特攻隊員として出撃する可能性はあったが、幸いにもそうならなかった。終戦後は中央大学に進学し、レスリング部に入った。柔道と剣道はGHQの方針で禁止されていた時代である。

日本人にとってのレスリングは馴染みの浅い競技だ。もちろん、日本には相撲や柔術、合気道といった組技格闘技が存在する。ところがこれらはすべて「服を掴む技」。レスリングは違う。相手選手のウェアを掴んだら反則になってしまう競技だ。相撲ですらマワシを掴むことができるのに、レスリングはそれもない。

日本レスリングの発展に全人生を費やした八田一朗は、かつて講道館の嘉納治五郎の秘書を務めていた。その嘉納に日本でレスリングをメジャー競技にしたいと打ち明けると、

「レスリングもいいが、やるとしたら50年かかるよ」

と言われた。八田自身はこれを叱咤激励と捉えたが、嘉納は柔道とレスリングの技術体系がまったく異なることを正しく認識していたのだ。

中央大レスリング部での石井の練習環境は、決して良いものではない。他の誰にも真似できないほどの猛練習は積んでいたが、当時の日本にはまともなレスリングコーチなど存在しなかった。

VTRがない時代の組技練習

組技格闘技の練習は、3人以上いないと成立しない。

それは寝技になるとより顕著になる。技を教える側が教わる側にローリングをかけたとする。「こうすれば相手を仰向けにすることができるんだよ」と言ってやるが、そもそもローリングとは受け手の背後から組みつく技。つまり、技を教わる側がその過程を目で観察することができない。だからもう一人、技を受けることができる人間を呼ぶ。技を学ぶ者は傍らでそれを目視し、どこをどうすれば技がかかるのかを勉強するのだ。

つまりレスリングの練習の半分は見取り稽古ということだ。

だからこそ、誰しもがスマホを持っている現代は組技格闘技の進化が著しい。選手はいつでも世界中のエキスパートの組技を視聴することができる。が、この記事では1950年代の話をしている。終戦間もない日本で、ビデオカメラを持っている個人などいるはずもない。ネットはおろか家庭用VTR機器も存在しないのだから、海外の選手の映像を観ることも不可能だ。さらに言えば、昔の日本のスポーツ界では「ライバルのパフォーマンスを動画撮影して研究する行為は卑怯」という風潮があった。

日本プロ野球でそれを本格的に始めたのが、南海ホークスの野村克也である。野村は対戦投手の癖を見抜くことで次に来る球種を当てていたが、西鉄ライオンズの稲尾和久だけはそれがどうしても分からなかった。そこで野村は友人に頼み、稲尾の投球をネット裏から16ミリカメラで撮影してもらった。ここでようやく稲尾の癖を発見することができた。逆に言えば、野村以前にこれと同じことをやる者は皆無だったということだ。

そのような意味でも、日本のレスラーが置かれていた練習環境は極めて貧弱だった。

強烈なタックルを習得する

1951年、石井はアメリカ遠征に出発した。日本レスリング協会会長の八田一郎が山下汽船に交渉し、完成間もない貨物船に無料で乗船させてもらった。

この遠征は、石井を大きく成長させた。現地のレスリングコーチの指導を得る機会に恵まれたからだ。

柔道は相手とがっちり組み合う競技だ。しかしレスリングには掴む服が存在しない。故に相手と組み合わず下半身に飛びかかるタックルが発達した。伝統的な日本人の体格は胴長短足で、背筋力は弱いが足腰が強い。つまりタックルをするのに有利な体格である。

石井は試合の序盤で強烈なタックルを敢行し、ひたすらポイントを稼ぐという戦法で次々に白星を重ねた。

そして、ヘルシンキオリンピックである。

ソ連の選手に完全勝利!

日本のレスリングは国内からもまったく期待されていなかったのは、冒頭に書いた通りだ。

故に、ヘルシンキに派遣するレスリング協会役員は僅か1名とされた。これでは協会会長の八田が選手団に同行することはできない。

悩んだ八田は、何と日本水泳連盟会長兼日本選手団団長の田畑政治(以下まーちゃん)に頼み込んで臨時の秘書にしてもらった。これについてはレスリング協会内部から批判されたようだが、まーちゃんは決して嫌がらなかったようだ。八田は自分と似た者同士、ということを察していたのかもしれない。

しかしまーちゃんと八田は、このオリンピックで明暗を分けてしまった。水連会長のまーちゃんは古橋廣之進の無念に涙を飲んだが、八田は石井のバンタム級優勝をその目で見届けたのだ。しかも、石井の決勝戦の相手はソ連の選手である。ソ連は不動のレスリング強豪国。モスクワの指導者が潤沢な予算を選手育成のために調達させ、コーチも練習生も国家の威信をかけて試合に取り組む。一般国民が食糧配給の列に並ぶのを横目に、練習生は豊富な食事を頬張りながら冷暖房完備の宿舎に居住する。オリンピックの金メダリストには一生涯の年金と豪邸、そしてソ連邦英雄の勲章が与えられる。そのような国のレスラー相手に、石井は勝利した。

そして彼の金メダルは、日本人にレスリングという競技を認識させる大きなきっかけになった。

大企業をレスリングに誘い込む

現役引退後の石井は、電通の社員になった。

ここで彼は日本レスリングにもうひとつの功績を残す。明治乳業(現・明治)を日本レスリング協会の協賛企業にしてしまったのだ。

全日本選抜レスリング選手権大会の別名は「明治杯」。文字通り明治が協賛しているためだ。誰も見向きもしなかったマイナー競技に大企業を呼び込んだ石井の功績は、もはや「偉業」と呼ぶしかない。

そしてこれは、日本が世界有数のレスリング強豪国になるための最も重要な分岐点だったのだ。

アイキャッチ画像:歌川国貞『松本幸四郎』、メトロポリタン美術館より

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