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2021.07.09

龍馬のセリフでお馴染みの「ぜよ」は高知県内では幻の言葉!?絶滅の危機から救った坂本龍馬と「ぜよ」の歴史

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「戻るぜよ、あん世界へ」

知る人ぞ知る、平成21(2009)年に放送されたドラマ『JIN-仁-』第1話のシーンにて。勤務医の南方仁(大沢たかお)が、胎児様腫瘍の入った瓶と医療器具を持ち出して逃げる謎の包帯男と病院の階段の踊り場ですれ違い、その胎児様腫瘍の入った瓶をめぐって口論となった挙句、階段から転げ落ちていく南方の脳内に響いた有名なセリフだ。

この段階では包帯男が誰であるのか不明であったが、物語が展開されるなかで、包帯男は坂本龍馬(内野聖陽)であり、「戻るぜよ、あん世界へ」は龍馬が放った言葉ではないかと南方が推測しながら回想するシーンも。

さて近年、高知県や坂本龍馬が関連する広告のキャッチコピーにおいて必ずと言っていいほど目にする言葉がこの「ぜよ」である。

『龍馬(わし)の水ぜよ』

(高知県室戸の海洋深層水使用/赤穂化成株式会社)

「土佐から来たぜよ!坂本龍馬展」

(平成29[2017]年、ホテル雅叙園にて開催された美術展)

このように、ドラマや広告などの影響から、「ぜよ」は高知県内で広く使われている高知方言(土佐弁)と思い込んでいる人は少なくないだろう。

ところが、実際は高知県内ではほとんど使われていないという。一方で、高知県出身でない一般の人々の間ではSNSなどで積極的に使われるという、大阪弁の「なんでやねん」と同様、ある意味で二極化が進んだ方言なのだ。

えぇ〜どういうこと?

歴史とともに振り返る「ぜよ」の歴史

「ぜよ」は元々高知発祥の言葉ではなかった

『JIN-仁-』では坂本龍馬が語尾に「ぜよ」を付けて喋っている。そして、そんな龍馬は高知県を代表する志士。ということで、私たちの脳裏には「ぜよ=高知方言(土佐弁)」という認識が定着している。しかしながら、高知方言を専門とする言語学者、高知大学の上野智子(うえのさとこ)教授によると、「ぜよ」は高知発祥の言葉ではない。

横浜方言の「じゃん」「横はいり」がそうであるように、方言がその土地発祥の言葉でないというのは、とりわけ珍しいケースではないのだが……。

「ぜよ」に関して言えば、高知県のみならず、高知県宿毛市に隣接した愛媛県南宇和郡でも話されていた。さらに半世紀以上も前まで遡るが、遠く離れた長野県更級郡大岡村(現在の長野県長野市大岡地区)での報告例もある。ちなみに、現在の高知県内では「ぜよ」はごく一部の年齢層に限定されるものの、男女共用の言葉である。

「ぜよ」をめぐっては「ぜ」と「よ」が組み合わさって生まれたという説がある。なお、現在の高知県内では「ぜよ」とは異なり、「ぜ」は老若男女を問わず幅広く使用されている。さらに、愛媛県でも使われている。

坂本龍馬誕生地-(公財)高知県観光コンベンション協会
で、「ぜよ」はどんな変化をしていったの?

江戸から始まった「ぜ」はその後、上方で「ぜえ」から「で」へ変化。江戸の「ぜ」と上方の「ぜえ」とでは、語形が異なるほか、意味的用法の面でも違いが見られた。江戸の「ぜ」が命令・禁止・疑問文を除く文末に付けて、相手に対して注意を促す言葉として使用されたのに対し、上方の「ぜえ」は自分の思いを親しい間柄の相手に伝えるための言葉として普及した。

こうして、江戸で生まれた「ぜ」は語形、意味ともに変えつつ、上方を経て高知県に伝えられ、やがて同じ意味を表す「よ」が組み合わさって「ぜよ」が生まれた。

次はさらに細かく、「ぜ」について!

「ぜよ」の前身、「ぜ」は女性の言葉であった

さて、「ぜよ」の歴史を遡ること江戸時代。当時、江戸では女性が語尾に「ぜ」を付けて喋っていた。それは式亭三馬(しきていさんば)の代表作である滑稽本『浮世風呂』を通しても確認することができる。その後の時代の流れの中で、「ぜ」は男性言葉としての意味合いを強めていった。

上野教授の研究によると、現在でも愛媛県南予地方に位置する喜多郡内子町(きたぐんうちこちょう)では男性よりも女性のほうが「ぜ」を使用するケースが圧倒的に多いのだとか。その点、江戸の影響が遠い愛媛の地で強く受け継がれた事例と言える。

かくいう筆者は愛媛県東予地方出身だが、学校生活を振り返ると、男女問わず「しようぜ」といった言葉を使用しており、どちらかというと男性よりも女性のほうが好んで使用していた印象が強い。上野教授の研究では愛媛県の内子町や松山市にて見られる現象として報告されているが、もしかすると愛媛県の広い範囲で使われている用法なのかもしれない。

すごくどうでもいいけど昔のあだ名は「うちこ」でした。勝手に親近感……

「ぜ」は江戸から始まり、上方を経由し、四国内に伝わったわけだが、同じ四国内でも伝わり方は一様ではなかった。徳島県では上方の「で」を伸ばした「でー」が定着。一方の内子町では女性語化した江戸の「ぜ」の用法がそのまま引き継がれるかたちで使われている。ちなみに、高知県の「ぜ」は岡山市内の方言の「で」と意味的に近いものであることが言語学者である高知県立大学の橋尾直和(はしおなおかず)教授の研究により判明している。

「ぜよ」は現在の高知県ではほとんど使用されていない

明治や大正生まれの方が多くを占めていた時代には、町のあちこちで「ぜよ」が溢れていた。(とはいえ、そんな当時でもどちらかと言うと類似の用法を示す「ぞよ」のほうが用いられることが多かったとされているが)。現在の高知県民の間では「ぜよ」よりも「ぜ」が好まれており、「ぜよ」はドラマなどの世界で一人歩きするという、高知県内ではまるでツチノコのような幻の言葉と化している。

映画「鬼龍院花子の生涯」の「なめたらいかんぜよ~」という台詞が脚光を浴びてから土佐弁というと語尾に「~ぜよ」がつく。と、思われがちですが、最近はほとんど使われていません。

(高知県南国市のホームページ内の「龍馬ファン必見!龍馬のルーツ「才谷」探訪」の記事より)

高知県出身の話者がふだん話している方言会話のなかにはどうしたわけか姿を現さない。(中略)私が四半世紀の間に一度だけ耳にした自然発話のなかの「ぜよ」は、50歳台の男性のそれである。「やっと聞けた」という感動の方が大きく、不覚にも筆録できなかった。居酒屋の暖簾をくぐりながら仲間の男性に気軽に話しかけた、短く断片的な発話であったことをおぼえているに過ぎない。

(上野智子の論文「「ぜよ」はどこから-出自と動向を探る-」)

上野教授が実施したフィールド調査によると、語尾に「ぜよ」を付けて話す人は70~80代の高齢者(男女)に限定された。しかも、「ぜよ」が確認されたのは高知市から離れた場所に位置し、四万十川の下流にほど近い高知県西南地域の幡多郡黒潮町(はたぐんくろしおちょう)の6例のみ。県庁所在地である高知市内では確認されていない。

だんだん使われなくなったのはなんでだろう。そして私たちはなぜ「ぜよ」のイメージが強いのかな

坂本龍馬と「ぜよ」の歴史

今や「ぜよ」が高知県内ではマイナーな言葉であることを認識したところで、ここからは小説やドラマなどで一人歩きしている「ぜよ」について見ていこう。あくまでもドラマや小説の世界での話だが、坂本龍馬は最初から「ぜよ」と喋っていたというわけではなかった。

明治期の歴史小説では龍馬は書生言葉を話していた

高知県を代表する志士、坂本龍馬は『JIN-仁-』をはじめ、数多くのドラマや小説作品に登場しているが、その中には龍馬を主人公に描いた小説も少なくない。歴史を遡ると、龍馬を主人公に描いた小説としては、明治時代に自由民権運動にも参画した新聞記者兼小説家の坂崎紫瀾(さかざきしらん)が明治16(1883)年、高知の地元新聞『土陽新聞(どようしんぶん)』に投稿した連載小説『汗血千里駒(かんけつせんりのこま)』が初であるとされている。ここで注目すべきは、『汗血千里駒』では龍馬が土佐弁を話す人物として描かれていないという点だ。

「龍馬」の自称詞は「僕」、恋人・お良に対する対称詞は「おまへ」と、明治の書生のようなことばづかいをする人物として造形されている。坂崎紫瀾自身は、生まれこそ江戸だが、土佐藩医の次男で藩校まで出た土佐育ちの土佐弁ネイティブであるにもかかわらず、「龍馬」のセリフはおろか、作品内には「土佐弁」的特徴を用いた箇所はあらわれない。

(田中ゆかり『「方言コスプレ」の時代』

つまり、この時点では語尾に「ぜよ」を付けて喋る龍馬は存在しなかったということを意味する。

『汗血千里駒』に触発され、後に史論家の白柳秀湖(しらやなぎしゅうこ)の『坂本龍馬』や、小説家・俳人の矢田挿雲(やだそううん)の『大政奉還』も出版された。だが、戦前におけるこれらの出版物では、坂本龍馬に限らず、勝海舟や西郷隆盛もまた書生言葉を話すキャラとして描かれている。ちなみに、書生言葉とは明治から大正にかけて、上京して学問に勤しむ男性が使っていた言葉を指す。

近世名士写真其2-国立国会図書館デジタルコレクション

当時、日本の言葉に統一感がないことに危機感を覚えた明治政府は、富国強兵のスローガンのもとに標準語政策を実施。学校で方言を使用した者には罰として「方言札」と呼ばれる木札を首から下げさせるなど、標準語の普及のために徹した。

そんなに厳しかったの!こわい……

その国策の影響もあり、作品内において方言を用いることは原則としてタブー視された。地方のリアルさを求めつつ、方言の使用に積極的であった真山青果(まやませいか)でさえも、戯曲「坂本龍馬」において土佐弁はおろか、一切の方言的要素を加えるのを慎まざるを得なかった。

龍馬の方言キャラは時代とともに徐々に定着していった

では、いつから坂本龍馬は方言を喋るようになったのだろうか。ここでまずカギを握るのが、真山青果の助手を経てプロレタリア劇作家となった和田勝一(わだしょういち)が著した龍馬関連の戯曲「海援隊」である。この作品は昭和14(1939)年に執筆されたものだが、その後昭和52(1977)年、国立劇場にて上演された。

饅頭代払はずに死んだげなと言はれたら、チクと武士の対面に拘はるきにのう、はゝゝゝ。しかし、対面ちうもんは窮屈なもんぞ。おれは好かん。

(早稲田大学演劇博物館所蔵の国立劇場1977年11月歌舞伎公演台本より戯曲「海援隊」)

土佐藩郷士に放ったセリフは基本的に共通語で書かれたが、上の例に見るように、くだけたやりとりには「ちくと」「~き」といった土佐弁的要素が採用された。(その他にも、「げな」「すかん」など、土佐弁とは関係のない方言的要素が書き加えられたが)。しかしながら、この段階では作品内の坂本龍馬に対して土佐弁的要素が与えられたものの、現代のドラマ作品に見るような確立された土佐弁キャラには至らなかった。

作品内において土佐弁キャラが確立したのは、知る人ぞ知る司馬遼太郎の長編時代小説『竜馬がゆく』である。

しかし『竜馬がゆく』の「龍馬」も、本節の冒頭で確認したように、最初から「方言キャラ」としての立ち位置が決まっていたわけではなく、物語作品の中でヒーローとして「成長」していくにしたがい、「方言キャラ」としての立ち位置が確立されていったようにみえる。

(田中ゆかり『「方言コスプレ」の時代)

一九七〇年代には、日本語社会において、「方言」を「個性」の象徴としてポジティブにとらえる見方が広がりつつあった(中略)「組織におさまりきれない個性をもった存在」である「龍馬」の作品中での「成長」にしがたい、司馬遼太郎が「方言」を与えていったのは、意図的かどうかはともかく、新しいヒーロー像を確立するひとつの方策となったとみていいだろう。「方言ヒーロー・龍馬」の「成長」と確立は、「方言」を「個性」とみる時代の気分の先取りであったと捉えてもいいだろう。

(同上)

1970年代の高度経済成長期には、大学進学率が上昇したほか、集団就職という形で地方から上京する青年たちが急増。それゆえ、東京は共通語と地方の方言のバイリンガルで溢れかえった。司馬遼太郎『竜馬がゆく』における方言の積極的使用は、そのような世相の反映とも言える。

マダムキラーのイケメン俳優○○が土佐弁のイメージを変えた

平成22(2010)年12月、言語学者である日本大学文理学部の田中ゆかり教授が実施した方言イメージに関する調査によると、「土佐弁=男弁」という意識が明確にあらわれている。ちなみに、平成19(2007)年に実施した同様の調査では、土佐弁も高知方言も特定のイメージへと結びつかない地方の一方言に過ぎなかった。

わずか3年の間に土佐弁のイメージがガラリと変わった背景には、その時に起きた出来事が関係していると考えるのが妥当であろう。平成19(2007)年から平成22(2010)年までに起きたことを時系列に並べると、平成21(2009)年に『JIN-仁-』の放送があり、そして翌年には『龍馬伝』が放送された。どちらも「ぜよ」を喋る坂本龍馬のキャラが際立つドラマだ。

『龍馬伝』では、最初から主人公の「龍馬」は「土佐弁キャラ」として造形されており、その他登場人物の台詞にも非常に多く「方言」が与えられている。「土佐ことば指導」「京ことば指導」「長州ことば指導」「薩摩ことば指導」と歴代大河ドラマの中でもっとも多くの「方言指導」がついたドラマで、方言時代劇と呼んでもよさそうな番組である。その中でも福山雅治演じる主人公「方言キャラ・龍馬」が用いるヴァーチャル土佐弁が、番組の放送を機会に「急浮上」してきたことがわかる。

(田中ゆかり『「方言コスプレ」の時代』

『JIN-仁-』と言えば、江戸にタイムスリップした医師が現代の医療で人々を救っていくという予測不能なストーリーは多くの人々を虜にし、高視聴率を獲得。その後、映画化されるとともに、完結編として第2シリーズも放送された。確かに、そのドラマで土佐弁を話す内野聖陽は実に印象的であった。が、土佐弁のイメージを変えたのは内野聖陽ではなく、福山雅治ではないかと筆者は考える。

福山雅治と言えば、結婚するまでは雑誌社が企画する「結婚したい男性芸能人ランキング」では常連に入るほど、独身女性の間では最後の砦として人気が高かったお方である。平成27(2015)年、女優の吹石一恵との電撃結婚を決めた時には株価が急落するという“福山ショック”も起きた。株価を変動させるほどの力を秘めているのだから、土佐弁のイメージを変えるなどたやすいはずだ。
恐るべし福山雅治……。

高知・桂浜の龍馬像-(公財)高知県観光コンベンション協会

ルーツを遡ると、高知県発祥の言葉でもなければ、高知県特有の言葉でもない、ましてや今や高知県内ではほとんど使われていない「ぜよ」が、なぜ高知方言として市民権を得るようになったのかと言うと、やはり坂本龍馬と結びつけたメディアによるところが大きいと言える。

そして、絶滅しかけていた「ぜよ」を(ドラマや小説上の)龍馬が救った。「ぜよ」を喋る龍馬像は、高知方言としての「ぜよ」の起死回生をかけたメディア戦略であったのかもしれない。

(参考文献)
『「方言コスプレ」の時代-ニセ関西弁から龍馬語まで-』田中ゆかり 岩波書店 2011年
「「ぜよ」はどこから-出自と動向を探る-」上野智子『高知人文社会科学研究(4)』高知大学
「高知市方言文末詞「ゼ」「ゼヨ」の意味論的考察」橋尾直和 『語文と教育(34)』鳴門教育大学 2020年
『日本のことばシリーズ39 高知県のことば』平山輝男・上野智子編 明治書院 2020年

書いた人

1983年生まれ。愛媛県出身。ライター・翻訳者。大学在籍時には英米の文学や言語を通じて日本の文化を嗜み、大学院では言語学を専攻し、文学修士号を取得。実務翻訳や技術翻訳分野で経験を積むことうん十年。経済誌、法人向け雑誌などでAIやスマートシティ、宇宙について寄稿中。翻訳と言葉について考えるのが生業。お笑いファン。

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編集長から「先入観に支配された女」というリングネームをもらうくらい頭がかっちかち。頭だけじゃなく体も硬く、一番欲しいのは柔軟性。音声コンテンツ『日本文化はロックだぜ!ベイベ』『アートラジオ』担当。ポテチと噛みごたえのあるグミが好きです。