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2021.07.05

血液型診断は日本発祥!?根拠がないのに「〇〇診断」に惹かれてしまう理由

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人は弱い。弱いくせに強がる。分からないのに何もかも分かったふりをする。
あまり格好のいいものではないが、しかしそれは本能に組み込まれた性質であり、誰しもが多かれ少なかれ、潜在的に持ち合わせている要素でもある。

常に穏やかな笑みを湛え、稲穂のごとく頭を垂れることのできる人の偉大さが身に染みる、今回はそんな話をしてみようと思う。

「診断」されたがる人たち

「あ、その行動は●型?」
「え。違う……」

血液型性格診断のこんなやり取り、わりとよく見かけないだろうか?
それもそのはず、現在では血液型と性格の間には明確な関連がないことが分かっているのだ。

私もよく●型!?って聞かれます。当たっているとなんか悔しい…

しかし血液型診断に限らず「○○診断」といったものは常に人気を博し、日々新しいものが生み出されている。
どうして人は診断(病気のほうではなくて)したがる・されたがるのだろう?

この疑問が意外にも、どうして勉強しないといけないの? という、たぶん多くの人が抱いているであろう問題とも深く結びついていることが分かった。順を追って見ていこう。

血液型性格診断って、結局なに?

まずは先ほど軽く触れた血液型性格診断について、少し詳しく見ていこう。

血液型性格診断とは、特定の血液型に特有の性格傾向がある、と考えるものだ。しかしこれは世界規模ではなく日本発祥で、日本とその影響を受けた近隣諸国でしか知られていないのだという。

血液型で性格を診断する、という考え方が初めて世に出たのは大正5(1916)年7月、原来復(はら きまた)と小林栄の2人の医師による。原と小林は血液型と性格・体格を結び付けた説を展開、次いで大正14(1925)年には陸軍軍医である平野林と矢島登美太が将兵の血液型と階級・身体面・懲罰経験などを関連付けている。昭和2(1927)年4月には陸軍軍医の中村慶蔵が性格・学業成績・懲罰経験・既往症・食べ物の嗜好と血液型を結び付けた講演を行った記録が残る(内容は不明)。

軍でも取り入れている!って言われたら、なんか信じちゃう。

血液型性格診断を最も推し進めたのは昭和初期の古川竹二である。古川の研究は新聞や一般雑誌にも取り上げられ、単行本『血液型と気質』も出版、陸海軍で受け入れられて大いに盛り上がった。また、血液型性格診断は1970~2000年代初頭にかけてテレビや書籍・流行歌などで一大ブームとなったが、平成16(2004)年、BPO(放送倫理・番組向上機構)によって、血液型と性格に関連があるという見方を助長することのないよう、とする声明が発表された。
血液型性格診断の根本にあるのが「バーナム効果」であると判断されたからである。

バーナム効果とは?

血液型性格診断には早くから否定的な意見が唱えられていたが、一部では根強く信じられている。その最大の理由が「バーナム効果」である。

医療機関など治療目的で受けるものではない、気軽に楽しむ娯楽の○○診断も、なんだかどれも当たっているような気がした経験はないだろうか?

人は誰しもその人ならではの個性を持っていて、クローンのようにまったく同じ性質を持つ別人は1人としていない。しかし、何かしら共通する部分は持っているもので、診断の結果が完全に一致したというのではなくても、どこか思い当たる節があったりする。
多くの人に当てはまる要素が散りばめられていて、全体としてなんとなく当たっているような気もする、それが、血液型性格診断の正体といわれる「バーナム効果」なのだ。

血液型性格診断が信じられ続ける、いくつかの要素

血液型性格診断が信じられる理由には、別の要素もある。

たとえば学歴で人を判断するようなレッテル貼り、そのレッテル通りでないと例外と判断するような心理、あるいは無意識のうちにレッテル通りに振る舞うようになる刷り込み的暗示などである。

いずれにしても、血液型性格診断には科学的根拠がない。その証拠に、特徴を別の血液型のものと入れ替えて提示しても、かなり多数の人が「当たっている」と回答したという。

「血液型ステレオタイプ」は近年社会問題にもなっており、血液型によって性格を判断し、不快にさせる「ブラッドタイプ・ハラスメント」は不当な差別と見なされている。

性格はどのように形成されるのか

性格は持って生まれたものだけで決まるわけではない。もちろん、遺伝的要因があることは確かなのだが、後天的に獲得した環境要因によるものもかなり大きい。家族や友人など身近な存在の長期に渡る接し方はもちろんのこと、グループ内での役割・立ち位置・状況によってもまるで別人のような振る舞いを見せることは日常生活でも確認できるだろう。生まれた国や時代によっても性格が変わるであろうことも指摘されている。

あの人はこんな性格、という評価は、あくまで自分から見てこうだ、というだけの話であることも多い。ある他人の評価が一定ではないのと同様に、自分も他人から様々な異なる評価を受けているとしてもなんら不思議ではないのだ。
少し話がずれてしまったが、持って生まれた要因だけで性格が決まるのではない、ということは、身体的な性質のみで性格が判断できるものではないという証拠でもある。

動物や物にまで? 古今東西、人類はあらゆる◯◯診断をしてきた!

洋の東西を問わず、見た目や身体的性質などで性格や吉凶を判断するといったことは古くからなされてきた。こうした見方による説は多く唱えられており、ごく一部ではあるが見るべきものも存在する。

見た目や身体的性質と性格を結び付ける考え方で最も有名なのは、古代ギリシャのガレノスによる体液説だろうか。黒胆汁の多い人は憂鬱に、血液の多い人は陽気に、粘液の多い人は冷静沈着に、黄胆汁の多い人はせっかちで怒りっぽく、など体液と性格が結び付いていると考える説だ。4種類の体液の分類はそれぞれ、こんにちでは実際にそういうものがあるとは認められていない。
古代ギリシャでは他に、顔つきの似た動物と人の性質を繋げて考える説も存在するが、いずれも行き詰まっている。

ドイツの解剖学者ガルによって19世紀初頭に唱えられたのは、頭蓋骨の盛り上がりによって性格を判断しようとした「骨相学(こっそうがく)」だ。精神機能と結びついている大脳の領域が発達することによって、その部分の頭蓋骨が盛り上がる、とした説だが、これも現在では否定されている。

差異があると分類したがる。人間の性なんでしょうか?

こうした試みの対象は人のみにとどまらない。
中国には、額に白斑を持つ馬を凶とみる向きがあった。小説『三国志演義』には、蒯越(かいえつ)が劉備(りゅうび)にこの不吉な的盧(てきろ)の特徴を持つ名馬に乗らないよう進言する場面が出てくる。劉備は進言を迷信だと退けて的盧に乗り続け、難を逃れることができた。

左側の茶色の馬が、恐らく「的盧」の特徴を持つ馬。現在では「流星鼻梁鼻白上唇白(りゅうせいびりょうびはくじょうしんはく)」と呼ばれる種類の白斑だが、西洋の馬ではさほど珍しいものではない

日本でも馬、あるいは刀などの所持品の特徴で吉凶を占うといったことが行われていた。

戦場におけるジンクスといったものも戦国武将の間では信じられてきたが、これも「見えないものを見ようとする」試みの1つではなかっただろうか。
戦国時代・合戦前のしきたり5選。駄洒落みたいな縁起担ぎやタブー・吉凶占いも紹介

医療用の心理テストと一般の心理テストとの違いって?

では、医療機関などで使われている心理テストとそれ以外とは、具体的にどう違うのだろうか? 質問項目があってどれがどのくらい当てはまるか答えていく、というような形式は珍しいものではなく、はた目にはこれといった違いが分からない。

関連があるように思える、というのと、そこに本当に因果関係があるかどうか、というのとは、しっかり分けて考える必要がある。そして、これこそが実際に医療の現場で使われている心理テストと一般の心理テストとの最大の違いだ。

かなりざっくりとした説明にはなるが、そうだろうと思える現象がいくつかある=そうである、と考えるのが一般の心理テスト、それらしい現象がいくつかあるが、別の要素が介在している可能性はないか、偶然が重なったということはないか、などあらゆる角度から検討を行い、調査・実験を重ねた結果成立するのが医療用心理テストだ。
イメージとしては、ろ過してろ過して、もうこれ以上他の物質は混ざっていない、と言える段階まで磨き上げたのが医療用。実際にはいくつかの心理テストを組み合わせて判断するが、個々のテストもそれぞれ高い精度が期待できる。

現象の純度を高めていって結果を導き出すという考え方自体は心理学研究特有のものではなく、他の分野にも共通する研究法だ。情報が氾濫する現代においては日常生活にも使える視点であり、ネットの誹謗中傷対策にも応用できるかもしれない。

分からないと怖い、人間だもの

みな、薄々気付いているのではないだろうか? 世の中にあふれる○○診断の多くには根拠がないということに。
それでも、不確かだと分かっていても、人は信じたいのだ。

理解できないものに、人は不安になる→不安になるからその対象を攻撃するor避けようとするor固まって行動を停止する、あるいはストレスフルな状態から逃れるため、とりあえずレッテルを貼って「知っているもの」の枠に入れ、安心しようとする(※その他の回避行動もあり)

このうちのレッテル貼りプラス先ほどのバーナム効果が、特に根拠のない心理テストを信じやすくなってしまう構図だ。他人はおろか自分自身でさえ、完璧に理解できることはない。分からないことは何であれ、やはりストレスに違いないのだろう。ただ、やはりしっかりした根拠のないものであれば、楽しむまでにとどめておきたいものだ。

なお、未知のものに遭遇したとき、威嚇・攻撃したり逃げたり、といった反応は、ネコやイヌはじめ動物に広く見られる。

未知との遭遇で「たたかう」「にげる」身に覚えがあるな〜

人も動物も、同じ時代を生きる友達だ

どうして勉強しないといけないの? の根本にあるもの

どうして勉強しないといけないの? 子どもにされて困ってしまう質問の上位に常にある問いではないだろうか。
この答えの1つがなんと、一般の心理テストを信じるメカニズムと通じているというのだ。

「分からないことを分からないと認め、それでもパニックに陥らずにいられる手段を得る」。それが、勉強をする理由の1つとされる。もちろん、その他にもたくさん理由はあるだろうが、これは学ぶということの根底にある、重要な要素だ。

未知の存在に出くわしたとき、人は不安緊張状態に陥る。その解消を図る手段としてのレッテル貼りが医療用でない心理テストと通じる、ということだが、裏を返せば、そもそも「未知の存在」でなければ不安にもならない、ということでもある。「知っている」を増やすことももちろん勉強の意義の1つだ。

ある事に対処する手段を獲得すると、それと似た状況においても応用が効く、という研究結果がある。まったく同じアクシデントばかりが常に繰り返されるということはないが(前もって対処するようになる)、似通った別の問題が起きたときにも共通点を見つけて焦らず解決できるようになるのだ(ただし、基本をしっかり習得できていない場合には逆効果となるケースもある)。そういった意味での「レッテル貼り」は本質を見誤らない限り、非常に有効だ。

「レッテル貼り」も、賢く使えば身を助ける?でもきっと大切なのは知識&想像力ですね!

また、多くの知識を身に付けることによって、分からないことが世の中には無数に存在するのだから、いちいちパニックにならなくてもいい、ということを知り、「分からない→不安→攻撃→無用な敵を作る」という流れに陥らずに落ち着いていられる効果も期待できる。非常にストレスフルな現代社会においては、むしろこちらのほうが重要なのかもしれない。

自分が今持っている知識や技術では対処しきれない出来事にぶつかったとき、攻撃するか・逃げるか・行動や思考を停止するか・レッテルを貼って一時的に安心するか・分からないことを認めて冷静でいられるか。
人間の心が複雑怪奇なのは間違いないが、案外シンプルにできている部分もあるのかもしれない。

人は弱い。しかしその弱さこそが強さでもある。己の弱さを認めてからが、本当の勝負なのかもしれない。

アイキャッチ画像:歌川国貞(二代)『百人一首絵抄 十五』メトロポリタン美術館より

参考文献:
・坂元昴・東洋共編『学習心理学』新曜社
・大村政男『血液型と性格』福村出版
・J・Aグレイ(八木欽治・訳)『ストレスと脳』朝倉書店
・『誠信 心理学辞典』誠信書房
その他、筆者出身大学独自テキスト・講義ノートによる

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人生の総ては必然と信じる不動明王ファン。経歴に節操がなさすぎて不思議がられることがよくあるが、一期は夢よ、ただ狂へ。熱しやすく冷めにくく、息切れするよ、と周囲が呆れるような劫火の情熱を平気で10年単位で保てる高性能魔法瓶。日本刀剣は永遠の恋人。愛ハムスターに日々齧られるのが本業。

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平成元年生まれ。コピーライターとして10年勤めるも、ひょんなことからイスラエル在住に。好物の茗荷と長ネギが食べられずに悶絶する日々を送っています。好きなものは妖怪と盆踊りと飲酒。