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Culture
2021.05.06

まるで生きているかのよう?国宝・鑑真和上坐像に胸が震える!特別展『鑑真和上と戒律のあゆみ』

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鑑真について、誰もが知っているエピソード。それは、中国から何度も日本への渡航に失敗しながら、最後には成功した高僧というものでしょう。でも、それ以上のことはというと……。恥ずかしながら、私は詳しく知らないまま、いい年齢になってしまいました。

京都国立博物館で、国宝・鑑真和上坐像が寺外で12年ぶりに出展されると知りました。奈良時代に戒律を伝えた鑑真と、その後の日本仏教の流れをたどる特別展『鑑真和上と戒律のあゆみ』です。不屈の高僧に触れるチャンスと、会場へ足を運びました。

◎新型コロナウイルス感染症の感染予防・拡大防止のため2021年5月11日(火)まで臨時休館中です。12日(水)以降の開催については、公式サイト等で確認ください。

鑑真とは?

688年、鑑真は中国の揚州(現在の江蘇省)に生まれました。熱心な仏教徒だった父親の影響もあり、14歳で出家します。21歳で長安(現在の西安)に出た鑑真は、戒律※を授かり、正式な僧になります。当時の大都会だった長安で、律宗や天台宗をはじめ、医療についても熱心に学びました。その後、26歳で故郷に戻った鑑真は、多くの人に戒律を授け、布教活動を行いました。やがて、中国屈指の高僧として知られるようになります。

※仏教徒が守らなければいけない道徳規範「戒」と、僧侶が守らねばいけない規則「律」のこと。律は破ると罰則がある。

なぜ、苦労してまで日本へ?

中国で尊敬される僧として、地位も名誉も持っていた鑑真は、なぜ苦労してまで日本へ渡ってきたのでしょうか? 疑問が膨らみます。学芸部・保存修理指導室長の大原嘉豊(おおはらよしとよ)さんにお話を聞きました。

「それは、日本では僧らしき人しかいなくて、同情したからだと思います」。僧らしき人? 一体どういうことなんでしょう? 「仏教が発祥したインドやその教えが伝わった中国では、僧になるには、戒律を授かって初めて正式な僧と認められました。この授戒には3人の師と7人の僧がそろうのが掟でした。日本では仏教は伝わっていましたが、正式な僧が10人そろわなかったので、できなかったのです」。当時の日本では、経典はあっても、戒律を正しく伝えられる僧がいませんでした。また税を逃れるために、勝手に得度する僧が現れて社会問題になっていました。世界と対等な国づくりのために、規律を作ることが重要課題だったのですね。

授戒のために来日してくれる僧を探しに、2人の日本人の僧が唐へ渡りました。聖武天皇に命じられた、奈良の興福寺の栄叡(ようえい)と、普照(ふしょう)です。鑑真は40代半ばで、戒律に優れた僧は他にいないと言われるほどの高僧でした。彼らが会うことができたのは、唐へ渡って9年が経過した時で、その頃鑑真は55歳でした。

「鑑真は弟子たちに日本への渡航志願を聞いたのですが、名乗り出る者がいませんでした。そこで自らが来日を決意したのです。その時に言った有名な言葉が、『何ぞ身命(しんみょう)を惜しまんや 諸人(もろびと)行かざれば 我即ち去くのみ』です」

鑑真が来日を決意したのは、あるエピソードも関わっていたと言います。「2人の僧が頼みに行く前に、奈良時代の貴族長屋王が、唐に袈裟を贈っていたのです。袈裟には、『山川異城 風月同天 寄諸仏子 共結来縁』という漢詩が刺繍されていました。中国と日本は、山も川も異なるけれど、風と月は同じで、ともに仏縁のある国だという意味です。鑑真はこの詩を見て感銘を受けていたので、依頼を受けた時に、日本へ渡る決心をしたと伝えられています」と、企画室の小林亜姫さんが教えてくれました。

当時、中国から日本への渡航は命がけでした。海上の天気についての技術も乏しく、船の技術も不十分な時代でした。予期せぬ悪天候で難破して、船を修復して再出発してまたもや座礁したりしました。高僧の鑑真を失いたくないための妨害行動もあり、実に5回も失敗に終わっています。この過酷な旅の途中では、栄叡や愛弟子の死や、5度目の渡航で漂流して鑑真が失明するという苦難もありました。6度目でやっと来日を果たした時には、12年の年月が経過し、鑑真は66歳になっていました。

鑑真が日本にもたらしたもの

今回展示されている東征伝絵巻(とうせいでんえまき)※には、中国から日本へ渡った鑑真の生き様が描かれていて、聖武天皇らに東大寺の大仏殿前で授戒している場面もあります。奥の間に控えるオレンジ色の袈裟姿の鑑真を見ると、長年の望みが叶った瞬間だったのだろうと感慨深い気持ちになりました。

重要文化財 東征伝絵巻 巻5 部分 蓮行筆 鎌倉時代 応仁6(1298)年 奈良・唐招提寺蔵 撮影:金井杜道(展示期間は公式サイト等をご確認ください)

戒律とは、元々僧侶が集団で修行し、生活するために、お釈迦様が定めたとされる規則や基準のことでした。鑑真が日本に伝えたのは戒律だけではなく、食べ物などの文化や、様々な分野の職人の技術もあったようです。

出展している国宝・伝獅子吼菩薩立像(こくほう でんししくぼさつりゅうぞう)は、鑑真が唐招提寺を開いた頃の仏像ではないかと考えられています。それまでの日本にはない、異国風の表情に彫られているので、鑑真と一緒に中国からやって来た職人が制作に関わったと言われています。

※鑑真の伝記を絵巻化したもの。唐招提寺を建立し、亡くなるまでが描かれている。鎌倉・極楽寺の忍性がこれを作らせて、唐招提寺に寄進したとされている。

迫力と愛に満ちた鑑真和上坐像

今回、初めて鑑真和上坐像を目の前にした時、ぴんと張り詰めた空気が漂っている気がしました。想像以上にリアルで、まるで生きているかのようです。人柄をも表しているようで、包み込むような穏やかさと強い精神性を感じて圧倒されました。

「左肩が少し前に出ているところまで、写実的につくっているんですよ。閉じられた目には、まつげが描かれています。口元には無精ひげが生えているので、私は鑑真の体調が良くなくて、寝ついていたのではと思います」と、大原さん。あえて、そのままを写しているのですね。でもどうしてなのでしょう? 「この坐像は、弟子の忍基が唐招堤寺の講堂の梁(はり)が折れる夢を見て、師の死期が迫っていると察知してつくらせたものなんです」。春の時期に師匠への思いを込めて、弟子たちはありのままを写した坐像をつくりました。そして5月になると、鑑真は生涯を閉じたと伝えられています。
 
「それまで日本では肖像を写すという風習自体がありませんでした。ですから、この鑑真和上坐像が、日本で現存する最古の肖像彫刻になります。写実的な像をつくったのは、中国に伝わる高僧の亡骸を漆で固める加漆肉身像(かしつにくしんぞう)とも関連すると思います。師匠の教えと像をつくって後生に伝えるのは、とても重要なことだったのです」

国宝 鑑真和上坐像 奈良時代(8世紀)奈良・唐招提寺蔵 撮影:金井杜道

この坐像は、脱活乾漆(だっかつかんしつ)という技法でつくられているのも特徴です。粘土でまず形をつくり、その上に漆に浸した麻布と木屑漆(こくそうるし)を交互に何層にも重ねていきます。そして漆が乾いてから、中の粘土を抜き取って、仕上げています。

時代の変換期に、見直される教え

鑑真が命がけで日本に伝えた戒律は、その後日本独自の進展をします。平安時代の名僧・最澄(さいちょう)は、実情に合わせた最低限の規範で良いのではないかと考えます。この姿勢は、後の浄土宗の法然(ほうねん)や、浄土真宗の親鸞(しんらん)、日蓮法華宗の日蓮に受け継がれました。

「鑑真は戒律を広めただけでなく、お経や解説書も日本へ持ってきました。天台宗で重んじられた梵網経(ぼんもうきょう)を伝えたのも、大きなことですね」と大原さん。梵網経では、出家・在家を区別せず衆生(しゅじょう)の戒は、仏性の自覚によって形成されると説いています。最澄はこの教えに基づいて比叡山に大乗戒壇※をもうけました。

※従来の戒壇を小乗戒壇とし、大乗戒を授けるための戒壇。最澄の死後に天皇の許可が得られた。

梵網経 巻下 部分 奈良時代 天平勝宝9(757)年 京都国立博物館蔵

武家が現れて社会が激変した鎌倉時代に入ると、戒律が再び見直されます。唐招提寺の覚盛(かくじょう)や、西大寺の叡尊(えいそん)がそれぞれ戒律を復興し、現在の律宗と真言律宗の基礎を築きました。「鑑真が戒律のスタンダードを作ってくれたから、戻ることもできた訳です」と大原さん。

時代の変わり目になると、戒律は見直された歴史があるようです。鑑真が伝えた戒律の精神や、時代ごとの変化を、史料や美術工芸品、仏具、仏像から感じ取ることができます。日本の仏教の礎に貢献した鑑真や、真摯に戒律を追求した名僧たちの姿は、現代を生きる私たちに、何だか元気を与えてくれます。

『鑑真和上と戒律のあゆみ』基本情報

◎新型コロナウイルス感染症の感染予防・拡大防止のため2021年5月11日(火)まで臨時休館中です。12日(水)以降の開催については、公式サイト等で確認ください。

会期:2021年3月27日(土)~5月16日(日)まで
開館時間:9時~17時半(入館は閉館30分前まで)
休館日:月曜日
入館料:一般1800円、大学生1200円、高校生700円
会場:京都国立博物館(京都市東山区茶屋町)
京都国立博物館公式サイト:https://www.ganjin2021.jp

アイキャッチ:国宝 鑑真和上坐像 唐招提寺蔵 撮影 金井杜道
参考文献:『日本をつくった名僧100人』末木文美士編、発行 平凡社 『日本の名僧 その生涯と言葉』日本の名僧研究会編 発行 双葉社

書いた人

幼い頃より舞台芸術に親しみながら育つ。一時勘違いして舞台女優を目指すが、挫折。育児雑誌や外国人向け雑誌、古民家保存雑誌などに参加。能、狂言、文楽、歌舞伎、上方落語をこよなく愛す。ずっと浮世離れしていると言われ続けていて、多分一生直らないと諦めている。