日本文化の入り口マガジン和樂web
11月29日(月)
この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば(藤原道長)
日本文化の入り口マガジン 和樂web
日本文化の入り口マガジン 和樂web
11月25日(木)

この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば(藤原道長)

読み物
Culture
2021.08.31

主君の「色欲」と闘った男がいた。戦国大名の女遊びをやめさせた「天岩戸作戦」とは?

この記事を書いた人

はじめに。
これは、主君の「色欲」と闘った、ある1人の男の物語だ。

うん?
コレって最近読んだ記事に似ているような……。そんな不安を覚えてタイトルに再び戻った方。まず、単刀直入に謝罪しよう。要らぬ手間をおかけして申し訳ない。ただ、ご心配なさらなくとも。これはまごうことなき新しい記事である。

ちなみに、思い違いでもデジャブでも。残念ながら、そのどちらでもない。事実、冒頭の書き出しは、一語一句どれを取っても、前の記事と全く同じである。単に書き出しを統一させて、シリーズ化を試みただけのコト。

へ?
まさかまさか。そんな使い回しだなんて、失敬な。ラクをしようなどという思いは、誓って一ミリもない。もちろん、思いつかなかったというワケでもなく。何度もいうが、シリーズ化を……。

何のシリーズだって?
そりゃ、人気の戦国時代記事「主君の女遊びを止めろ」シリーズである。

前回の記事では、主君である「織田信長」の女遊びを、過激な方法で止めさせた「柴田勝家」がご登場。その潔い諫言方法をご紹介して、さすが「瓶割柴田(かめわりしばた)」の異名を持つだけのことはあると、唸って終わったのだが。

太平記英勇伝」「十三」「柴田修理進勝家」 東京都立中央図書館特別文庫室所蔵 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)

今回は、シリーズ第2弾。
満を持して取り上げる方たちはというと。

主君は、キリシタン大名としても有名な「ドン・フランシスコ」。「大友義鎮(よししげ)」、出家後は「大友宗麟(そうりん)」という名で知られている九州の戦国大名である。

そして、彼の女遊びを止めるべく立ち上がったのが、コチラの方。
大友家の宿老である「戸次鑑連(へつぎ、べっきあきつら)」。こちらも「立花道雪(たちばなどうせつ)」の名の方が有名だろう。

今度は、一体、どんな方法で華麗に止めさせるのか。
「STOP! ザ・女遊び」
それでは、早速、ご紹介していこう。

※冒頭の画像は、長沢芦雪筆 「桜下美人図」 東京国立博物館所蔵 出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)となります
※この記事は、「大友宗麟」「立花道雪」の表記で統一して書かれています

依頼された僧や山伏たちが浮気封じ?

先に断っておくと。
「女遊び」という言葉から、なんだか「デキない主君」というイメージを抱きがち。ただ、大友宗麟の名誉に関して言わせてもらえば。全盛期の勢力は、とんでもなく凄かった。永禄2(1559)年頃には九州北部の6ヵ国を領し、九州の中でも一大勢力を築き上げた人物なのだ。

その軌跡は、地道な戦いの勝利の結果。
天文19(1550)年。嫡男だった大友宗麟(当時は「義鎮」)が家督を継承。継ぐというよりは、お家騒動の揚げ句に奪ったという方がより近いのかもしれない。ドラマティックな交代劇のあと、そここで起こる内乱を鎮圧。次第に地盤を固めて、近隣へと勢力を拡大。こうして、博多港の海外貿易で富を得ると、中央の幕府との繋がりを強化していく。

迫りくる中国地方の覇者「毛利元就(もうりもとなり)」との攻防戦も経験。鎌倉時代より続く名門「大友家」が最盛期を迎えられたのも、立花道雪ら大友家の家臣の働き、ひいては大友宗麟の功績だといえよう。そういう意味でも、彼は、決して「デキない主君」というワケではない。

ただ、そんな大友宗麟の女性遍歴はというと。
結婚歴は3回。最初の結婚は政略結婚だったというが。婚姻期間も短く、その後すぐに離縁。続く2回目の結婚のお相手は、奈多八幡宮(大分県杵築市)の大宮司の娘。3回のうち最も婚姻期間が長かったようだが。それも宗教などの問題と絡まって破綻。そして、3回目の結婚は、天正6(1578)年頃。相手は侍女頭の女性だったという。

落合芳幾 「太平記拾遺」「四十八」「大友侍従義統(大友宗麟の子)」 東京都立中央図書館特別文庫室所蔵 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)

これらの結婚生活が穏やかだったかといえば、そうでもない。宗麟は一時期、ある1つの問題を抱えていた。
それが「女遊び」。

ちょうど、30年近く連れ添った2回目の結婚のときのこと。願わくば、このまま国の統治に心を傾けてくれれば良かったのだが。。領国の支配が安定すると、宗麟の興味は次第に統治から遠のいていく。その移った先が「女遊び」であった。それも、火遊びの類ではない。宗麟の「女遊び」は国難レベルといえるもの。『大友記』には、このように記されている。

「……国中を尋ね、廿(はたち)前後の女(むすめ)、おどり子をめしいださるゝ事限りなし。いかなる野人にても、いろよき女をさへあげ候へば、御機嫌能(よく)御前に召出され、財宝をあたへるぞ、都より楽の役者をめされ酒宴乱舞、詩歌、管弦にて日を送り、ひとへに好色に傾き給ひけり……」
(吉永正春著『九州戦国時代の女たち』より一部抜粋)

それにしても、織田信長の時と違うのは、オープンな「好色ループ」に取り込まれているところだろう。信長のときは、姥(うば)が極秘に女人の斡旋を行っていた。どちらかというと閉ざされた闇での小規模な「好色ループ」。問題の姥さえ対処すれば、断ち切れるシンプルさが救いであった。

しかし、今回は公募制。
それに、オープンで大規模でもある。そもそも、よき女人を大友宗麟の元へと送れば、財宝がもらえるというシステム自体がネックである。主君の気に入る女人確保に奮闘する輩が、湧いて出てくるのは必至。供給網が依然として断ち切れないのである。これでは、問題解決までの道のりは、かなり難航するといえるだろう。

これに対して、2番目の妻である奈多八幡宮の娘はというと。
こんな状態の夫に、彼女はかなりのストレスを感じていたようである。そりゃそうだ。毎日、夫が酒宴に明け暮れていれば、誰だって堪忍袋の緒が切れる。

そして、彼女は驚くべき行動に……。
「神仏」に頼ったのである。

「義鎮公不行儀、御簾中(奥方のこと)深く御にくみあり、調伏あるこそおろかなれ。国中の社僧山伏こゝかしこに相集、昼夜のさかひもなく祈る事をびたゝし……」
(同上より一部抜粋)

国中の神宮、僧侶、山伏が集って、日夜祈りを捧げる。
その光景は、さぞかし圧巻だっただろうに。

コレって、相手側からすると、心底「ぶるぶる状態」になるのだろうか。呪い殺すためか、浮気封じかは定かではないが。「好色ループ」を断つために、大掛かりな神頼みだなんて。マジで怖い。怖すぎる。

それよりも。
自分の煩悩のために、本格的な封じ込め作戦が決行されているコトを知れば。きっと男性諸君は、もう、己の患部がタダでは済まない感じ。腫れるのか、いや、萎えるのか。どちらにしろ、精神的なダメージを受けることは間違いない。

つまりは、立花道雪を待たずして。
ある意味、大友宗麟の色欲が減退した可能性も。そう、感じずにはいられないのである。

道雪考案の「天岩戸作戦」が秀逸すぎる!

さて、お待たせしたところで。
この大友宗麟の「女遊び」をどのように止めさせたのか。早速、本記事の主人公である「立花道雪」にスポットを当てよう。

先ほど、ご紹介したのは「妻」側の言動。やはり、最後は神頼み。一方で、忠臣である「立花道雪」はというと、全く別の手立てを考えていた。

ちなみに、コチラの立花道雪。
大友宗麟よりも15歳前後年上の宿老家の家臣である。やはり、彼を紹介する上で欠かせないのが「雷神」の異名と、その理由だろう。昔、大樹の下で落雷に遭い、その稲妻を一刀両断。代わりに、道雪は足の自由が利かない身体となったとか。

それでも何ら問題なく、戦場では「駕籠(かご)」に乗ってご出陣。家臣らに担いでもらって、「えい、とう」とリズミカルな掛け声で士気を高める。多くの敵に襲いかかられても、全く恐れず。棒を叩いて、士卒に檄を飛ばす猛将の中の猛将なのだ。

小山栄達 等絵 「日本武勇談」 出典:国立国会図書館デジタルコレクション

そんな立花道雪が、主君の醜態を知る。

きっと、ただの「女遊び」ならば。
道雪は、そこまで諫言をしなかったであろう。しかし、大友宗麟の「女遊び」は、繰り返すが国難レベル。『名将言行録』には、このように記されている。

「いつとはなく酒にうつつをぬかし、女色に耽るようになり、昼となく夜となく女たちのいる奥にばかりいて、少しも表の侍所にはでなかった。老臣の連中が何度登城しても会おうとしない。そして別に忠勤をはげんでいるでもない者に賞を与えたり、科(とが)のない者を罰したりすることも少なくなかった」
(岡谷繁実著『名将言行録』より一部抜粋)

ポイントは、2つ。
まず、主君である宗麟が、表の侍所に一向に顔を出さないコト。侍女らのいる奥にこもって、老臣に会わないのである。次に、賞罰が恣意的なものであるコト。家臣らに対して正当な評価がなされなかったのである。

この状態は、明らかに「国難」。
コレに比べれば、織田信長の「女遊び」など可愛いいもの。一方で、大友宗麟の場合は、話が違う。放置すれば国が衰退する。そう、道雪は考えたのであろう。

主君である大友宗麟と早急に会う必要がある。そんな道雪の思いも全く通じず。いかんせん、宗麟は引きこもり状態。どんなに主君を諫めようと登城しても、会うことすら叶わない。

そこで、彼はある計画を思いつく。
それは、道雪自らが1つ芝居を打つコト。なんと、大友宗麟の「女遊び」を真似たのである。

踊り子を集めては、毎夜踊らせる。あの堅物の道雪が、まさか。いや、本当に見物しているんだって。そんな話が広がっていく。こうして、道雪は実際に酒宴を開いて、その情報を拡散させたのである。

歌川豊国(1世)画 「嫗山姥」 東京都立中央図書館特別文庫室所蔵 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)

これに素早く反応したのが、もちろん、主君の大友宗麟。

「義鎮(宗麟のこと)はこれを聞いて『艦連(あきつら、道雪のこと)はもともと、月見・花見・酒宴・乱舞などはひじょうに嫌いであったはずなのに、踊りが好きだというのはおかしい……』」
(同上より一部抜粋)

おっ。
大友宗麟、勘が鋭いじゃん。そうだそうだ。キミを奥から引っ張り出す罠なのだ。気を付けろといいたいところ。

それにしても、勘が働く様子を見れば。いくら「国難」といっても、ただうつつを抜かしているだけで、骨抜きにはされてなさそう。そんな安直な感想を持ってしまったのだが。その続きを見て、絶句。

「『おそらくわしへの馳走のつもりであろうから、ひとつ見物してやろう』」
(同上より一部抜粋)

えっ?
疑わないの?
これぞ「好色ループ」の特徴だ。自分を引っ張り出す作戦だと疑うこともなく。道雪も女人を差し出してくれると勘違いするなんて、ホントない。さすがにハマり過ぎだろと、私でさえ説教したい気分。いや、ここまで見事に煩悩が優先されると、かえって怒る気も失せるような……。

こうして、立花道雪のスマートな誘い出し作戦は成功。いそいそとお出かけした大友宗麟は、結果的に「奥」から引っ張り出されたのであった。

もちろん、このあと。
道雪のながーいお説教のような「諫言」が待っていることは、言うまでもない。

最後に。
立花道雪の真の凄さは、こんなもんじゃない。
彼が本領発揮するのは、誘い出し作戦の後である。

じつは、大友宗麟がわざわざ出向いて来たところで。道雪はすぐに諫言を行ったワケではない。なんせ、宗麟が大変喜んだというので、まずは、女人を3回も踊らせたという。

そうして、機嫌上々のタイミングで……。いや、まだだ。今度は、四方山話(よもやまばなし)をして、心をほぐす。次第に宗麟の心の壁が取っ払われそうなところで。そろそろかと、決断。

「恐れ多いことではございますが」と切り出したという。

さらに、である。
いきなり説教から始まらない。まずは、これまでの宗麟の実績を褒めて。褒めて褒めて。褒めちぎって。最後に、泣き落としという戦法を使ったのである。だからこそ、大友宗麟もへそを曲げず。そのまま道雪の諫言を、素直に受け止めることができたのであろう。

その翌日。
大友宗麟は対面にて儀式を行い、通常通りの公務を行ったとか。

決して、力押しではない。
だからといって、策略だけでもない。
そこは、織田信長に仕える柴田勝家と同じ。溢れんばかりの主君への愛情があるからこそ。見捨てずに、なんとか元の姿に戻ってもらいたい、その一心での行動だったはず。

ふと思う。
ひょっとすると、道雪は、女人の踊りを3回も見せる気はなかったのかも。

ただ、あまりにも、主君が喜んだから。
つい、その笑顔をもう少しだけ見ていたい。

そんな魔が差したのかもしれない。

参考文献
『現代語訳徳川実紀 家康公伝3』 大石学ら編 株式会社吉川弘文館 2011年6月など
『名将言行録』 岡谷繁実著  講談社 2019年8月
『九州戦国時代の女たち』 吉永正春著 海鳥社 2010年12月

書いた人

日本各地を移住するフリーライター。教育業界から一転、ライターの道へ。生まれ育った京都を飛び出し、馬車馬の如く執筆する日々。戦国史、社寺参詣、職人インタビューが得意。

担当スタッフのおすすめ

立花道雪が養子に迎えた立花宗茂もスゴかった!
織田信長さんと大友宗麟さんは家臣から女遊びを止められましたが、あの徳川家康さんは家臣たちの遊郭通いを見事にやめさせました。さすが…… !