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Culture
2021.08.25

あの本多忠勝を「かす」呼ばわり!?家康のために舅まで射抜いた「内藤正成」の凄さとは

この記事を書いた人

「娘婿」に弓矢を構えられる「舅(しゅうと)」の気持ち。
それって、一体、どんな感じなのだろうか。

まあ、まずは目を疑うわな。

そんでもって、ハッと我に返る。
そうか。この戦いでは、自分たちは敵味方に分かれてしまったのかと。

こうして、冷静に現在の状況を把握。それでも慌てることはない。だって、敵とはいえ「娘婿」なんだから。大丈夫だと、自分に言い聞かせる。

ただ、物事には「絶対」というコトはない。
だからというワケでもないが。一応、相手には「義父アピール」をしておく。もちろん舅という立場上、少しだけ余裕を残しつつ。「おいおい、さすがに額とか勘弁してくれよ」と、半ば強引に目を合わせて……。

さて、この続きが気になるあなたに。
先に結論だけ、お教えしよう。

残念ながら、じつに残念ながら。
舅の楽観的な予想は大いに外れた。
真正面で弓矢を構える娘婿。その姿勢は一向に崩れることなく、大粒の汗が額に浮かび上がる。そして、一筋すうっと流れたところで。

「主君の大事、舅上御免」

そう叫んで、弓矢を放ったのである。

この「娘婿」こそ、今回の記事の主役。
徳川家康に仕えた「徳川十六神将」の1人。
弓の名手「内藤正成(ないとうまさなり)」である。

「主君一筋」という、いかにも戦国武将のステレオタイプ。今回は、そんな彼の真面目で実直な「美点」に是非ともスポットを当てたい。ただ、長所と短所は表裏一体。場合によっては、その「美点」が「汚点」となることも。

一体、彼の「美点」が引き起こしたトラブルとは何だったのか。
もちろん、弓矢にまつわる武勇伝も交えながら。

それでは、早速、ご紹介していこう。

※冒頭の画像は、歌川芳虎 「東照宮十六善神之肖像連座の図」 岡崎市立中央図書館所蔵となります
この記事は、「徳川家康」の表記で統一して書かれています

驚愕!膝を射抜かれた舅の最期とは?

冒頭での「娘婿」VS「舅」の対決場面。
現代では信じられないような構図なのだが。当時は、親族が敵味方に分かれたというコトも珍しくない時代。特に、この「三河一向一揆」での戦いは、親族だけでなく家臣までもが2つに分かれて戦ったという。まずは、簡単にその背景から説明しよう。

永禄3(1560)年5月。
東海地方の一大勢力であった今川義元が、「桶狭間の戦い」でまさかの討死。これにより人生に転機が訪れたのは、なにも勝った「織田信長」だけではない。当時、今川氏の人質だった「徳川家康(当時は松平元康)」もだ。念願の三河国(愛知県)岡崎城へと戻ることが、ようやく実現。晴れて今川氏より独立し、諱(いみな、名前のこと)を「家康」と改めたのである。

その後、家康は幾多の戦いを制し、その勢力を拡大。結果的には、豊臣秀吉に先を越されたものの、のちに天下人へと大出世。そんな彼を天下統一まで支えたのが「徳川十六神将」と呼ばれる功臣たちだ。先ほどの「娘婿」として登場した「内藤正成」も、そのうちの1人として名を連ねる。

さて、本記事の主人公である「内藤正成」について。
通称は「四郎左衛門(しろうざえもん)」。家康よりも15、6歳年上の武将である。

「徳川二十将・上杉八将・武田二十四将図」東京国立博物館所蔵 出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/

もともとは、本家筋の伯父「内藤清長」に属して、上野城(愛知県)を守っていたのだが。その卓越した弓矢スキルが、家康の父である「松平広忠(ひろただ)」の目に留まり、召し出されることに。広忠はもちろん、続く家康にも仕えることになるのである。

さすが「徳川十六神将」ということだけあって、ご自慢の「弓矢」にまつわる逸話は非常に多い。例えば、永禄6(1563)年の牛窪合戦では、こんな感じ。江戸幕府が編修した旗本の伝記集『干城録(かんじょうろく)』(巻第112)から一部抜粋しよう。

「正成が最後尾を務めて進んでくる敵を射ました。その矢が鞍の前輪から後まで抜けたので、敵兵はこれに恐れをなして、進むことができずに退きました」
(吉岡孝監修『内藤正成の活躍』より一部抜粋)

前輪から後輪に抜けるって。もはや、特撮並みの映像である。確かに、そんな矢が前からビュンビュン飛んでくれば、尻込みするのも無理はない。一方、高天神城(静岡県)攻めの際には、正成の射た矢がわざわざ敵陣から送り返されたことも。1本の矢で2人を殺すのは並大抵の射手ではないと、褒め称えられたからだという。

そんな彼の武勇伝は、意外にも「弓矢」にまつわるコトだけではない。じつは、「忠義」や「実直」など、内面に関する逸話も数多く残されているのだ。

特に、その忠臣ぶりが際立つのが、冒頭での「三河一向一揆」の場面であろう。徳川家康の人生における「三難」の1つとも呼ばれるこの戦。永禄6(1563)年9月から約半年にも及ぶ戦いである。

今川氏から念願の独立を果たした家康。
彼は岡崎城へと戻り、領国化に向けて様々な政策に着手する。ただ、当時の西三河の一部では、寺を中心に既に「寺内町」が形成されていた。守護の立ち入りができない「不入の特権」なども認められている状況。これに対して、家康が従来の方針を維持すれば良かったのだが。聖域なき改革として、彼はこの特権を侵害したのである。

大蘇芳年「徳川治績年間紀事・初代安国院殿家康公」(右)出典:国立国会図書館デジタルコレクション

これを機に、家康反対派の国人(こくじん)や土豪、農民、一向宗門徒などが入り乱れて一揆を蜂起。高い結束力で有名な家康の家臣団であっても、残念ながら宗教が関わるとなると話は別。一向宗門徒の家臣らは、「宗教」OR「主君」の二者択一を迫られる状況に陥ったのである。これまで「味方」であった者たちが「敵」として戦う。それは、まさに地獄絵図の状況だろう。

なお、冒頭でご紹介した「娘婿」の「内藤正成」は、主君である家康側に。対して、「舅で伯父」でもあった「石川十郎左衛門(じゅうろうざえもん)」は一揆側へ。味方のみならず、親族をも分かれての戦いとなったのである。

何があっても致し方ない。そんな覚悟があったとしても。現実に舅を弓矢で射るのは、きっと避けたかったであろう。しかし、状況は切迫していた。あろうことか、舅が主君である家康を討ち取ろうとしていたからである。

正成は瞬時に選ぶしかなかった。
「舅」か「主君」か。
いや、選ぶというよりは、とっさに体が動いたのかも。

こうして、主君を守るため。
正成は「舅上御免」と叫び、舅の両膝を射抜いたというワケである。

ちなみに、舅はこの傷により命を落としている。
いくら主君のためとはいえ、誰しもが行えるコトではない。頭では分かっていても、実行に移すなど簡単にはできないはず。

だからだろう。当時、家康の右腕だった「石川数正(かずまさ)」。彼は、この内藤正成の行いを見て、家康にこんな言葉を残している。

「決して(あの者の行いを)忘れませんように」

あの本多忠勝をタジタジにさせた男

そんな内藤正成のような忠臣が揃う「徳川十六神将」。
なかでも、別格扱いされるのが「徳川四天王」である。

仏教の守護神である「四天王」を暗示した呼称だとも。ちなみに、4人とは、井伊直政、榊原康政(さかきばらやすまさ)、本多忠勝(ほんだただかつ)、酒井忠次のコト。いずれも武力に長けた錚々たるメンバーである。

この4人のうち特筆すべきは、やはり「本多忠勝」の存在だろう。57戦を無傷で終えたなどの逸話も多く、「戦国最強の武将」との呼び声も。そんな忠勝をビビらせたのが、あろうことか、この内藤正成だというのである。彼の忠義ぶりが、とうとう勢い余って裏目に出てしまった結果だというが。

一体、内藤正成は何をやらかしたのか。詳しくみていこう。

大蘇芳年「徳川治績年間紀事・初代安国院殿家康公」(中)出典:国立国会図書館デジタルコレクション

天正3(1575)年6月。
家康が遠江国(静岡県)の二俣城を攻めたときのことである。

さて、問題の内藤正成はというと。
家康らと共に出陣する予定だったのだが。ちょうど、その前に足を怪我してしまい、浜松城の守りを任されることに。従軍できない分、余計に気合を入れて。何が何でも浜松城を死守しようとする正成。

そんな彼の気持ちを知ってか知らずか、天候は最悪。次第に風雨が激しくなり、とうとう家康らの軍勢は先に進むことを断念する。こうして、夜中にもかかわらず、彼らは浜松城へと引き返すことに。

風雨の中、ようやく浜松に到着したところで。
家康と共に出陣していた本多忠勝は、まず浜松城へと知らせを出す。一刻も早く城門を開けるようにと、城へと人を走らせたのである。

しかし、である。
それでも、一向に開かない城門。

もちろん、理由は1つ。
城門の内側で、従軍できずにいた内藤正成が仁王立ちしていたからだ。鬼の形相で、門の鍵を固めて開けようとせず。だって、家康ら軍勢が出立して夜中に戻って来るなんて。絶対、怪しすぎる。騙して城門を開けさせる作戦だと、正成はピンと閃いたのである。

歌川芳虎画 「東照宮十六善神之肖像連座の図」 岡崎市立中央図書館所蔵

一方、本多忠勝はというと。
主君である家康を、まさか城門の前で待たせるワケにもいかず。仕方なく、今度は忠勝自身が城門へ。門を激しく叩いて、開けるようにと催促する。殿が帰ってきたと、繰り返すのだが。

それでも微動だにしない城門。
全くもって開く気配がない。

加えて。
城門が開かないのみならず。戦国最強の武将である「本多忠勝」に命の危険が。その一部を『徳川実紀』よりご紹介しよう。

「正成は櫓に上り、『この暗夜に、誰が殿(家康)のお帰りなどと偽っているのか。やかましい。そこのかすを撃ち殺せ』と、鉄砲に火縄を挟み構えたので、忠勝はどうすることもできなかった」
(大石学ら編『現代語訳徳川実紀 家康公伝3』より一部抜粋)

なんとも切ない「かす」呼ばわり。
何度もいうが。あの無傷のレジェンド、本多忠勝を「かす」呼ばわりである。現場は非常に切迫しているのだが。つい、両者の睨み合いを想像すると笑いが込み上げる。互いに必死なのに、噛み合わないギャップが、さながらコントのよう。余りにもシュールな情景だ。

こうなっては、あの忠勝といえども手出しができず。これには、さすがの彼も困り果てる始末。やむを得ず、主君である家康にヘルプ要請をかますことに。

これを受けて。
今度は家康の出番である。直々に城門まで行って、正成を説得することに。

「君(家康)が、『四郎左よ、私が帰ってきたぞ』とおっしゃると、正成は(家康の)御声に聞こえたが、尚も不審に思ったのだろう。隙間から提灯を出して、たしかに(家康の)尊顔を照らして確認した後、急いで御門を開けてお入れ申し上げた」
(同上より一部抜粋)

結果的には、無事に城へと入ることができた家康ら一行。それにしても、家康の声だけでは信用しない周到さ。あまりの厳重警備体制に、あの本多忠勝も苦笑い。

正成の「美点」が引き起こしたちょっとしたトラブルだったが。もちろん、家康は大満足。

──お前のような者に城を守らせれば大変安心だ
こうして家康は、内藤正成を褒めたという。

最後に。
織田信長にも、豊臣秀吉にも一目置かれていたという内藤正成。

そんな彼の晩年は、比較的穏やかだ。
天正18(1590)年。
家康の関東入封で、武蔵国埼玉郡に5千石が与えられ、正成は栢間村(かやまむら、埼玉県久喜市)に陣屋を構える。

慶長7(1602)年4月。
病により死去。享年76。

このとき、2代将軍「徳川秀忠」は、正成の病を侍医に治療させたという。結果的には、手を尽くす甲斐もなくこの世を去るのだが。この特別扱いからも、徳川家にとって正成の存在の大きさが分かるというもの。

きっと、慶長5(1600)年の「関ヶ原の戦い」にて、さぞや大活躍したからだろう。だから最期まで大事されるのだと思いきや。じつは、一切出陣せず。

なんと、当時、徳川家から出された「出陣要請」を、正成は断っていたというのである。

その理由は、ただ1つ。
自分が従軍するまでもなく、徳川家康の勝利を確信しているからだとか。

あえて断る。
ただひたすら、主君である家康の勝利を信じ切る。

ああ。
これが、内藤正成の凄さか。
そこに、彼らの固い信頼関係が見える気がした。

参考文献
『家康の家臣団 天下を取った戦国最強軍団』 山下昌也著 学研プラス 2011年8月
『現代語訳徳川実紀 家康公伝3』 大石学ら編 株式会社吉川弘文館 2011年6月
『名将言行録』 岡谷繁実著  講談社 2019年8月
『内藤正成の活躍(歴史資料でよむ久喜市ゆかりの人物ブックレット3)』吉岡孝監修 久喜市教育委員会 2018年3月30日

書いた人

日本各地を移住するフリーライター。教育業界から一転、ライターの道へ。生まれ育った京都を飛び出し、馬車馬の如く執筆する日々。戦国史、社寺参詣、職人インタビューが得意。