Culture
2021.08.31

主君の「色欲」と闘った男がいた。戦国大名の女遊びをやめさせた「天岩戸作戦」とは?

この記事を書いた人

はじめに。
これは、主君の「色欲」と闘った、ある1人の男の物語だ。

うん?
コレって最近読んだ記事に似ているような……。そんな不安を覚えてタイトルに再び戻った方。まず、単刀直入に謝罪しよう。要らぬ手間をおかけして申し訳ない。ただ、ご心配なさらなくとも。これはまごうことなき新しい記事である。

ちなみに、思い違いでもデジャブでも。残念ながら、そのどちらでもない。事実、冒頭の書き出しは、一語一句どれを取っても、前の記事と全く同じである。単に書き出しを統一させて、シリーズ化を試みただけのコト。

へ?
まさかまさか。そんな使い回しだなんて、失敬な。ラクをしようなどという思いは、誓って一ミリもない。もちろん、思いつかなかったというワケでもなく。何度もいうが、シリーズ化を……。

何のシリーズだって?
そりゃ、人気の戦国時代記事「主君の女遊びを止めろ」シリーズである。

前回の記事では、主君である「織田信長」の女遊びを、過激な方法で止めさせた「柴田勝家」がご登場。その潔い諫言方法をご紹介して、さすが「瓶割柴田(かめわりしばた)」の異名を持つだけのことはあると、唸って終わったのだが。

太平記英勇伝」「十三」「柴田修理進勝家」 東京都立中央図書館特別文庫室所蔵 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)

今回は、シリーズ第2弾。
満を持して取り上げる方たちはというと。

主君は、キリシタン大名としても有名な「ドン・フランシスコ」。「大友義鎮(よししげ)」、出家後は「大友宗麟(そうりん)」という名で知られている九州の戦国大名である。

そして、彼の女遊びを止めるべく立ち上がったのが、コチラの方。
大友家の宿老である「戸次鑑連(へつぎ、べっきあきつら)」。こちらも「立花道雪(たちばなどうせつ)」の名の方が有名だろう。

今度は、一体、どんな方法で華麗に止めさせるのか。
「STOP! ザ・女遊び」
それでは、早速、ご紹介していこう。

※冒頭の画像は、長沢芦雪筆 「桜下美人図」 東京国立博物館所蔵 出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)となります
※この記事は、「大友宗麟」「立花道雪」の表記で統一して書かれています

依頼された僧や山伏たちが浮気封じ?

先に断っておくと。
「女遊び」という言葉から、なんだか「デキない主君」というイメージを抱きがち。ただ、大友宗麟の名誉に関して言わせてもらえば。全盛期の勢力は、とんでもなく凄かった。永禄2(1559)年頃には九州北部の6ヵ国を領し、九州の中でも一大勢力を築き上げた人物なのだ。

その軌跡は、地道な戦いの勝利の結果。
天文19(1550)年。嫡男だった大友宗麟(当時は「義鎮」)が家督を継承。継ぐというよりは、お家騒動の揚げ句に奪ったという方がより近いのかもしれない。ドラマティックな交代劇のあと、そここで起こる内乱を鎮圧。次第に地盤を固めて、近隣へと勢力を拡大。こうして、博多港の海外貿易で富を得ると、中央の幕府との繋がりを強化していく。

迫りくる中国地方の覇者「毛利元就(もうりもとなり)」との攻防戦も経験。鎌倉時代より続く名門「大友家」が最盛期を迎えられたのも、立花道雪ら大友家の家臣の働き、ひいては大友宗麟の功績だといえよう。そういう意味でも、彼は、決して「デキない主君」というワケではない。

ただ、そんな大友宗麟の女性遍歴はというと。
結婚歴は3回。最初の結婚は政略結婚だったというが。婚姻期間も短く、その後すぐに離縁。続く2回目の結婚のお相手は、奈多八幡宮(大分県杵築市)の大宮司の娘。3回のうち最も婚姻期間が長かったようだが。それも宗教などの問題と絡まって破綻。そして、3回目の結婚は、天正6(1578)年頃。相手は侍女頭の女性だったという。

落合芳幾 「太平記拾遺」「四十八」「大友侍従義統(大友宗麟の子)」 東京都立中央図書館特別文庫室所蔵 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)

これらの結婚生活が穏やかだったかといえば、そうでもない。宗麟は一時期、ある1つの問題を抱えていた。
それが「女遊び」。

ちょうど、30年近く連れ添った2回目の結婚のときのこと。願わくば、このまま国の統治に心を傾けてくれれば良かったのだが。。領国の支配が安定すると、宗麟の興味は次第に統治から遠のいていく。その移った先が「女遊び」であった。それも、火遊びの類ではない。宗麟の「女遊び」は国難レベルといえるもの。『大友記』には、このように記されている。

「……国中を尋ね、廿(はたち)前後の女(むすめ)、おどり子をめしいださるゝ事限りなし。いかなる野人にても、いろよき女をさへあげ候へば、御機嫌能(よく)御前に召出され、財宝をあたへるぞ、都より楽の役者をめされ酒宴乱舞、詩歌、管弦にて日を送り、ひとへに好色に傾き給ひけり……」
(吉永正春著『九州戦国時代の女たち』より一部抜粋)

それにしても、織田信長の時と違うのは、オープンな「好色ループ」に取り込まれているところだろう。信長のときは、姥(うば)が極秘に女人の斡旋を行っていた。どちらかというと閉ざされた闇での小規模な「好色ループ」。問題の姥さえ対処すれば、断ち切れるシンプルさが救いであった。

しかし、今回は公募制。
それに、オープンで大規模でもある。そもそも、よき女人を大友宗麟の元へと送れば、財宝がもらえるというシステム自体がネックである。主君の気に入る女人確保に奮闘する輩が、湧いて出てくるのは必至。供給網が依然として断ち切れないのである。これでは、問題解決までの道のりは、かなり難航するといえるだろう。

これに対して、2番目の妻である奈多八幡宮の娘はというと。
こんな状態の夫に、彼女はかなりのストレスを感じていたようである。そりゃそうだ。毎日、夫が酒宴に明け暮れていれば、誰だって堪忍袋の緒が切れる。

そして、彼女は驚くべき行動に……。
「神仏」に頼ったのである。

「義鎮公不行儀、御簾中(奥方のこと)深く御にくみあり、調伏あるこそおろかなれ。国中の社僧山伏こゝかしこに相集、昼夜のさかひもなく祈る事をびたゝし……」
(同上より一部抜粋)

国中の神宮、僧侶、山伏が集って、日夜祈りを捧げる。
その光景は、さぞかし圧巻だっただろうに。

コレって、相手側からすると、心底「ぶるぶる状態」になるのだろうか。呪い殺すためか、浮気封じかは定かではないが。「好色ループ」を断つために、大掛かりな神頼みだなんて。マジで怖い。怖すぎる。

それよりも。
自分の煩悩のために、本格的な封じ込め作戦が決行されているコトを知れば。きっと男性諸君は、もう、己の患部がタダでは済まない感じ。腫れるのか、いや、萎えるのか。どちらにしろ、精神的なダメージを受けることは間違いない。

つまりは、立花道雪を待たずして。
ある意味、大友宗麟の色欲が減退した可能性も。そう、感じずにはいられないのである。

道雪考案の「天岩戸作戦」が秀逸すぎる!

さて、お待たせしたところで。
この大友宗麟の「女遊び」をどのように止めさせたのか。早速、本記事の主人公である「立花道雪」にスポットを当てよう。

先ほど、ご紹介したのは「妻」側の言動。やはり、最後は神頼み。一方で、忠臣である「立花道雪」はというと、全く別の手立てを考えていた。

ちなみに、コチラの立花道雪。
大友宗麟よりも15歳前後年上の宿老家の家臣である。やはり、彼を紹介する上で欠かせないのが「雷神」の異名と、その理由だろう。昔、大樹の下で落雷に遭い、その稲妻を一刀両断。代わりに、道雪は足の自由が利かない身体となったとか。

それでも何ら問題なく、戦場では「駕籠(かご)」に乗ってご出陣。家臣らに担いでもらって、「えい、とう」とリズミカルな掛け声で士気を高める。多くの敵に襲いかかられても、全く恐れず。棒を叩いて、士卒に檄を飛ばす猛将の中の猛将なのだ。

小山栄達 等絵 「日本武勇談」 出典:国立国会図書館デジタルコレクション

そんな立花道雪が、主君の醜態を知る。

きっと、ただの「女遊び」ならば。
道雪は、そこまで諫言をしなかったであろう。しかし、大友宗麟の「女遊び」は、繰り返すが国難レベル。『名将言行録』には、このように記されている。

「いつとはなく酒にうつつをぬかし、女色に耽るようになり、昼となく夜となく女たちのいる奥にばかりいて、少しも表の侍所にはでなかった。老臣の連中が何度登城しても会おうとしない。そして別に忠勤をはげんでいるでもない者に賞を与えたり、科(とが)のない者を罰したりすることも少なくなかった」
(岡谷繁実著『名将言行録』より一部抜粋)

ポイントは、2つ。
まず、主君である宗麟が、表の侍所に一向に顔を出さないコト。侍女らのいる奥にこもって、老臣に会わないのである。次に、賞罰が恣意的なものであるコト。家臣らに対して正当な評価がなされなかったのである。

この状態は、明らかに「国難」。
コレに比べれば、織田信長の「女遊び」など可愛いいもの。一方で、大友宗麟の場合は、話が違う。放置すれば国が衰退する。そう、道雪は考えたのであろう。

主君である大友宗麟と早急に会う必要がある。そんな道雪の思いも全く通じず。いかんせん、宗麟は引きこもり状態。どんなに主君を諫めようと登城しても、会うことすら叶わない。

そこで、彼はある計画を思いつく。
それは、道雪自らが1つ芝居を打つコト。なんと、大友宗麟の「女遊び」を真似たのである。

踊り子を集めては、毎夜踊らせる。あの堅物の道雪が、まさか。いや、本当に見物しているんだって。そんな話が広がっていく。こうして、道雪は実際に酒宴を開いて、その情報を拡散させたのである。

歌川豊国(1世)画 「嫗山姥」 東京都立中央図書館特別文庫室所蔵 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)

これに素早く反応したのが、もちろん、主君の大友宗麟。

「義鎮(宗麟のこと)はこれを聞いて『艦連(あきつら、道雪のこと)はもともと、月見・花見・酒宴・乱舞などはひじょうに嫌いであったはずなのに、踊りが好きだというのはおかしい……』」
(同上より一部抜粋)

おっ。
大友宗麟、勘が鋭いじゃん。そうだそうだ。キミを奥から引っ張り出す罠なのだ。気を付けろといいたいところ。

それにしても、勘が働く様子を見れば。いくら「国難」といっても、ただうつつを抜かしているだけで、骨抜きにはされてなさそう。そんな安直な感想を持ってしまったのだが。その続きを見て、絶句。

「『おそらくわしへの馳走のつもりであろうから、ひとつ見物してやろう』」
(同上より一部抜粋)

えっ?
疑わないの?
これぞ「好色ループ」の特徴だ。自分を引っ張り出す作戦だと疑うこともなく。道雪も女人を差し出してくれると勘違いするなんて、ホントない。さすがにハマり過ぎだろと、私でさえ説教したい気分。いや、ここまで見事に煩悩が優先されると、かえって怒る気も失せるような……。

こうして、立花道雪のスマートな誘い出し作戦は成功。いそいそとお出かけした大友宗麟は、結果的に「奥」から引っ張り出されたのであった。

もちろん、このあと。
道雪のながーいお説教のような「諫言」が待っていることは、言うまでもない。

最後に。
立花道雪の真の凄さは、こんなもんじゃない。
彼が本領発揮するのは、誘い出し作戦の後である。

じつは、大友宗麟がわざわざ出向いて来たところで。道雪はすぐに諫言を行ったワケではない。なんせ、宗麟が大変喜んだというので、まずは、女人を3回も踊らせたという。

そうして、機嫌上々のタイミングで……。いや、まだだ。今度は、四方山話(よもやまばなし)をして、心をほぐす。次第に宗麟の心の壁が取っ払われそうなところで。そろそろかと、決断。

「恐れ多いことではございますが」と切り出したという。

さらに、である。
いきなり説教から始まらない。まずは、これまでの宗麟の実績を褒めて。褒めて褒めて。褒めちぎって。最後に、泣き落としという戦法を使ったのである。だからこそ、大友宗麟もへそを曲げず。そのまま道雪の諫言を、素直に受け止めることができたのであろう。

その翌日。
大友宗麟は対面にて儀式を行い、通常通りの公務を行ったとか。

決して、力押しではない。
だからといって、策略だけでもない。
そこは、織田信長に仕える柴田勝家と同じ。溢れんばかりの主君への愛情があるからこそ。見捨てずに、なんとか元の姿に戻ってもらいたい、その一心での行動だったはず。

ふと思う。
ひょっとすると、道雪は、女人の踊りを3回も見せる気はなかったのかも。

ただ、あまりにも、主君が喜んだから。
つい、その笑顔をもう少しだけ見ていたい。

そんな魔が差したのかもしれない。

参考文献
『現代語訳徳川実紀 家康公伝3』 大石学ら編 株式会社吉川弘文館 2011年6月など
『名将言行録』 岡谷繁実著  講談社 2019年8月
『九州戦国時代の女たち』 吉永正春著 海鳥社 2010年12月

▼参考文献はこちら
名将言行録 現代語訳 (講談社学術文庫)