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Culture
2021.08.20

27歳の上杉謙信が書いた手紙を大公開!出家願望は本心?それともフェイク?

この記事を書いた人

寝る前にひたすら祈る。
どうかどうか。目が覚めれば……7日後になっていますように。

これは、実話だ。創作でもウケ狙いでもない。私の黒歴史の一幕。じつは、一度だけ、「現実逃避」を真剣に考えたコトがある。

もう10年ほど前となるだろうか。未だ組織の中で、私がしゃかりきに働いていたときの話である。半年ほどかかる社内の一大プロジェクトの責任者に抜擢されるところまでは良かったのだが。プロジェクト本番の1ヵ月前にして総崩れ。

見かねて上層部が手を入れるも、かえって逆効果。現場は混乱し、対立を深め、それが裏目に出た。こうして、残念ながら、本番の1週間前には、既に立て直しができない状況が判明した。

あとは、どのようにして本番当日を乗り切るか。
もちろん、できる限りのことをやるのは当然だが。早くプロジェクトが終わって欲しいと、ただひたすら呪文の如く祈り続けていた。我ながら、よくぞ正気を保てたなと思う。いや、違う。寝る前に本気で「人生の早送り」を狙っていたのだから、やはり、正気ではなかったのか。

さて、いきなり話を進めてしまったが。
今回の記事を書くにあたって、ふいに思い出したのだ。忘れたくても忘れられない当時の辛くて悲しい記憶たち。瓶の底へと沈めたというのに再び甦るとは。そうして、記憶はぐるぐると彷徨って。10年前の自分から、戦国時代の「あの方」へと一足飛び。

ここで、今回の記事の主人公となる「あの方」をご紹介しよう。
戦国武将の中でもダントツに謎めいている人気の武将。
「越後の虎」こと、上杉謙信である。

ちなみに、謙信も「現実逃避」をしたかったのだろうか。というのも、当時27歳と働き盛りであるにもかかわらず、突如、彼は「出家」を宣言したからである。上昇気流に乗った戦国武将は、現場を捨てて高野山へGO。この出奔劇に、現場は大パニックに陥った。

今回は、上杉謙信が書いたとされる手紙を紐解きながら。当時の「出家」騒動の裏側をウォッチングしていこうという企画。一体、謙信には出家願望があったのか、なかったのか。

それでは、早速、ご紹介していこう。

※冒頭の画像は、一勇斎国芳 「武田上杉川中嶋大合戦の図」 出典:国立国会図書館デジタルコレクションとなります
※この記事は「上杉謙信」の表記で統一して書かれています

かつて幼い頃に出家していたってホント?

じつは、上杉謙信の出家は初めてではない。
7歳(数え年)のときに、曹洞宗の林泉寺(新潟県)に入っているのだ。

上杉謙信は越後(新潟県)の出身。永禄3(1530)年、守護上杉氏の守護代で、春日山城の城主であった「長尾為景(ためかげ)」の子として生まれている。

守護代とは、簡単にいえば、守護に代わって統治を行う役職のコト。中世の守護は、原則、鎌倉や京都に在住するのがほとんど。そのため、領地内で実務を行っていたのが、彼ら守護代であった。

ただ、時は戦乱の世。下剋上が当たり前の風潮において「守護代」が「守護」を超えることも。父の為景は、その代表例。謙信が生まれるずっと前。永正4(1507)年に守護である上杉房能(ふさよし)を滅ぼしている。その後、傀儡守護を立て、一旦は、実質的な越後国主に収まることに。

なお、父の為景には、家督を継がせる予定の嫡男がいた。「晴景(はるかげ)」である。謙信からみれば長兄に当たる人物で、両者の年齢差は18歳ほど。家督争いを避けるためかは定かではないが。結果的に、父の為景は、謙信(当時は虎千代)を林泉寺へと入れる。これが天文5(1536)年のこと。

小林清親筆 「教導立志基」「廿八」 東京都立中央図書館特別文庫室所蔵 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)

この林泉寺で出会ったのが、運命の人。
今後の謙信の人生に深く関わることとなる「天室光育(てんしつこういく)」である。一般的には、林泉寺にて7年もの間、謙信は天室光育和尚より薫陶を受けたとされている。

ただ、1つ気になるコトが。
『名将言行録』によれば、一度城へと戻されたという内容も。以下、一部を抜粋する。

「ほんのちょっとした遊びにも異様なものを好み、精悍で胆略があった。どうかすると父為景の気持ちにそむくようなこともあった。為景はこういう彼を愛さず、出家させようとして越後国橡尾(とちお)の浄安寺にやった。虎千代は僧になることを嫌って、僧事を学ばず、山の子どもたちと戦争ごっこをしていた。時に八歳である。寺僧は、僧にはなれないと見定めると、ただちに為景のもとに帰らせた」
(岡谷繁実著『名将言行録』より一部抜粋)

これは、どうやら『北越軍談』の内容がベースとなっているようだ。『北越軍談』とは、上杉謙信が活躍した時期の100年ほどのちに書かれた書物で、著者は江戸時代の国学者である槙島昭武(まきしまあきたけ、号は駒谷散人)。

この『北越軍談』を参考にすると。
「林泉寺」において、天室光育和尚が禅教育を施そうとしたのだが。なかなかどうして、謙信の扱いを持て余し、一度は、春日山城へ戻すことに。そして再び、謙信の身柄は違うお寺へ。今度の預け先は「浄安寺」。ここでの謙信は心を入れ替えたようである。今度は真面目に修業をしたため、天室光育和尚らの取り成しで、春日山城へと戻ることができたという。

コチラの記述だが。
結論からいえば、創作の可能性も否定できず、真偽は不明なのだとか。

ただ、1つだけ確かな事実がある。
それは、林泉寺で出会った天室光育和尚が、謙信にとって「人生の師」になるというコト。今回、取り上げる謙信の「出家」。そんな大事な決断を手紙にて報告した相手こそ、この天室光育和尚なのである。

そこには、謙信の溢れ出す本音が紙面ぎっしり。彼の喜怒哀楽が包み隠さず書かれている。こんなにも素直に打ち明けることができるのも、ひとえに天室光育和尚が相手だったからだろう。

高野山を目指したのは本気だったのか

それでは、上杉謙信の決意がみなぎる手紙をご紹介しよう。

「このたび私、宗心(長尾景虎=上杉謙信)の身上について、二人の使者を遣って様々に申し述べましたので、わが師・天室光育様には、きっと私の出家への願いをお聞き届けになられたことかと存じます」
(吉本健二著『手紙から読み解く戦国武将意外な真実』より一部抜粋)

宛先は、天室光育和尚。
ちなみに、手紙の中の「宗心」とは、天文22(1553)年の上洛の際に、京都の大徳寺の「徹岫宗九(てっしゅうそうきゅう)」に参禅して受けた、謙信の法号である。大徳寺は、臨済宗の寺。手紙の宛先は、曹洞宗の禅僧である「天室光育」。出家するために向かった先は、真言宗の総本山である「高野山」。

臨済宗、曹洞宗、真言宗。
なんだか、とっても不思議な感じ。
これを見る限り、当時の謙信は、宗派に特別のこだわりがなかったようだ。

さて、話を戻そう。
手紙の日付は弘治2(1556)年6月28日。当時の謙信は27歳。

ここに至るまでの謙信の人生は、予期せぬことの連続。
ただ、彼の転機は、思いのほか早く訪れる。幼き頃に入れられた林泉寺で一生を終えるかと思っていたのだが。彼の修行は、呆気なく終わりを迎える。つまりは「還俗(出家した者が俗人に戻る)」するのである。

彼を還俗させたのは、なんと、父ではなく兄。
父は長兄の「晴景」に家督を譲った数年後に死去(時期は諸説あり)。その後、残念ながら、晴景は父の存在を埋めることができなかったようだ。

病弱だった晴景に代わり、長尾家側にいた武将らは「弟」の出陣を切望。晴景はそんな声を無視することができず、謙信を俗世へと戻すのである。もちろん、この判断が正しかったのはいうまでもない。押し寄せた敵陣を撃退し、謙信はその名を広めることに。謙信14歳のときである。

月岡芳年「月百姿(陣中の月)謙信」 出典:国立国会図書館デジタルコレクション

そんな謙信の活躍を見て、大いに騒ぐ者も。現在家督を継いでいる晴景をすげ替えようとする動きが出てくるのである。当然、一族は不穏な雰囲気に。しかし、ここで兄弟間の争いに発展するかと思いきや、守護である「上杉定実(うえすぎさだざね)」の仲介により、無事回避。

結果的に、謙信は晴景の養子となり、守護代長尾家を相続することに。天文17(1548)年。19歳の謙信は家督を継ぎ、春日山城へ入城したのである。以降は、一族を率いて戦いに明け暮れる日々が続く。

その成果が着実に表れて。
次第に、国内を安定させていく謙信。

簡単にここまで説明したが。
彼の実際の手紙には、自身の功績が、遠慮なくつらつらと書かれている。身も蓋もない言い方だが、謙遜など一切ない。やはり、人生の師に認めてもらいたいのか。とってもドラマティックな口調である。一部を抜粋しよう。

「私、宗心は若輩でありましたが、亡父・為景、そして長尾家の名字に傷が付くといけないと考え、思いがけなく上府し、春日山城へ入りました。すると、どうでしょう、国中がいつのまにか静謐となってしまったのです」
(同上より一部抜粋)

確かに、褒めて欲しいと誰しもが思うもの。これまでの人生を振り返りながら、ついつい、筆が……となってしまうのも、理解できなくもない。

ただ……。
いや、待てよ。
段々、その筆の雲行きが怪しくなる。

「……国中も平和となって豊穣となったところで、長くこちらにあって安閑と過ごすうちに横合いから難儀が起き、今までの功績が徒(あだ)となってしまうことを恐れます」
(同上より一部抜粋)

うん?
急に、ここにきて心配性なのか?
先ほどの、自信満々の謙信はどこへ行ったのやら。急激なボリション(しょんぼり)具合に、こちらも事態が呑みこめない感じ。謙信曰く、名声を得たから、今度はそれを汚したくないということか。

さらに、先をいくと。
あっ。

とうとう、謙信は。
決意しちゃったワケです。はい。

「……古人も『功成り名を遂げたからんは身を退くものだ』と言っているとうけたまわりますので、私もこの言葉を受け、遠国へ行って心中のことを定めたく思います(つまり、国主を退任して出家したく思っているのです)」
(同上より一部抜粋)

言葉だけではない。皆の予想に反して、謙信は出奔。越後を離れて、高野山へと向かったというのである。となると、フェイクではないということか。

なお、結論からいえば。
謙信の出家は失敗した。

謙信の後を追ってすがりつく家臣らを放置できず。そうこうしているうちに、領内で争いが起こり、鎮圧するしかなかったのである。あれほど、師である天室光育和尚に、恥ずかしげもなく胸の内をさらしたというのに。彼の計画はあえなく潰えたのであった。

ただ、この謙信の出家騒動で、1つだけ残ったものがある。
それが、家臣らの誓詞と人質。
簡単にいえば、「戻る代わりに、絶対裏切るなよ」という、家臣からの確約が取れたのである。

デキすぎじゃね?
そう思うのは、私だけだろうか。

こうなると、ある疑惑が1つ浮かび上がる。
この家臣らの誓詞と人質の確保という結果だけをみれば、もともと、それを狙った出家騒動なのではという疑惑。

果たして、上杉謙信は、本当に出家を望んでいたのだろうか。

ここからは私の個人的な見解だとお断りしておこう。
なんとなくだが。
謙信の出家願望は本当のような気がしてならないのだ。

だって、あの謙信である。家臣らが押し寄せて諫言するのも予想していただろう。確かに、彼らの本気度を見たかったと思えなくもないが。彼らが追って来なければ、それはそれでいい。別の主君を立てて、自分を見限るのも、運命だ。そんなふうに、流れに身を任せたかったのではないだろうか。

つまりは、自分の選択を神に委ねる。
疲れ果て、一瞬だけ、自分の人生を放棄する。

人生は平坦な道ではない。幾つもの分岐点がある。生きていれば、どうしても自分で選べないときだってある。だからこそ、神の意志を問う。そして、自分の選択に、人生に自信を持とうとするのだ。

出家願望を跳ねのけて戻った謙信をみれば。
案外、それも悪くないのかもしれない。

最後に。
冒頭での私の「現実逃避」事件に触れておこう。

残念ながら、私の場合、上杉謙信とは大いに異なる結果となった。
ズタボロの私に残ったモノといえば、
社内での有り難くないあだ名と、10円玉ハゲ。

おっと、忘れてた。
あと1つ。
マジでヤバイ時には、目のすわった女となることができる特技。

神からの試練は、厳し過ぎたのである。

参考文献
『手紙から読み解く戦国武将意外な真実』 吉本健二 学習研究社2006年12月
『名将言行録』 岡谷繁実著  講談社 2019年8月
『戦国武将を育てた禅僧たち』 小和田哲男著 株式会社新潮社 2007年12月

書いた人

日本各地を移住するフリーライター。教育業界から一転、ライターの道へ。生まれ育った京都を飛び出し、馬車馬の如く執筆する日々。戦国史、社寺参詣、職人インタビューが得意。