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2019.12.09

上杉謙信とは何者だったのか? 乱世に挑んだ越後の龍!【武将ミステリー】

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4.なぜ城も家臣も捨てて、出奔(しゅっぽん)したのか?

上越の山にかかる龍のような雲

景虎が家督を継いだことに不満を抱き、謀叛を起こした長尾政景(まさかげ)を景虎は猛攻の末に降伏させ、天文19年(1550)に越後を統一。和睦の証(あかし)として、景虎の姉・仙桃院が政景に嫁ぎました。後に景虎が養子にする景勝は、政景と仙桃院の子です。

越後統一は成ったものの、争乱は日本全土で起きていました。2年後には関東管領の上杉憲政(のりまさ)が北条氏らによって関東を追われ、景虎のもとに亡命します。景虎は助力を約束。また天文22年(1553)には、武田氏の侵攻によって信濃(現、長野県)を追われた村上義清(むらかみよしきよ)らが救援を求めたため、景虎は信州川中島に出陣。初めて武田信玄と干戈(かんか)を交えました。

同年、景虎は初めて上洛。前年に従五位下(じゅごいげ)・弾正少弼(だんじょうのしょうひつ)の官位を得たことへの御礼言上が目的だったともいいます。景虎は後奈良天皇に拝謁がかない、感激しますが、一方で足利将軍は三好(みよし)勢によって都を追われており、世の乱れが武家の棟梁にまで及んでいることを目にして、衝撃を受けたでしょう。

高野山

また景虎は比叡山、高野山、本願寺、大徳寺など諸寺に足を運びます。大徳寺では戒律を授かりますが、そこには「殺生(せっしょう)の禁止」も含まれていました。戦いの日々を送る景虎に、到底それは守れません。「世は乱れるばかりであるのに、仏の教えも守れぬならば、何を拠り所に生きればよいのか」。景虎は生き方に悩み始めていました。

越後に戻っても心は欝々(うつうつ)として晴れず、弘治2年(1556)、27歳の景虎は突如、隠退を宣言して春日山城から出奔してしまいます。「家臣たちの仲が悪く、言うことを聞いてくれない。国主の役目を果たせないので、隠退する」という内容の書状を残していました。国内が統一されても私利私欲でいがみ合う家臣たちの姿に、嫌気が差したのです。

5.上杉謙信は、なぜ毘沙門天の化身と呼ばれたのか?

毘沙門天像

国主が出奔という前代未聞の事態に、家臣たちはあわてます。ちなみに越後守護の上杉定美はすでに他界し、守護家が絶えていたため、景虎は守護代ながら、守護待遇の国主でした。景虎は一説に高野山に向かっていたともいわれますが、家臣らが追いつき説得します。説得役はかつて景虎と戦った長尾政景でした。政景が景虎に何と言ったのか正確にはわかりませんが、およそ次のような内容であったようです。

「国中の者が困っているのに、景虎様はご自分だけ隠退なさるのですか。民は、景虎様は武田を怖れてわれらを見捨て、弓箭(きゅうせん)の道から逃げたのだと噂するでしょう」

景虎は政景の説得に応じて春日山に戻り、心機一転、戦いの日々に臨むことになります。景虎の心境に何か大きな変化があったはずですが、詳細は伝わっていません。想像ですが、この時、景虎は「われは毘沙門天たらん」という覚悟を固めたのではなかったでしょうか。

「毘」の旗

毘沙門天は武神であり、四天王の一人で北方の守護神とされます。景虎は生涯、毘沙門天を篤く信仰し、軍旗に「毘」の文字を掲げました。なぜ毘沙門天だったのか。

一つは武将として、武神にあやかりたいという思いでしょう。それは景虎に限らず、武人であればだれもが等しく願うことです。もう一つは、毘沙門天が仏法の守護神であるからではないでしょうか。毘沙門天像が足の下に邪鬼を踏みつけているように、古来、仏の教えを妨(さまた)げるものは非常に多い。だからこそ守護神が必要なのです。

翻(ひるがえ)って現実を見れば、やはり仏の教えからはほど遠く、私利私欲で争う者ばかりの乱世。だからこそ景虎は隠退して殺生をやめ、仏の道に生きようと願ったものの、それは個人としての満足に過ぎず、国主としては民を見捨て、武人としては敵から逃げる卑怯な振る舞いになってしまう。ならば、越後国主として何をなすべきなのか

そこで景虎が思い至ったものこそ、「戦乱を収め、仏の教えが妨げられぬ世を導くために、われが守護神たらん、毘沙門天の化身たらん」という生き方ではないかと思うのです。自らの手を汚してでも邪(よこしま)な者を討ち、世に安寧(あんねい)をもたらすという決意でした。もちろん生身の人間が武神たらんとするなど、生半可な覚悟ではありませんが、迷い続けた末に景虎がつかんだ、一つの結論であったのでしょう。上杉謙信が毘沙門天の化身と畏(おそ)れられた理由は、ここにあったと考えます。

書いた人

東京都出身。出版社に勤務。歴史雑誌の編集部に18年間在籍し、うち12年間編集長を務めた。「歴史を知ることは人間を知ること」を信条に、歴史コンテンツプロデューサーとして記事執筆、講座への登壇などを行う。著書に小和田哲男監修『東京の城めぐり』(GB)がある。ラーメンに目がなく、JBCによく出没。