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2021.11.11

薩摩藩、大英帝国と対決か? 飛び交う流言——幕末維新クロニクル1847年

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日本が大きく変わった幕末。その時一体何が起きたのかを時系列で探る「幕末維新クロニクル」シリーズ。まだ薩英戦争の16年も前ですが、実は予言めいた言葉が残されていて——。

前回までのクロニクルはこちらからどうぞ。


オランダ国書を見た黄門さま
琉球にイギリス船、フランス艦、あいついで来る
戦列艦、突如として浦賀にあらわる!そして琉球に居座り続けるフランス艦隊
度重なる外国船来航、孝明天皇の耳に達す。その時下した「勅」とは
謹慎中の徳川斉昭登場!「戦艦製造は急務」…いや、そんなこといわれてもなぁ
水戸藩士・藤田東湖ほか御老公の巻き添えで処罰された者たちが宥免

サムネイル画像は明治30年ごろの浦賀(国立国会図書館デジタルコレクション「日本之名勝」より)

弘化4年

 弘化4年の干支は丁未は、音読みで「ていび」、訓読みだと「ひのとひつじ」です。
干支の組み合わせは60種類で、丁未は44番目とされます。このあと丁未の歳がくるのは2027年です。
 干支は60年周期で、元号と干支で何年のことかを表記した古文書も多いです。たとえば「天保癸卯」と書いてあれば天保14年で、「弘化丁未」と書いてあれば弘化4年ですけれども、借金を返済した記録などは卯年から未年で指折り数えると何年が経過したかわかりやすい(利息の計算が容易)という利点があります。
 だから元号と干支を併記してあれば、それが何年のことかは確定できるわけですが、ただ昭和は60年を超えてしまいましたから、昭和61年から64年まで丙寅、丁卯、戊辰、己巳に2回目がまわってきました。区別するため、年賀状に「昭和のちの戊辰」などと書いたのを思い出しました。

正月(大の月)

元日(1847年2月15日)

四方拝、出御ナシ。

 孝明天皇さまにとっては、践祚してはじめての正月です。元日の早朝、宮中では天皇みずから「天地四方の神祇を拝する儀式」を執り行います。拝礼といっても、お辞儀をしてオシマイではなく、何度も立ったり座ったり、ヒミツの呪文を唱えたり、かなりの体力を消耗する儀式だそうです。その儀式でヘトヘトだったのでしょう、居住区である奥向きから、おでましにならなかったとのことです。

2日

征夷大将軍徳川家慶、賀正ノ為、高家宮原義周「弾正大弼」ヲ京ニ、年頭代参ノ為、同横瀬貞固「美濃守」ヲ神宮ニ、同畠山基徳「上総介」ヲ日光東照宮ニ遣ス。

 年賀の挨拶のため、江戸の将軍家慶は京の朝廷へ使者を派遣、また、伊勢神宮および日光東照宮への代参を命じました。

6日

処士佐藤百祐「信淵」津藩主藤堂高猷「和泉守」ノ為ニ呑海肇基論ヲ草シ、又防海余論ヲ作ル。

 処士とは、主君を持たない自由人のことです。佐藤信淵(のぶひろ)は出羽国で医師の子として生まれました。儒学、蘭学に加えて国学にも造詣が深い非常に博識な人で、かつて老中在任中の水野忠邦の求めに応じて『復古法概言』を著して、政策に影響を及ぼしたりもしました。ところが筆禍事件を起こしたことも一度ならずで、しばしば追放刑を受けています。その信淵が、津藩の殿様のために海防に関する書籍を執筆したとのことです。

11日

神宮奏事始、出御ナシ。

 毎年の正月11日に、天皇さまが伊勢神宮に関わる政務を御覧になることを神宮奏事始といいます。神宮の造営、神官の補任、官位などが奏上され、裁可なさいました。

12日

賀茂奏事始、出御ナシ。

 毎年の正月12日に、天皇さまが京都の上下の賀茂神社に関わる政務を御覧になることを賀茂奏事始といいます。

15日

鹿児島藩主島津斉興「大隅守」就封ニ依リ、登営ス。明日、老中阿部正弘「伊勢守・福山藩主」特ニ斉興ヲ其邸ニ招キ、琉球外事処分ヲ諭示ス。

 あいついで琉球に各国の外国船が押し掛けてきたのに対処するため、鹿児島藩=薩摩藩の殿様である島津斉興は、参勤交代による江戸での滞在期間の短縮を願い出て早めの帰国となりました。老中の阿部正弘は斉興を邸に招き、琉球での外国との交渉について、なにやら言い含めることがあったとのことです。

22日

大目付深谷盛房「遠江守」・勘定奉行石河政平「土佐守」等、幕府ノ諮問ニ対ヘ、江戸近海防備充実ノ為ニ警備藩ノ増加及砲台増設ノ要ヲ陳ズ。

 幕府の諮問を受けた大目付と勘定奉行は、江戸近海の防備には、出張警備を担当させる藩の数を増やし、砲台も増設すべきだと答申しました。

23日

知恩院門主入道尊超親王「有栖川宮織仁親王王子・徳川家斉猶子」故大将軍徳川家斉七周忌参列ノ為、著府ス。

 亡き11代将軍家斉の七周忌に参列のため、尊超親王さまが江戸へお下りになりました。尊超親王は、家斉の猶子でした。猶子は、養子と異なって家督や財産を相続することはないけれど、父子に等しい関わりを許すことをいいます。

25日

幕府、駿府町奉行戸田氏栄「寛十郎・後伊豆守」ヲ以テ日光奉行ト為ス。

 戸田氏栄(うじよし)は大垣藩戸田家の分家にあたる旗本で、知行は500石と僅かでしたが才覚は優れていました。寛政11年(1799)うまれ、ながく昌平坂学問所に勤務していた学者っぽい人ですが、天保12年(1841)に西丸小姓となって以来メキメキと頭角を現し、昇進を重ね日光奉行に就任しました。このあとの活躍が期待されます。

26日

幕府、故大将軍徳川家斉ノ七回忌法会ヲ寛永寺「江戸上野」ニ行フ、三日。

 家斉の七回忌が江戸は上野の寛永寺で執り行われました。11代将軍としては、田沼意次を排除して松平定信を起用、寛政の改革によって幕府の財政立て直しを図りました。隠居後も実権を握り続けましたが、その大御所時代に異国船打払令を発した影響が、ここに来て現れようとしています。

27日

佐賀藩主鍋島斉正「肥前守」先期参府ヲ請フ。是日、幕府、之ヲ聴ス。

 薩摩の殿様は「早めに帰らせて欲しい」と願い出て早退しましたが、佐賀の殿様は「早めに江戸へ出たいです」と願い出て許可されました。長崎警備を担当する佐賀藩としては、早めに幕閣と相談しておきたいのでしょうね。

是月

萩藩主毛利慶親「大膳大夫」太刀馬代ヲ献ジ、正ヲ賀ス。

 朝廷ヘの年賀の挨拶として、萩藩=長州藩から太刀馬代が献上されました。毛利氏は元就の代から朝廷との関係を特に重視してきました。諸大名から朝廷に金品を献上するのは異例のことでしたが、歴代の長州藩主は皇室の慶弔や、歳末歳首に太刀一口、馬代若干を献上するのを恒例としていました。このあとも恒例の太刀馬代献上は続いていますが、本年以後の年賀の献上については省略します。

2月(小の月)

朔日(1847年3月17日)

土浦藩主土屋寅直「采女正」参府ニ依リ、登営ス。

 前回の参勤を終えて帰国したのが前年8月15日でした。殿様だって、ろくろく腰を落ち着けていられませんね。

5日

征夷大将軍徳川家慶ノ側室於定「中臈・押田氏」逝ク。

 天皇さまがおかくれになれば「崩御」、将軍が没すれば「薨去」ですが、将軍の側室だと「逝ク」なのですね。

6日

仁孝天皇一周聖忌ノ法会ヲ般舟三昧院及泉涌寺ニ修ス。

 般舟三昧院(はんじゅざんまいいん)は京都市上京区にある天台宗の寺院で、もとは伏見にありましたが、豊臣秀吉の伏見築城に際して現在の位置に移されました。戦国期の歴代天皇の生母の墓所だったので皇室との縁は深く、 天皇や女院の法要は、皇室の菩提寺だった泉涌寺のほか、般舟三昧院でも営まれました。

7日

幕府、浦賀奉行大久保忠豊「因幡守」・同一柳直方「一太郎・後出羽守」ニ令シテ、川越・忍二藩ノ外国船警備方法ヲ改メ、実効ヲ主トセシム。

 幕府は浦賀奉行に命じて、川越藩(三浦半島側担当)および忍藩(房総半島側担当)による外国船警備の方法を、「実効」を主とするように改めさせました……じゃあ、いままでの警備は、案山子も同然だったのかという話しです。

8日

幕府の使者品川氏繁「豊前守・高家」参内、天機ヲ候ス。

 仁孝天皇一周忌に参列するため派遣された幕府の使者が、孝明天皇さまの御機嫌伺いに参内しました。

9日

知恩院門主入道尊超親王「有栖川宮織仁親王王子・徳川家斉猶子」登営ス。「○水戸藩士高橋愛諸等、知恩院門主ノ入府ヲ機トシテ、前藩主徳川斉昭ノ雪寃ニ奔走スルコトアリ。今其史料ヲ収ム」

 知恩院門主の尊超親王さまが江戸城を訪れました。親王が江戸入りなさった機会に、水戸藩士たちが、御老公さまの「雪寃」に奔走したとのことですが、有栖川宮家と水戸家は姻戚関係にありますから、 そのコネを頼ってのことでしょう。ところで「雪冤」とは、寺院を破壊するなどの行き過ぎた改革は「家来が勝手にやったこと」とでもいうのでしょうか?

幕府、浦賀奉行一柳直方ヲ転ジテ日光奉行ト為シ、日光奉行戸田氏栄「寛十郎・後伊豆守」ヲ以テ之ニ代フ。

 さる1月25日付で日光奉行に起用された戸田氏栄が浦賀奉行に任ぜられ、浦賀奉行の一柳直方が日光奉行に転じました。なにを意図しての人事異動なのでしょうか?

幕府、福岡藩主黒田斉溥「美濃守」・大村藩主大村純顕「丹後守」及長崎奉行井戸覚弘「対馬守」・目付山口直信「内匠・後丹波守」等ノ去歳仏国軍艦長崎来航ノ際ニ於ケル勤労ヲ賞ス。

 私は若い頃に役所勤めをしていたので、なんとなくわかるんですが、こういう褒賞って、他人から嫉まれることにもなるのが厄介なんですよ。在任中に外国船と応対することは、必ず起きることでもありません。「あの人は運が良いだけ」みたいなことをいうヤツは、きっと大勢いたでしょう。

10日

春日祭

 春の春日祭です。秋は弘化3年11月3日に行われました。

11日

幕府、寄合筒井政憲「紀伊守・後肥前守」・先手頭林?「式部・後大学頭」ヲ西丸留守居ト為シ、小十人頭三好長済「大膳・後安房守」ヲ駿府町奉行ト為ス。

 元老中だった水野忠邦に睨まれて左遷されていた筒井政憲ですが、学識を買われ、なにかにつけて幕閣から諮問を受けるのはいつものことでしたが、このたび西丸留守居に就任しました。今後の活躍に期待しましょう。三好長済は、三好為三の家系だそうです。講談では真田十勇士として徳川家と敵対する役どころですが、実際には徳川家に仕え、その末裔も旗本として健在だったとのことです。

13日

琉球在番奉行倉山作太夫「久寿」等、運天港「琉球」見分ノ為那覇「同上」ヲ発す。「二十一日那覇ニ帰ル。」

 無事お引き取りいただいたとはいえ、しばらくフランス艦隊に居座られた運天港を、薩摩藩の琉球在番奉行が見分に行きました。荒天時には避泊地として利用される天然の良港です。

15日

佐野藩主堀田正衡「摂津守」・小田原藩主大久保忠愨「加賀守」・館林藩主秋元志身「但馬守」・安中藩主板倉勝明「伊予守」・烏山藩主大久保忠保「佐渡守」・佐貫藩主阿部正身「駿河守」・一宮藩主加納久徴「備中守」・荻野山中藩主大久保教義「長門守」・安房勝山藩主酒井忠嗣「安芸守」・吹上藩主有馬氏郁「備後守」・神戸藩主本多忠廉「伊予守」 参府ニ依リ、各登営ス。

幕府、相模・安房・上総沿岸ノ警備ヲ増シ、更メテ彦根藩主井伊直亮「掃部頭」・川越藩主松平斉典「大和守」ニ相模、会津藩主松平容敬「肥後守」・忍藩主松平忠国「下総守」ニ安房・上総ノ警備ヲ命ズ。

 江戸湾の防備を固めようという主旨が、よく感じられる発令です。文中「更メテ(あらためて)」と表記されているのは、「さらに=プラスして」という意味ではありません。前の命令をリセットして、白紙状態にしてからの命令だという意味です。というわけで、すでに警備の任に就いている川越藩と忍藩にも「あらためて」命令されているわけです。

16日

邦家親王「伏見宮」第九王子満宮「後公現親王・後北白河宮能久親王」 生誕ス。

 御生誕おめでとうございます。

月食

 この日お生まれになった親王さまは波瀾万丈の生涯を過ごす方ですが、そのことを暗示するかのような出来事です。

18日

常御殿・清涼殿修理成ル。所司代酒井忠義「若狭守・小浜藩主」 武家伝奏徳大寺実堅「権大納言」・同坊城俊明「前権大納言」等ト倶ニ之ヲ検分ス。

 
 孝明天皇さまの践祚を機会にした御所の修繕が終わりました。幕府からは京都所司代の酒井忠義が、朝廷からは武家伝奏の徳大寺実堅らが、仕上がりを検分しました。

21日

大村藩主大村純顕、致仕シ、養子純煕「修理・後丹後守・純顕弟」 後ヲ承ク。

 肥前国の大村藩(現在の長崎県大村市)は、外様で表高27900石余という小さな藩ですが、藩主の家系は鎌倉時代あるいは平安時代まで遡るともされる、地元密着型の領主さまです。かつて秀吉の九州攻めでは豊臣方につき、関ヶ原では東軍につき、江戸時代に入ってからも転封されずに先祖から受け継いだ領地に居座り続けたのはスゴイと思います。このさきも的確な情勢判断をしていくことでしょう。

23日

征夷大将軍徳川家慶、高家宮原義直「摂津守」ヲ京ニ遣シ、皇太后冊立ヲ賀セシム。

 仁孝天皇さまの女御だった准三后鷹司祺子さまの立太后の儀に参列させるため、高家旗本の宮原義直が京に派遣されました。儀式は来月行われる予定です。

25日

萩藩、藩医青木研蔵「周弼嫡」・同東条英庵「英玄嫡」・同松村太仲「玄機嫡」ヲ挙ゲテ、洋書翻訳掛ト為ス。

 萩藩=長州藩の医師、青木研蔵らは蘭方医でしたから、もともと蘭学に通じている人たちでした。画期的な技術革新に繋がることを期待しましょう。

平戸藩主松浦曜「壱岐守」 財政窮乏ニ因リ、倹素励行ヲ令ス。

 諸藩の財政は、何処も似たり寄ったりだったことでしょう。東日本では天保の大飢饉で生産人口が減って、人力頼みの農業生産力も減って、回復するには新生児の成長を待たねばなりません。西日本でも大雨や洪水に何度も続けざまに襲われた地域が多く、なかなかキビシイ状況なのでした。

栢原藩主織田信貞「出雲守」 卒ス「前年十二月十八日」 是日、養子信敬「剛三郎・後出雲守・宇土藩主細川之寿男」 封ヲ襲グ。

 『維新史料綱要』では”栢”原藩と表記されているけれど、丹波国の柏原(かいばら)藩でも通じるみたいです。織田信長の次男である信雄の家系で、出羽国の天童藩織田家とは先祖が共通しています。

28日

諒闇訖ルヲ以テ、大祓ヲ朱雀門代ニ修シ、御禊及吉書御覧ノ儀ヲ行フ。

 崩御あそばした仁孝天皇さまの服喪期間が明けました。京都御所では、それに伴う御祓いなどの儀式が執り行われました。吉書御覧は、弘化3年3月27日(幕末維新クロニクル001)にも行われました。

福岡藩主黒田斉溥・平戸藩主松浦曜及大村藩主大村純煕、就封ニ依リ、各登営ス。幕府、特ニ長崎ノ警備ニ力ヲ効サシム。

 前年6月、長崎にフランス艦隊が押し掛けてきたばかりなので、長崎に近い福岡藩ならびに肥前国の平戸藩と大村藩の殿様が帰国の挨拶をしに登城した際、特に「警備に努めよ」と御達しがあったとのことです。

是月

天草島「肥後」民、所在ニ騒擾ス。長崎代官高木健三郎、島原藩ノ応援ヲ得テ、之ヲ鎮定ス。

 世にいう天草の弘化一揆です。天保年間からこの時期まで、毎年のように豪雨災害と洪水とに襲われました。その一方で、江戸時代を通じて自然増を続けた天草の人口は、江戸時代初期に比べて10倍近くになっていたと推計されています。天災で荒れた天草に、増えすぎた人口を養える力はなかったのでした。

鹿児島藩英国軍艦ト戦フトノ流言アリ。

 現代にも荒唐無稽な流言があるけれど、まさか九州の半分にも満たない大きさの薩摩藩が、世界帝国たる英国の軍艦と戦うなんて、あるわけないじゃないですか。えっ、薩英戦争? 知らないなぁ。いま弘化4年の時点で、アリエナイ話ですし、10年や20年で英国艦隊と戦えるほどの力をつけるのは誰から見ても無理ですけど、予言者みたいな人がいたのでしょうか?

書いた人

1960年東京生まれ。日本大学文理学部史学科から大学院に進むも修士までで挫折して、月給取りで生活しつつ歴史同人・日本史探偵団を立ち上げた。架空戦記作家の佐藤大輔(故人)の後押しを得て物書きに転身、歴史ライターとして現在に至る。得意分野は幕末維新史と明治史で、特に戊辰戦争には詳しい。靖国神社遊就館の平成30年特別展『靖国神社御創立百五十年展 前編 ―幕末から御創建―』のテキスト監修をつとめた。