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2021.10.23

出航1時間前に大どんでん返し!軍艦「清輝」のトルコ最終日に何が起こったのか?

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今から140年も前、「あんな軍艦でヨーロッパなど行けるものか」と言われた時代にイギリスまで航海した軍艦「清輝」。前編では往路でのオペラ鑑賞や花火など、軍艦のイメージとは離れたエピソードを紹介しました。後編はイギリスからの往路のエピソードをご紹介します!

1878(明治11)年1月17日に日本を出航し、6月26日イギリスに到着した清輝は、プリマス、ポートランド及びポーツマスなどの港に寄港し、1か月を過ぎた7月30日、イギリスをあとにし、日本への帰路につきました。

イギリス本土沿岸  筆者作
イギリスに着いてからも結構移動したんだな。
関係ないけど、シェルブールって映画『シェルブールの雨傘』の舞台ですよね!場所を初めて知りました。

鉄道で300km!遠く離れたパリ万博へ参加

復路の最初の寄港地はフランスのシェルブール、実はこのとき、パリで万国博覧会が開催中でした。博覧会事務局の松方大蔵大輔(次官)からの依頼があり、さらに在フランスの鮫島大使からも薦められたのは、日本軍艦の訪問を示すために、水兵を博覧会会場に行かせることでした。そこで、水兵のうち、素行の良い者を14名ほど選んで、鉄道で約300km離れたパリまで行かせます。おそらく規律ある態度は市民に好感をもたらしたでしょうが、それ以上の記録は残っていません。

鉄道で300kmもの移動は大変だったろうなぁ!

この万国博覧会には、フランス大統領より古物(アンティーク)の出品を要請する国書が明治天皇に発出されていて、これに応えるように日本家屋と日本庭園が建造され、そこには茶室が設けられ、来客をもてなしました。パリ万博は、NHK大河ドラマ「晴天を衝け」のシーンにもありましたね。ドラマは1867(慶応3)年で、10年ほど時代は異なりますが、日本家屋と日本庭園というスタイルは変わらないようです。
 
海軍に対しても出品できるものはないかという問い合わせが、明治10年ころに事務局からあり、水路局から「地理天文図」などを出品したという記録があります。どのような図だったのかはわかりませんが、大変精密であると評価されたようです。

復路(シェルブール~ツーロン) 筆者作成

そして、ジブラルタル海峡を抜け、8月29日フランスのツーロンに到着します。ツーロンには海軍の造船所があって、多くのフランス人技術者が、ここから来日し、横須賀造船所で働いた経験をもっていました。清輝は、ここで約1ヶ月間碇泊して、機関部を中心とした大修理を行いますが、以前に横須賀造船所で雇われていた技師たちも、大変親切に面倒を見てくれ、全て都合よく進めることができました。

しかし、気になるのは言葉の壁です。清輝にはフランス語がわかる人がいたのでしょうか? 

答えは、通訳として、横須賀造船所から2人が修理業務の補佐を兼ねて乗艦していました。当時、横須賀造船所ではフランス人による教育が行われていて、その教育の最初はフランス語の習得だったので、造船所関係者にはフランス語を話せる人が多かったのです。

そして英語の通訳として臨時に乗艦していたのが高田政久という人で、軍人ではなく文官、今でいう事務官です。高田は井上艦長の秘書役として、停泊中はほとんど井上艦長と行動を共にしていました。

このツーロン在泊中、井上艦長は、高田を伴って汽車に乗り、パリを経由して、ドイツへ研修旅行に行きました。この研修旅行は、井上艦長が、清輝の行動予定を5ヶ月間延長させてまで叶えたもので(航海期間延長の上申書にはドイツを研修したい旨が書かれている)、非常に有意義な研修となったようです。訪問したのは、当時大砲の製造で有名なクルップ社(エッセン市)、首都ベルリン、キール港の造船所及び海岸砲台などです。井上艦長は、ドイツという国家に対して、次のような所見を残しています。その後のドイツの発展とヨーロッパでの台頭を予感させるような所見と云えるかもしれません。

一般的な現況からは、ドイツの進歩はイギリスやフランスに及ばないところはあるが、学問・技術の進歩は両国よりも進んでいる。学術が進歩していても諸学校の建築は豪華というものではない。外見にこだわることなく、中身が重要という考え方があるのであろう。人民の生活もすべてそうである。

そして、9月29日ツーロンでの修理を完了し、出航しますが、地中海シシリー島付近で(10月17日)、突然のスクリュー脱落という故障に遭います。「ツーロンでの修理はなんだったんだ!」と言いたいところですが、とにかく緊急に修理が必要なので、急遽マルタ島に入港して、イギリス海軍の造船所のお世話になります。

同月31日、修理を終え、清輝はマルタ島を出航しました。当初、ギリシャを訪問するつもりでしたが、緊急の修理で時間を費やしたため、日本への帰還の日(翌1879年4月)までの所要日数を勘案して、これを取りやめ、トルコへと向かいました。

ここである事件が起こる……!

首都コンスタンチノーブル(現イスタンブール)への航海

11月3日、清輝はトルコの地中海側の泊地であるベシカ湾に到着します。そして、首都コンスタンチノーブルへ行く手続きなど、近くに碇泊していたイギリス軍艦「パラス(Pallas)」から教えてもらい、トルコ政府の入国管理事務所のあるチュナツク(現在はチャナッカレが一般的な呼び方)へと向かいます。

ベシカ湾~コンスタンチノーブル(筆者作成)

そして、チュナツク港に投錨し、通航申請をしますが、これは、パラス艦長のビーミシュ中佐が紹介状を書いてくれたおかげで、在チュナツクのイギリス領事が代行してくれました。

※イギリス軍艦のパラスとは、往路にあった4月、エジプトのポートサイドにおいて、親しく交流しており、井上艦長はビーミシュ中佐をとても親切な軍人と記しています。

3日後の6日午後、コンスタンチノーブルの入港許可が下り、清輝は出航し、翌7日午後イギリス艦隊の泊地になっているアルタキ湾に投錨します。ここで2日ほど碇泊してイギリス艦隊と交流するとともにトルコの様子について詳細な情報収集をしました。

9日朝アルタキ湾を出航し、午後3時にようやく首都コンスタンチノーブルに到着しました。ここまでベシカ湾に入港してから6日間を要しています。そして、井上艦長は、首都在住のイギリス総領事から訪問すべき要人(海軍大臣等)を教えてもらい、それらすべてを2日かけて訪問し、最後に再度イギリス総領事を訪問します。そこでトルコ陸軍の大佐を紹介され、トルコ皇帝への謁見を希望するならば、尽力すると言われます。大変光栄な話ではあるものの、日本への帰国期限を勘案し、17日までに実現すればという条件付きで、井上艦長は謁見の調整を依頼しました。

ところが前日の16日になっても何の連絡もなく、日本への帰国期限に間に合わせるためには、これ以上余裕はないと、イギリス総領事経由で催促をした結果、18日になって、ようやくトルコ首相から呼び出しを受けました。すぐに訪問すると、謁見の話は、催促するまで首相のところに届いていなかったことがわかります。

「まじかよ。ちゃんと仕事しろよ」(筆者が想像する井上艦長の心の声)

首相は、とにかく皇帝への謁見を調整して結果を本日中に連絡すると言って井上艦長を帰しました。しかし、その日はなんの連絡もなかったことから、業を煮やした井上艦長は謁見をあきらめ、翌19日出航すると決定しました。

19日朝、あわただしく出航準備をする清輝に、近くに碇泊していたトルコ軍艦「マスオジヤ」から士官が訪れ、本日午前中に謁見となったので準備をするよう告げられます。

 「おいおい今からかよ」(同じく心の声)

私、こういうのイラッとしちゃうな〜

この通告を受けたのが午前8時、井上艦長は、出航の延期を命じ、大慌てで大礼服(最上級の正装)に着替えて準備をしていると、8時45分にはもう迎えの者が来艦します。

「今までの、のんびりした状況はなんだったんだ」(同じく心の声)

そして一行は、9時に艦を出発しました。散々待たされた割には、当日朝になって事は一気に進んだのです。11月3日にベシカ湾に到着してから16日間を費やしての謁見実現でした。

謁見には、井上艦長の他に士官2名と通訳の高田のあわせて4人が臨みました。その様子は総て海軍省及び外務省の記録に残されており、そこから一部を紹介します。ちなみに謁見には2人の通訳を介しています。高田が日本語・英語を通訳し、トルコ側の通訳(「マスオジヤ」艦長)がトルコ語・英語を訳すという手順でした。

いよいよトルコ皇帝に謁見!

お互いの儀礼的な挨拶は省略し、皇帝からの質問に井上艦長が答える場面を再現します。

皇帝:貴国の人口はどのくらいか。
井上:3500万人です。
皇帝:海軍は軍艦を何隻くらい保有しているのか。
井上:大小合わせて30隻、そのうち5隻は甲鉄製です。
皇帝:甲鉄艦及び木造艦は総て、日本国内で建造されるのか。
井上:いいえ、鉄は国内で産出できますが、製鉄の方法が未だ充分ではありません。そのため甲鉄艦は、今のところ外国から購入しています。しかし、数年の内には国内で建造するようになるでしょう。
皇帝:陸軍常備兵はどれくらいか。
井上:5万人です。
皇帝:日本海軍は常にイギリス、アメリカなどに軍艦を派遣しているのか。
井上:はい、派遣しております。イギリスまで来たのは初めてですが、アメリカ、オーストラリアには遠洋練習航海を目的に軍艦が派遣されております。
皇帝:清輝には外国人の水先案内人が乗っているのか。
井上:いいえ、外国人は乗っておりません。日本人のみです。
皇帝:清輝艦内は、美しく、かつ整頓され、また日本は僅か数年間で格段の進歩を遂げたと聞き、大変すばらしいことと思う。今後ますます日本海軍が発展するよう希望する。

こうして、日本海軍士官による初めてのトルコ皇帝への歴史的な謁見は終了するのですが、この謁見のなかで、井上艦長は大ウソをついています。日本が保有する軍艦を30隻、そのうち鉄製5隻と口上していますが、井上艦長の後日談ではボロボロの船が4隻くらいしかなかったと言っています。実際に調べてみると、このとき海軍の軍艦は14隻で、清輝の出航と入れ違いに日本に到着した購入したての3隻(扶桑、金剛、比叡)を入れても17隻しかなく、また甲鉄艦は東と扶桑の2隻しかありませんでした。さらに常備兵は3万程度(井上艦長は2万と認識していた)にもかかわらず、5万と答えています。井上艦長は意図的に大きな数で、トルコ皇帝を相手にハッタリをかましたのです。

兵隊はどのくらいかと聞かれて、「日常は5万、いざ事があれば国民すべてが兵となる」と答えたら、皇帝は目をむいた、と後日談では面白おかしく語っています。『戊辰物語』

そして、艦長はトルコ皇帝からトルコ国3等勲章、他の士官らは4等勲章を贈られました。
この謁見が実現したひとつの要因にイギリス公使らの行動があります。清輝がコンスタンチノーブルに入港した直後にイギリス公使は来艦し、艦内の様子を見て、この20年間の日本の開化の速さを感じ取り、それを事前にトルコ皇帝に奏上していました。さらにイギリス本国での艦上レセプションの様子も伝わっていたようです。オーストリア公使も同様に清輝を見学したあと、首相に日本の開化について話をしていたのです。

この2人の公使の行動は、日本のことを引き合いに出して、トルコの改革を促す意であったという井上艦長の分析が、報告書には書かれています。

やっと日本へ!でもここでも事件が!

そして、謁見の翌日11月20日トルコを後にした清輝は、来た航路を戻るように日本へと向かいます。すべて無事にいったようですが、旅も終りに近いペナン(当時はイギリス領、現マレーシア)で、乗組員が1人行方不明になります。おそらく夜間に海に落ちたのだろうと捜索しますが、見つかりませんでした。やむをえず、イギリス人の港長に人相書きを渡し、もし遺体を発見した場合には墓を建ててくれるようにと依頼して、ペナンをあとにしました。

その後、香港で井上艦長は、料理人が亡くなったと嘆いたと、ある文献に書かれています。行方不明になった兵の職名は火焚で、一見「釜を焚く」料理人と解釈しそうですが、実は「罐を焚く」機関担当のボイラ員でした。歴史を正しく見るには、色々な面からの調査が必要と感じるところでもあります。

復路(マルタ~日本) 筆者作成

さて、清輝の1年3か月の旅は、1名の行方不明者を出しますが、無事に航海を終え、明治12年4月18日、太政大臣、陸海軍卿などが迎える中、横浜へ帰還しました。この航海に対して、海軍卿(大臣)川村純義(清輝不在中に昇任)は次のように語っています。

清輝は、日本国産の軍艦で、外国人による支援を一切受けずに全く航海したことのない未曾有の諸港を巡航し、どこの港にあっても、国旗を辱めるようなことは全くなかった。これは全乗組員による尽力と勉励によるもので深く感銘する。

そして、昭和初期になって海軍が監修して発簡した『近世帝国海軍史要』には次のような評価が書かれています。

情報収集という任務を果たし、邦人のみの運航による初のヨーロッパ方面への航海であり、さらには内地で建造された軍艦による、日本海軍の軍艦として最初のヨーロッパ訪問という大きな意義がある。

この清輝の航海、現代にあって、もっと評価されて欲しい黎明期の日本海軍の史実です。

参考文献

大井昌靖『初の国産軍艦「清輝」のヨーロッパ航海』(芙蓉書房、2019年)
廣瀬彦太『近世帝国海軍史要』(丸善株式会社、1938年)
海軍歴史保存会『日本海軍史 第一巻 通史 第一・二編』(第一法規出版、一九九五年)
横須賀市HP https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2120/seitetsuzyo/main.html
東京日日新聞社会部 編『戊辰物語』(万里閣書房、1928年)
「記録材料・清輝艦報告全」JACAR:A07062108200(国立公文書館)
「帝国練習艦隊関係雑纂 第一巻(5-1-3-0-4_001)」(外務省外交史料館)

書いた人

神奈川県横須賀市在住。海上自衛隊を定年退官し、会社員の傍ら、関心の薄い明治初期の海軍を中心に研究を進めている。お祭りが大好きで地域の子供たちにお囃子を教えている(現在はコロナで休止中)。

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編集長から「先入観に支配された女」というリングネームをもらうくらい頭がかっちかち。頭だけじゃなく体も硬く、一番欲しいのは柔軟性。音声コンテンツ『日本文化はロックだぜ!ベイベ』『アートラジオ』担当。ポテチと噛みごたえのあるグミが好きです。