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2020.12.17

皇后・徳川和子がお手本!江戸時代も大人気だったセレブファッションを『雛形本』で探る!

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女性誌やファッションサイトの定番かつ人気コンテンツといえば、「セレブ」と呼ばれる有名人のファッションスナップやファッションチェックではないでしょうか?

「セレブ」とは「セレブリティー(celebrity)」の略で、名声を得ている有名人・名士のこと。「セレブ」の範囲はメディアによって様々で、有名な俳優や芸能人、ファッションモデル、スポーツ選手、実業家などを指す場合が多いようです。セレブのファッションを真似る人も少なくないようで、セレブが着た服があっという間に売り切れたり、ファストファッションが似たようなデザインの服をお手頃価格で販売したりすることも。

セレブファッションに興味深々なのは、実は江戸時代も同じこと。当時のファッションリーダーでもあった歌舞伎俳優や遊女たちのファッションが錦絵に描かれて一般の人々の間に広まったり、流行のファッションを着こなした評判の町娘たちが、錦絵に描かれることもあったのです!
錦絵が確立したのは江戸時代中期頃と言われていますが、それ以前、江戸前期にファッションのトレンドを伝える役目を持っていたのが「雛形(ひながた)」と呼ばれる冊子。そして、雛形本の誕生には、当時のセレブ中のセレブ・徳川和子(とくがわ まさこ)が関わっていたのです! (徳川和子の名前の読み方は資料により異なり、「かずこ」と読むものもあります。)

この記事では、ファッションリーダーでもあった徳川和子との関係などを盛り込みながら、江戸時代の雛形本とはどのようなものだったのかを紹介します。(後水尾天皇譲位後の院号「東福門院和子」と呼ばれる場合もありますが、この記事では「徳川和子」としています。)

セレブファッションのガイドブック「雛形本」とは?

江戸時代になると、京都をはじめとする都市部で木版印刷による書物の出版が活発になります。
そんな中、「雛形本」とよばれるファッションブックが誕生。雛形本は、着物の模様のデザインだけではなく、色工夫などについての情報が掲載されているものもあり、現在のファッション誌のようなもの。着物を誂える時の注文見本として使われただけではなく、おしゃれ女子のバイブルとして大人気となりました。

『新撰御ひいながた』の刊行

寛文6(1666)年、江戸時代のファッション業界にとって、画期的な出来事がありました。それは、人気の仮名草子作家・浅井了意(あさい りょうい)の序文による小袖模様雛形本『新撰御ひいながた』が刊行されたこと!
その序文には、

此(この)ひいなかた二百種は わかき老いたるそのほど
好所は此外に漏へからす 今改めて往昔の模様をは加えずといふ

とあり、「若い人の好みも、年配の人の好みも、もれなく取り入れています! 流行遅れの古い模様はありません! 」と述べていて、自信のほどが伺えます。『新撰御ひいながた』に掲載されたものと同じ模様の着物が伝存していることからも、実際にデザインブックとして活用されていたことがわかります。

浅井了意『新撰御ひいながた』 国立国会図書館デジタルコレクション

雛形本では、1丁(=1ページ)につき一図が描かれているのが基本。小袖1枚を衣桁(いこう)にかけ、袂(たもと)が丸い袖を広げ、背面を中心に裾を少し広げたような構図です。袖と裾のわずかに開いた部分に、地色の想定や模様の説明を入れます。模様は総じて大柄で、肩の部分を起点に、腰に余白をとりつつ弧を描くように下方の裾へ視点が流れ、動きを感じさせる構成のものが多くなっています。

次々と刊行される雛形本

17世紀後半、元禄時代に入ると、『新ひいながた』『千代の雛形』『花鳥雛形』などの雛形本が次々と刊行されるようになります。

京、大坂、江戸の大都市では、着物やファッション小物は、基本的にオーダーメイドで作られました。江戸城大奥をはじめ、大名家の奥向き、そして豪商の妻女たちが雛形本を参考に、最新流行を取り入れた自分だけの着物やファッション小物を注文し、職人たちは注文主の要望に応えるよう腕を競い合いました。
ただし、実際にはこのような流行最先端のモードを享受できるのは、ごく限られた人々だったと言われています。
「雛形本」は、江戸時代前期から中期にかけて、200冊あまり刊行されました。

セレブ中のセレブ・徳川和子がファッション界に与えた影響

徳川和子は二代将軍・徳川秀忠の五女で、後水尾(ごみずお)天皇に入内しました。将軍の娘として生まれ、皇后となった唯一の女性です。まさに、当時の「セレブ中のセレブ」と言ってよいでしょう。

徳川和子の生い立ち

徳川和子は、慶長12(1607)年10月4日江戸城に生まれました。
元和6(1620)年、14歳の時、幕府と朝廷を繋ぐため後水尾天皇へ女御として入内(じゅだい)します。この婚姻は、徳川幕府が平和と安定を築くために和子の祖父・家康が決めたことでした。和子誕生の翌年には、すでに入内の噂が流れ、慶長19(1614)年4月、朝廷は女御入内の内旨を発しました。しかし、同年と翌20年の大坂の陣、元和2(1616)年4月の家康の死、翌3年8月後陽成(ごようぜい)上皇の崩御、また、四辻公遠(よつつじ きんとお)の娘・およつが後水尾天皇の第一皇子・賀茂宮(かものみや)を産んだことなど紆余曲折がありました。

和子の禁中での生活の詳細はわかっていません。入内当初は、和子の身辺が幕府から付けられた者たちによって固められていたため、禁裏の風習には対応できなかったこともあったと言われています。
元和9(1623)年11月19日、姫宮(興子(おきこ)内親王)を出産。翌年(寛永元年)には、久しく絶えていた中宮に立てられます。中宮とは、本来は皇后の居所の意味ですが、次第に皇太后や太皇太后の居所やその人をも指すようになり、その後、皇后・中宮が並立した時期を経て、皇后そのものを指すようになりました。

寛永6(1629)年11月8日、後水尾天皇が譲位し、興子内親王が明正(めいしょう)天皇となったため、和子は「東福門院」と称されることになります。
そして、東福門院和子は、延宝6(1678)年6月15日に亡くなるまでの49年間、明正、後光明(ごこうみょう)、後西(ごさい)、霊元(れいげん)の4人の天皇の時代、「国母(こくも/天皇の母)」であり続けました。(明正天皇は和子の実子(皇女)で、後水尾天皇の皇子である後光明、後西、霊元天皇とは、皇位継承の際に和子と養子縁組を行っています。)

徳川和子は「ファッション中毒」だった?

徳川和子は、流行にも敏感で、当時のファッションリーダーの一人でもありました。同時に、毎年のように大量の着物を注文する「ファッション中毒」の側面もあったとか。和子が雁金屋(かりがねや)に大量の着物を注文していたことは、雁金屋関係の文書類の中にある御所からの注文控えから確認されています。

元和9(1623)年、当時は女御だった和子の注文を受けた雁金屋が、その代金請求のため、翌寛永元(1624)年9月23日に書き上げた帳簿の表紙には「女御様御めしの御ふく同御つかいこそて上申候帳」と記されており、和子が自分の着用分と自分に仕える女官たちの着用分の着物をまとめて注文したことがわかります。
さらには、女院として、後水尾上皇の皇子・皇女や孫など、大所帯の天皇家の人々に着物を贈るなど、細やかな気配りをしていたのです。また、着物の裂(きれ)は、袱紗(ふくさ)や袋物、趣味の「押絵(おしえ/人物・花鳥などの型紙に綿を敷き、布で包んで貼り付ける布細工)」などにも使用されていたのだとか。

幕臣の寛永期の業務日誌でもある『大内日記』には、毎年、東福門院には、幕府から多額の金銭援助があったことが記載されています。『大内日記』によると、東福門院和子の御所の会計は幕府財政の枠内にあり、天皇・院を大きく上回る巨額の金銀や米が動き、これを彼女につけられた多人数の幕臣たちが管理していたのです。

流行した「御所風」ファッション=寛文小袖

ところで、徳川和子の着物のデザインが市井の人々の間で流行するとは、いったいどういうことなのでしょうか?
そのヒントが、江戸中期の菊岡沾凉(きくおか せんりょう)が様々な事物の起源を解説した随筆『本朝世事談綺(ほんちょうせじだんき)』の「御所染」の項に記されていました。

菊岡沾凉『本朝世事談綺』 国立国会図書館デジタルコレクション

寛永のころ 女院の御所にて好ませられ おほくの絹を染させられ 宮女官女下つかたまでに賜る 此染京田舎にはやりて 御所染と云

「女院の御所」とは、和子のこと。美しく、そして艶やかに着飾ることを好んだ和子は、京都の呉服商・雁金屋におびただしい数の着物を注文します。それらの衣装は「御所染」と称され、自身に仕える宮廷の女官や侍女に下賜(かし)されて市中に広まり、ついには地方でも流行。大胆な模様の着物を一般の人々も着るようになったのです!
女性の着物が四季や吉祥の模様を中心としたパターン化したデザインから、着物を一枚の絵画のように見立てて全身で模様を構成するスタイルに大きく変化を遂げたのは、寛文年間(1661~1673年)のことです。

「小袖 黒綸子地波鴛鴦模様(こそで くろりんずじなみおしどりもよう)」 江戸時代・17世紀 所蔵:東京国立博物館 出典:ColBase (https://colbase.nich.go.jp)

画像は、万治年間から寛文年間に流行した、いわゆる「寛文小袖」の代表作です。
肩から肩身、裾にかけて大胆に孤を描く網干模様は、弧を描くような躍動的なデザインで、波のようにデフォルメされており、また筍のようにも見え、遊び心満点。波間に鴛鴦が戯れる様子を刺繍と鹿の子絞りで表しています。

セレブ御用達ショップは、京の雁金屋

京の新興呉服商・雁金屋は、徳川和子の後水尾天皇入内に関する衣装を一手に引き受け、また、その後も和子の呉服御用をつとめました。『雁金屋小袖注文帖』などの注文の控えが、のちに「雛形本」となっていきます。

尾形光琳・乾山の実家でもある雁金屋とは?

雁金屋の主である尾形家は、近江国小谷(おだに)城主であった浅井長政(あさい ながまさ)の家来筋と言われ、その縁で、長政の娘である淀殿(=茶々)、京極高次夫人(=初)、徳川秀忠夫人(=お江与)の三姉妹から贔屓にされました。雁金屋は、彼女たちの婚家からだけではなく、江戸城大奥からも膨大な注文を受けていました。お江与の娘である徳川和子も、雁金屋を贔屓にしました。
その雁金屋の当主・尾形宗謙(おがた そうけん)の次男が画家の光琳(こうりん)、三男が陶芸家の乾山(けんざん)です。

「光琳模様」という「光林」ブランドの流行

尾形光琳は、絵画だけではなく、工芸品のデザインも手がけました。「光琳模様」と呼ばれるデザインの特徴は、花鳥の輪郭を簡略化すること。正徳年間(1711~1716年)頃から雛形本にも「光琳模様」が登場しますが、大流行するのは光琳の死後のことでした。
享保12(1727)年に『当世美女ひながた』が再版されると、矢継ぎ早に「光琳模様」を謳(うた)った雛形本が刊行され、「光琳模様」は「光林(こうりん)」というブランド名で広まっていきます。京都の浮世絵師・西川祐信(にしかわ すけのぶ)が描く美人画や絵本には「光琳模様」の着物が描かれており、まずは京都で大流行したことを伺わせます。

西川祐信画『雛形都風俗』より 国立国会図書館デジタルコレクション

禁令をくぐり抜け、流行を生み出す町人たち

当時、衣装に財産を費やしたのは徳川和子だけではありません。
太平の世となって町人たちの経済力が高まることで、町人も文化の担い手となり、経済力をつけた商家の妻女たちも衣装に贅を尽くすようになりました。豪華な刺繡(ししゅう)や絞りで飾られた元禄期の着物は、王朝文化への憧れから雅(みやび)で華やかな総模様が流行します。
このため、贅沢が風紀を乱すものとして、たびたび幕府から奢侈(しゃし)禁止令が出されます。最も厳しい禁令として有名なのが、天和3(1683)年の禁令で、「惣鹿の子」「縫箔(ぬいはく)」「金紗(きんしゃ)」という鹿の子絞り、刺繍、金糸による着物の3つの染織技法が禁じられました。

友禅染の時代の到来

しかし、このような禁令で着飾ることをやめるような町人たちではありません。刺繡や絞りでなくても美しい模様が染められるということで流行したのが、友禅染でした。
染物(そめもの)は織物や刺繡と比較すると格が劣ると考えられていましたが、友禅染は筆で細密に彩色したような絵画的な模様を着物全体に染めることができました。友禅染の技法は、色落ちせず、多彩色(たざいしき)と色目糊による繊細な輪郭で描く絵画のような模様を染める画期的なものでした。

天和4(1684)年には、人気絵師・菱川師宣(ひしかわ もろのぶ)が下絵を描いた雛形本『新板当風御ひいなかた』(内題『当世早流雛形(とうせいそうりゅうひながた)』)が刊行されます。

菱川師宣画『当世早流雛形』より 国立国会図書館デジタルコレクション
衣裳図のほか、上巻巻頭に見開きで呉服店の仕事場風景、下巻巻頭に美人揃えの座敷図があります。

その序文には、「このごろは人々の好みが華美から軽きを重んじるものに変わったので、慣れない人々のために模様・絵様・染様の説明を上部に書き加えた」とあります。禁令を逃れつつ、色鮮やかな友禅染の時代を打ち出したのでした。

雛形本に描かれる着物のデザインは、これまでの絵画的な構図から小さな模様を散らした模様へと変化していきました。模様の中には、当時の江戸文化に見られる「見立(みたて)」「やつし」「もどき」といった、ひねりのある趣向が盛り込まれました。

粋の美学の誕生

江戸時代中期になると、度重なる奢侈禁止令が原因なのか、それともきらびやかさに飽きてきたのか、人々の好みに変化が現れます。
「四十八茶百鼠(しじゅうはっちゃひゃくねずみ)」と言われるブラウン(茶)とグレー(鼠色)のバリエーションを増やし、「褄(つま)模様」「裾(すそ)模様」「裏模様」「縞(しま)模様」「小紋」といった洗練・簡素をよしとする「粋(いき)」の美学を築きます。江戸時代前期から成人男性が好んできたシックな色や模様が、若い女性にまで好まれるようになったのです!

鈴木春信「雪の湯帰り」 メトロポリタン美術館

シックな着物に合うのは、幅の広い、様々な模様を織り出した繻珍(しゅちん)や天鵞絨(ビロード)の帯で、帯結びに変化をつけておしゃれを楽しんでいたことが錦絵にも描かれています。そして、着物裾からちらりと見えるのは、贅沢な紅染(べにぞめ)の板締(いたじめ)や絞り柄の間着(あいぎ)や襦袢。隠れたところに凝る「粋」の美学が見られます。

流行の発信源は、雛形本から錦絵へ

時代とともに人々の好みが変化するだけではなく、ファッションの流行を伝えるメディアも変化していきます。
江戸時代に発展を遂げた浮世絵は、18世紀後半になると、何色もの版木を摺り重ねた多色刷版画が誕生し、様々な色糸によってつくる織物・錦のように美しいため、「錦絵」とも呼ばれるようになりました。人気の歌舞伎俳優や評判の遊女や町娘が着こなす色鮮やかな着物コーデを描いた錦絵は、ファッションの流行を伝えるにはぴったりのメディアだったのかもしれません。

今回、雛形本について調べてみて、錦絵以前にも流行ファッションを伝える雛形本というメディアがあり、その誕生には徳川和子という当時のセレブが関係していたことがわかりました。そして、江戸時代の女子たちもファッションに興味深々で、セレブファッションを真似ていたことに親近感を抱いてしまったのは、私だけでしょうか?

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アイキャッチ画像:豊原国周「浜御殿御遊覧之図」(明治23年) 国立国会図書館デジタルコレクション

主な参考文献

書いた人

秋田県大仙市出身。大学の実習をきっかけに、公共図書館に興味を持ち、図書館司書になる。元号が変わるのを機に、30年勤めた図書館を退職してフリーに。「日本のことを聞かれたら、『ニッポニカ』(=小学館の百科事典『日本大百科全書』)を調べるように。」という先輩職員の教えは、退職後も励行中。

この記事に合いの手する人

大学で源氏物語を専攻していた。が、この話をしても「へーそうなんだ」以上の会話が生まれたことはないので、わざわざ誰かに話すことはない。学生時代は茶道や華道、歌舞伎などの日本文化を楽しんでいたものの、子育てに追われる今残ったのは小さな茶箱のみ。旅行によく出かけ、好きな場所は海辺のリゾート地。

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