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2021.11.21

偉大なるチャンプよ、永遠に!ヨシムラの戦闘力を世界に証明した男、横内悦夫とウェス・クーリー

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2021年10月、スズキの技術者で同社元取締役の横内悦夫が87年の生涯を終えた。

それから間もなく、ウェスター・スティーブン・クーリーの訃報が太平洋の向こうから届いた。享年65。彼の場合は「ウェス・クーリー」という名前のほうが、通りがいいだろう。

横内はスズキの数々の名二輪車を生み出したエンジニアで、クーリーはアメリカの二輪車レースシリーズであるAMAスーパーバイク選手権で名を馳せたライダーだ。いや、それだけではない。横内が開発し、クーリーが跨り、そしてあのポップ吉村がチューニングを手掛けたスズキGS1000は、第1回鈴鹿8時間耐久レースで世界企業ホンダのワークスマシンを抑えて優勝したこともある。

横内とクーリーは、ヨシムラの戦闘力を世界に証明した大功労者なのだ。

「ヨシムラ」を奪還したポップ吉村

日本では「エンジン改造オヤジ」として既に有名だった吉村“ポップ”秀雄は、前々からの上得意だった2人のアメリカ人に誘われる形で海外進出を決意した。

この時、アメリカにもポップの手掛けた「集合管」が持ち込まれ、ブームを巻き起こしつつあった。

4気筒エンジンからは4本のエキゾーストパイプが伸びているが、昔のバイクはスポーツタイプでもエキパイ1本=マフラー1本だった。それをポップは軽量化のためにエキパイ4本=マフラー1本にまとめたのだ。すると、軽量化以外にも排気効率が格段に良くなりエンジンがパワーアップするという効果を得た。この集合管は、独特の「ヨシムラサウンド」を放ちながらマシンに底知れぬトップスピードを与える。全米のレーサーたちは、我先にとヨシムラ製のパーツを買い求めた。

しかし、ポップのビジネスパートナーは金儲けのことしか考えていなかった。それまで溜めていた売掛金を踏み倒した挙句、ポップが毎日休まず製造し続けた製品を独占し、会社の乗っ取りをも画策した。結果、ビジネスパートナーは製品だけでなくポップがアメリカに持ち込んだ工作機械、そして片仮名の「ヨシムラ」のロゴまで奪い取ってしまう。

全財産を失った状態で帰国したポップだが、それで終わる男ではなかった。数ヶ月に再渡米し、乗っ取られた「ヨシムラ」に対抗する新会社を立ち上げる。

相手は“ヨシムラ”の仮名文字を商標登録していて、わたしのほうはローマ字しか使えなかった。そのことだけでも、絶対に相手を叩きつぶさねばならない。わたしの名前で欠陥品を売りに出されたら(実際すでにかなり妙なパーツを出していた)それはすべてわたしの責任である。

(『ポップ吉村のバイク・スピリッツ』 吉村秀雄 徳間書店)

この時点で「ヨシムラ」はポップのものではなかったのだから、そこから出る欠陥品に対してポップが責任を持つ必要はまったくない。だが、大正生まれの頑固職人はそうは考えない。「ヨシムラ」の粗悪なパーツを、ポップは無償で交換したのだ。

技術力の裏付けのない「ヨシムラ」はあっという間に倒産し、ロゴはポップの手に戻った。

次に目指すのは、サーキットである。

サーキットを駆け抜けた医学部の学生

1976年、ヨシムラは初めて契約ライダーを抱えることになった。

ウェス・クーリーは医学部の学生である。が、1956年生まれのこの若者が、創設間もないAMAスーパーバイク選手権に「表彰台の常連」としてその名を刻むことになるのだ。

クーリーが乗っていたのは、当初はカワサキZ1だった。しかしこのマシンはシャシーに問題があり、エンジンをパワーアップさせるとブレるという現象が起こった。だからといって、シャシーを変更することは当時のレギュレーションでは不可能だった(レギュレーションの拡大解釈でシャシーに手を付けたチームは存在したが)。

それでもクーリーは大胆なライディングで観客を魅了し、同時に77年10月の最終戦でついに優勝してしまった。以降は着実な成績を挙げ、AMAスーパーバイク選手権黎明期の名選手としてファンに記憶されることになる。

そんな彼が日本での知名度を獲得したきっかけは、78年の第1回鈴鹿8耐である。

GS1000は「社運を賭けたマシン」

第1回鈴鹿8耐は、当初「ホンダの凱旋レース」と呼ばれていた。

クーリーがヨシムラと契約したのと同じ76年、ヨーロッパではホンダRCB1000が大旋風を巻き起こしていた。このマシンはCB750FOURをベースに開発されたワークスマシンだが、76年中に参戦した耐久レースでは何と8戦中7勝の成績を収めている。さらに77年のボルドール24時間耐久レースでは、1位から7位までをRCB1000が独占してしまった。1、2、3と編隊を組みながらチェッカーフラッグを仰ぎ見たほどだ。その様子を、モータージャーナリストは「不沈戦艦」「無敵艦隊」と形容した。

鈴鹿でもそのような光景が繰り広げられるに違いない。

が、ポップはそうは考えていなかった。

わたしと不二雄はすぐにRCBのレース記録を綿密に調べた。勝った勝ったと騒いでいるわりには、さほどのタイムも出ていない。

ではRCBを鈴鹿で走らせて、ラップ二分二〇秒を切れるだろうか。(中略)うちのGS一〇〇〇にクーリー、ボールドウィンを乗せればあるいは二〇秒を切れるかもしれない——わたしと不二雄は検討を繰り返し、作戦を練った。そして結論に達した。≪よし、性能的には絶対に負けない。鈴鹿に乗り込もうじゃないか≫

(同上)

この鈴鹿8耐でのヨシムラチームのライダーは、マイク・ボールドウィンとウェス・クーリー。マシンはスズキの横内悦夫から提供されたGS1000である。

このGS1000は、GS750というマシンをベースに開発されたものだ。そしてGS750は、スズキの社運を賭けたマシンだった。

1970年、アメリカでは世界初の排ガス規制法である「マスキー法」が制定される。これはアメリカ国内の有力自動車メーカー3社(フォード、GM、クライスラー)が「あまりに規制が厳し過ぎて新車販売ができなくなる」とサジを投げたほどだ。それまでアメリカで流行していた大排気量のマッスルカーは、マスキー法を境に軒並みパワーダウンを強いられた。その影響は、2ストローク車専門メーカーだったスズキにも波及した。大きなパワーを発揮するが排ガス中の有害物質を抑えるのが難しい2ストロークエンジンでは、いずれアメリカで販売できなくなってしまう。70年代のスズキは、4ストロークエンジンの技術の確立に生存の道を託していたのだ。

GS750は、スズキ初の4スト4気筒バイクである。横内はこのマシンの開発の中心的存在だった上、本社からは「4ストでレースに勝て!」と厳命されていた。そしてGS750を大型化したGS1000は、「レースで勝つためのスーパーマシン」なのだ。

それを横内はポップに送った。

衝撃の「ハングオンスタイル」

第1回鈴鹿8耐の決勝当日、鈴鹿サーキットの客席は大いに沸いた。

耐久レースとは、長距離を長時間走り続ける競技である。その間に給油や修理、タイヤ交換、選手交代(当時の鈴鹿8耐は2人のライダーが1台のマシンを交互に乗り継いだ)などが行われる。それらを考慮したペース配分が鍵を握る競技……というのが「一般常識」だった。

ところがヨシムラチームは当初から全速全開、ただひたすら首位に立つことだけを目論む走りを展開した。そして、ボールドウィンとクーリーの豪快なライディング。この時点で2人は日本ではまったく無名の選手だったが、鈴鹿8耐以降は日本全国のバイク少年がヨシムラの契約ライダーに憧れの視線を向けることになる。

特に、クーリーが披露した膝をアスファルトに擦る「ハングオンスタイル」は衝撃的だった。アメリカでは既に普及しつつあったスタイルだが、クーリーはそれを日本に紹介したエバンジェリストとも言える。インターネットなど影も形もなく、家庭用VHSがようやく登場した時代である。新しいスタイルは誰かが実際にやって見せて、初めて伝道する。当時のバイク少年はクーリーのハングオンスタイルが写っている写真を買い漁り、公道で彼の真似をして事故を起こしたりもした。

第1回鈴鹿8耐は、ヨシムラチームのGS1000の劇的勝利で幕を閉じる。一方でホンダRCB1000は、決勝に出場した2台ともリタイア。それは町工場が大企業に勝利した瞬間でもあった。

栄光を勝ち取った男たち

クーリーを始めとしたアメリカ人ライダーのバイクの乗り方と、ポップのレースに対する姿勢は極めて相性が良かった。

こんな話がある。日本人の子供とアメリカ人の子供が、同じトランペット教室に通っている。もちろん、この2人の子供はこれが初めての楽器演奏。日本人の子供は3本のピストンをどのように組み合わせればドレミが出るのか、必死に勉強している。しかしその隣で、アメリカ人の子供は音階は二の次でとにかく大きな音を出そうとしている。

日本人は、可能な限り上位に食い込もうとしていろいろと打算をする。対してアメリカ人は、ひたすら勢いに任せて前へ前へ進もうとする。「レースは戦争」と考えるポップが手掛けたマシンと、徹頭徹尾全力疾走を繰り広げるアメリカ人ライダーとの反りは完璧だったのだ。

クーリーはその後も、第3回鈴鹿8耐でグレーム・クロスビーと組んで再びの栄光を手にする。そして横内は、78年の劇的な勝利の後もポップにマシンを提供し続けた。

ポップの「神の手」、スズキの名車、そしてアメリカ人ライダーのガッツとライディングテクニック。これらが「ヨシムラ」のロゴを世界の頂点に押し上げ、永遠に語り継がれるであろう伝説を作ったのだ。

【参考】
ポップ吉村のバイク・スピリッツ(吉村秀雄 徳間書店)
ポップ吉村の伝説(富樫ヨーコ 講談社)
ポップ吉村物語(原達郎)
RACERS Vol.28(三栄書房)

書いた人

ノンフィクションライター、グラップリング選手、刀剣評論家。各メディアでテクノロジー、ガジェット、ライフハック、ナイフ評論、スタートアップビジネス等の記事を手がける。