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2021.11.25

「琉球はどうなってるんだ!」詰問された島津斉彬の弁明。そして、水戸の御老公の復権を願う人々の秘密工作——幕末維新クロニクル1847年6月

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日本が大きく変わった幕末。その時一体何が起きたのかを時系列で探る「幕末維新クロニクル」シリーズ。隠居謹慎させられた徳川斉昭の復活を狙う動きが——。

前回までのクロニクルはこちらからどうぞ。

サムネイル画像は昭和11年ごろの水戸城址(国立国会図書館デジタルコレクション 熊田葦城著「日本史蹟大系 第15巻」より)

弘化4年

5月(小の月)

朔日

(1847年6月13日)

姫路藩主酒井忠宝「雅楽頭」就封ニ依リ、登営ス。

忍藩主松平忠国「下総守」大房崎「安房国平郡」ニ新砲台築造セラルルヲ以テ、富津「上総国周淮郡」・竹岡「上総国天羽郡」ノ戍兵ヲ北条「安房国安房郡」ニ移サンコトヲ幕府ニ請フ。

 大房崎(現在の千葉県南房総市富浦町)に新砲台を築造するので、富津・竹岡(いずれも現在の千葉県富津市)に置いた忍藩の守備兵を、北条(現在の千葉県館山市の中部)に移したいとのことです。

2日

睦宮「伏見宮・後兵部卿・貞教親王」ヲ仁孝天皇猶子ト為ス。

 猶子(ゆうし)とは養子とどこが違うのでしょう。たいがいの養子は世継ぎとされ、いずれ家督を継がせる含みがありますけれども、猶子は「親子も同然」という格を与えるもので、相続の権利は発生しないのが普通です。仁孝天皇さまは、さる2月6日に一周忌を迎えていますから、こんなタイミングで猶子とすることがあったとは、私もオドロキです。

幕府、西丸留守居筒井政憲「紀伊守・後肥前守」・大目付深谷盛房「遠江守」・目付松平近韶「式部少輔」等ノ、海防鞅掌ノ労ヲ賞シ、物ヲ賜フ。

 ふだん無茶な仕事を押しつけてくるパワハラ上司が、たまに部下の御機嫌取りみたいなことやってる感じで、なんかイヤだなぁ。

前水戸藩主徳川斉昭「前権中納言」老中阿部正弘「伊勢守・福山藩主」ニ嘱スルニ、藩士ニ調練ヲ励奨シ、且医師・僧侶ニ俗体ヲ許可スベキヲ後見三連枝「高松・守山・常陸府中」ニ諭旨センコトヲ以テス。正弘、復書シテ藩主自ラ処置スベキヲ答フ。

 隠居を強制されてから暇を持て余し気味の水戸の御老公さま、老中の阿部正弘に「水戸藩士に調練を奨励するように、また、医師や僧侶が髪を伸ばして一般人みたいにすることを許可するよう、老中として水戸藩の後見役たちに意見してやってくれ」と、書面で願い出ました。正弘は「それは藩主が自分で決めることです」と返事しました。老中ってたいへんですね。

3日

所司代酒井忠義「若狭守・小浜藩主」・京都町奉行伊奈忠告「遠江守」等ノ常御殿修営ノ労ヲ賞シ、物ヲ賜フ。

 常御殿(つねのごてん)は天皇さまが日常を過ごす建物です。その修繕が済んだことに対し、幕府の所司代と京都町奉行とが朝廷から賞されたとのことです。

彦根藩主井伊直亮「掃部頭」千駄崎「相模国三浦郡」砲台守衛ノ為、野比「相模国三浦郡」・長沢「同上」二村ヲ管センコトヲ請フ。幕府、批シテ勘定奉行ト協議セシム。

 彦根の殿様は、千駄崎砲台守備のため、野比と長沢、二つの村を彦根藩の管轄にして欲しいと願い出ました。幕府の代官に代わって警察権を行使したり、年貢を徴収して幕府に納めたりしたいということです。よその領分に軍勢を連れていくのは、さぞやストレスたまるでしょう。

須坂藩主堀直武「長門守」領内震災ノ状ヲ具シテ参覲ノ延期ヲ請フ。幕府、之ヲ聴ス。

 さる3月24日の善光寺地震で甚大な被害を受けた信濃国須坂藩(外様1万石)の殿様は、参勤の延期を幕府に願い出て許可されました。

幕府、評定所留役ヲ天草島「肥前」ニ派遣シテ騒擾ヲ糺弾セシム。尋デ、熊本藩主細川斉護「越中守」ニ命ジテ、不虞ニ備ヘシム。

 寛永14年(1637)に発生した島原・天草一揆では、天草島は一揆軍の拠点となりました。そうした経緯もあって、さる2月に発生した天草島での騒擾(弘化一揆)の行く末を、幕府は警戒しているようです。天草島は幕府直轄領なのですが肥後国熊本藩に出動の準備を命じました。

4日

征夷大将軍徳川家慶、府下鼠山ニ鉄砲方ノ練習ヲ閲ス。

 将軍が幕府鉄砲方の練習を観閲しました。鼠山は将軍の鷹場の一つですが、鼠山の伝承は広範囲に及んでいます。新宿区下落合2丁目10番にある「おとめ山公園」は、かつて御留山として樹木の伐採や草刈が禁じられた地域で、その地続きに鼠山があったようです。豊島区目白4丁目11-21にある「豊島区立目白の森」付近ではないかと思われます。市街地での発砲は厳しく禁じられていましたが、将軍の鷹場となれば何処からも文句は出ないでしょう。

5日

彦根藩主井伊直亮、川越藩主松平斉典「大和守」ニ代リ、城ケ島「相模国三浦郡」ノ警備ニ当ルヲ以テ、備砲ノ使用ヲ請フ。幕府、之ヲ聴ス。

 彦根藩の殿様は、川越藩から城ヶ島の警備を引き継ぐにあたって、備え付けの大砲を使用することを求め、幕府から許可されました。江戸時代は現在のお役所仕事の原点みたいなところがありますから、よその領分へ兵隊を連れて出掛けていって借り物の大砲を使用する……ちょっと考えただけでも恐ろしいほどの手続きが要りそうでコワイです。

7日

一橋家主徳川慶寿「従三位・参議兼民部卿」薨ズ。前名古屋藩主徳川斉荘「権大納言」ノ次男松平昌丸、入リテ後ヲ承ク。

 一橋家にも領地はあるんですが、一繋がりの大きな領地は無くて、あちこちに飛び領地を持つからでしょうか、当主のことを藩主ではなく「家主」と呼ぶのですね。世継ぎがなく、当主不在となっても存続させる特別ルールが適用される家ですから、末期養子による家督相続でも厳密さは要求されないようです。

9日

前幕府大奥老女是生、逝ク。

 老女・是生の消息は見つけられませんでした。

11日

佐野藩主堀田正衡「摂津守」領内植野村「下総国安蘇郡」ニ於テ砲術練習ヲ行フノ許可ヲ幕府ニ請フ。

 下野国佐野藩(譜代1万3000石)の殿様は、領内で砲術練習を行うことの許可を幕府に願い出ました。発砲禁止は例幣使街道が通っている佐野藩領にも及んでいたのですね。

12日

幕府、浦賀奉行大久保忠豊「因幡守」ヲ以テ書院番頭ト為ス。

 どんな組織でもいえるでしょうが、出先にいるよりは組織本体にいた方が出世に有利ですから、苦労が多い割に報われそうにない浦賀奉行から、江戸城内の書院番なら栄転ですよね。

15日

鹿児島藩世子島津斉彬「修理大夫」・佐倉藩主堀田正篤「備中守」・三田藩主九鬼隆徳「長門守」参府ニ依リ、丹波亀山藩主松平信篤「紀伊守」・伊予松山藩主久松定穀「後勝善・隠岐守」就封ニ依リ、各登営ス。

 鹿児島藩=薩摩藩世子の島津斉彬が江戸へ戻って来てますね。

17日

前水戸藩太田学館守日下部伊三治「翼」潜ニ江戸ニ来ル。是日、伊三治、熊本藩主細川斉護其他諸有志ノ前水戸藩主徳川斉昭ノ雪寃ニ尽力スルノ状ヲ水戸藩士高橋多一郎「愛諸」ニ報ズ。

 日

下部伊三治は元薩摩藩士の子で、脱藩した父とともに水戸藩領の常陸国多賀郡に移り住んだようです。流浪の人生を歩んだだけに顔が広いらしく、江戸へ潜行して御老公さま復権に向けた有志による工作の状況を、別の水戸藩士に報じたとのことです。

18日

浦賀奉行戸田氏栄「伊豆守」相模・安房海岸ヲ巡視ス。

 相模と安房の間に、うみほたるはまだ無いので、御用船で往復したことでしょう。現代の鉄道利用でも、久里浜から木更津まで6時間くらいかかります。フェリーなら40分程度。

19日

幕府、令シテ諸家供廻ノ非礼ヲ戒飭シ、又奥医供方ノ取締ヲ厳ニセシム。

 予防的な禁令の出し方には見えません。実際「供廻ノ非礼」があっての禁令かと思われます。大名や旗本の供回りというと士分ではない仲間(ちゅうげん)や小者も含まれます。また、大名屋敷の敷地の中にある長屋は町奉行の管轄外で、賭博が横行することもありました。

松前藩主松前昌広「志摩守」・盛岡藩主南部利済「信濃守」外国船ノ出現ヲ幕府ニ報ズ。

 さる4月3日にも、松前藩と盛岡藩から外国船発見が伝えられていますが、またですね。

21日

即位式ノ期ヲ九月中旬ト治定ス。尋デ、参仕ノ諸司ヲ任命ス。

 弘化3年5月22日に即位式を翌年秋と、おぼろげに定めてあったのを、弘化3年に閏5月があったから13ヶ月目にあたるこの日、ちょっとだけ具体的に9月中旬と定めました。

22日

琉球特使池城親方「毛増光」清国ヨリ帰著シ、英・仏国人退去ヲ清国政府ニ歎訴セシ顛末ヲ復命ス。

 さる弘化3年12月22日に清国政府と交渉した琉球王国の特使が戻りました。アロー戦争で清国はイギリスとフランスからコテンパンにやられたわけでして、無理だったでしょうね、退去するように口添えを頼んでも。

佐貫藩、新ニ砲台ヲ池之台「上総国大坪山」ニ築キ、大砲ノ試放ヲ行フ。

 上総国佐貫藩(譜代1万6000石)は、新たに築いた砲台で、大砲の試射を行いました。遺憾ながら、池之台も大坪山も位置は不明です。海際の高台なのでしょうね。

外国船一艘、加茂沖「出羽国西田川郡」ニ見ハル。

 現在の山形県鶴岡市に旧加茂町があったので、たぶんそこら辺から見える沖合に外国船が来たということでしょう。

23日

伯太藩主渡辺潔綱「丹後守」病ニ因リ退隠シ、嫡子章綱「半之丞・後丹後守」家督ヲ承ク。

 和泉国伯太(はかた)藩(譜代1万3500石)の殿様が退隠して、嫡子が家督を継ぎました。

飯山藩主本多助賢「豊後守」領内震災ノ状ヲ具シテ先期就封ヲ請フ。幕府、之ヲ聴ス。

 信濃国飯山藩(譜代3万5000石)の殿様は、善光寺地震で被災した状況を申し添えて早期の帰国を願い出て、幕府は許可しました。さる4月23日には幕府から3000両を貸与されています。

24日

浦賀奉行戸田氏栄、相模・安房・上総警備ノ四藩「川越・忍・彦根・会津」ニ対シ、予メ警備方法ヲ議定シ、協力一致平穏ヲ旨トスベキ幕命ヲ伝フ。

 浦賀奉行は、江戸湾警備に任じられた4藩に対し、あらかじめ警備マニュアルを定めたうえ、「平穏を旨とすべし」という幕府の方針を伝えました。平穏といったってジュネーブ協定じゃあるまいし、無防備都市を宣言するのは無駄ですから、防備は固めるけれども、いきなりブッ放したりはしませんよ、みたいな感じでしょう。

25日

老中阿部正弘、鹿児島藩世子島津斉彬ニ、琉球警備ノ状幕府委任ノ趣旨ニ違フヲ詰問ス。

 さる15日に江戸へ戻ってきた島津斉彬に対し、老中の阿部正弘は「琉球警備の状況が幕府が委任した趣旨と違うじゃないか」と詰問しました。いや、場合によっては「琉球のみ開国しても良い」とまでコッソリ内旨を伝えていたのに、表立ってはこの仕打ちです。ヒドイ。

26日

幕府、掛川藩主太田資功「摂津守」・沼田藩主土岐頼寧「伊予守」ヲ奏者番ト為シ、先手頭浅野長祚「中務少輔」ヲ浦賀奉行ト為ス。

 幕府の人事異動です。新たに浦賀奉行に任じられた浅野長祚(ながよし)は、軍制組織である先手組の鉄砲頭からの移動です。この時期、浦賀奉行は2人が任じられており、先任の戸田氏栄は、なお在任中です。

在江戸鹿児島藩家老等、琉球警備ニ関スル幕府ノ詰問ニ就キ、凝議ス。尋デ、藩士折田八郎兵衛・同有馬次郎右衛門、世子島津斉彬ノ内意ヲ齎ラシテ藩地ニ帰ル。

 やむを得ないときは開国しちゃっても良いけど、ただし自己責任でという意味の幕府の「内旨」は、あくまで内輪のことでして、表向きの報告が、あまりに正直すぎたのでしょうね。凝議とは相談を重ねることで、いまでいうと国会での想定問答にない質疑が出て来ちゃったようなものでしょうか。霞ヶ関の官庁街は深夜も灯りがついたままになりますが、それと似てますかねぇ。世子の斉彬の内意を伝えに、使者を本国に送りました。

27日

女院旧殿ノ称ヲ後院北殿ト改ム。

 女院旧殿は、昨弘化3年6月20日に崩御あそばした皇太后(新清和院)の住まわれていた建物でしょう。それが後院北殿と改称されました。後院とは、天皇さまが日常をすごす常御殿とは別に設けられる予備的な建物のことです。 

28日

会津藩主松平容敬「肥後守」安房・上総警備地ニ銃砲輸送ノ為、指揮ヲ幕府ニ請フ。

 いまの銃刀法ほどじゃないですが、鉄砲の管理は厳しかったので、やたらに持ち歩くと大ごとになります。いちいち幕府に指図させるのもトラブル防止のため必要なことでした。

高知藩、領海警備ノ部署ヲ定ム。

 高知藩=土佐藩は、外海に面していますから危機感はヒシヒシと迫ってきたでしょうね。

水戸藩士板橋源介「常裕」前藩主徳川斉昭雪冤ニ関スル周旋ノ近況ヲ同藩士高橋多一郎ニ報ジ、且斉昭ノ幕府ニ対スル建議ヲ少クセンコトヲ冀フ。

 水戸藩士が御老公さまの復権を目指して運動しているわけですが、「斉昭ノ幕府ニ対スル建議ヲ少クセンコトヲ」願っています。正解です、やっとソコに気づきましたか。水戸の御老公さま、なにかと幕府に提案したり活溌すぎるのです。隠居を強制されたんだから、もう少しおとなしくしていただかないと、復権が遠のきます。

29日

川越藩士多賀谷左近等、浦賀奉行ニ請ウテ平根山「相模国三浦郡」砲台ヲ検分ス。

 平根山台場は、現在の神奈川県横須賀市西浦賀に位置した砲台でした。明治時代に千代ヶ崎砲台として作り替えられました。

是月

幕府、大聖寺藩主前田利平「備後守」・柳河藩主立花鑑寛「左近将監」・平戸藩主松浦曜「壱岐守」・津和野藩主亀井茲監「隠岐守」・三田藩主九鬼隆徳・日出藩主木下俊敦「左衛門佐」・越前勝山藩主小笠原長守「土用犬丸・後左衛門佐」・小城藩主鍋島直尭「紀伊守」・広島藩支族浅野長訓「近江守」・久保田藩支藩「後岩崎」主佐竹義純「壱岐守」・宇土藩主細川之寿「豊前守」ニ、関東筋河川普請ノ賦役ヲ課ス。

 江戸時代の初頭から、関東は大規模な河川改修が重ねられてきました。河川普請というと堤防の修繕などが思い浮かびますが、長い年月が過ぎて、どんな工法で堤防を築いたかもわからなくなっているでしょう。たいへんなことです。

鹿児島藩主島津斉興「大隅守」密ニ長崎在留蘭国甲比丹ニ頼リ、外国人琉球渡来ノ意向ヲ探ラシム。

 鹿児島藩=薩摩藩の殿様は、コッソリと長崎のオランダ商館のカピタンを頼って、外国人がどんな意向で琉球に渡来するのかを探りました。

琉球滞留ノ英医ベッテルハイム、布教ニ意アリ。琉球語及仮字俗文ノ伝習ヲ中山府吏ニ要請ス。

 すでに当クロニクルには何度か登場したベッテルハイム先生を、御記憶のこととは存じますが英国籍のユダヤ人で、基督教に改宗して宣教師となった医師という複雑な属性を持った人です。琉球政府はお引き取り願いましたが、滞留しておられます。このたび琉球王国での布教活動を志し、カナ文字や口語文を教えて貰いたいと琉球政府の役人に要請しました。

6月

朔日

(1847年7月12日)

飯山藩主本多助賢「豊後守」・丹波亀山藩主松平信篤「紀伊守」就封ニ依リ、各登営ス。

 飯山藩は善光寺地震で被災したので、早退です。

幕府、鯖江藩主間部詮勝「下総守」ノ帰藩ヲ停ム。

 かつて老中だった間部詮勝、水野忠邦と対立して天保14年(1843)に老中を辞任しています。帰国を差し止められたのは何故? 政敵の水野はとっくに失脚しているのですが。

2日

宇和島藩主伊達宗城「遠江守」蘭書ノ借覧ヲ前水戸藩主徳川斉昭「前権中納言」ニ請フ。

 御老公さま、かまってくれる人がいてよかったですね。

3日

鹿児島藩世子島津斉彬「修理大夫」琉球警備ニ関シ、幕府ニ対フル弁疏条項ヲ覆議シ、藩主島津斉興「大隅守」ニ供閲ス。

 鹿児島藩=薩摩藩世子の島津斉彬、思いも拠らぬ琉球問題に関わる幕府からの詰問に弁明しなければなりません。藩士らが議論を重ねた回答案を、殿様の斉興に見せました。

松前藩、択捉島漂著ノ米国人ヲ長崎ニ護送ス。尋デ、奉行平賀勝足「信濃守」漂民ヲ糺問ス。

 米国人7名が択捉に漂着したのは、弘化3年5月11日で、すでに1年以上(閏5月を含めて14ヶ月目)経過しています。どう対処するのか、択捉島と長崎とで書翰の往復で協議していたから、長崎まで身柄を運ぶまで、こんなに時間がかかったのでした。

鹿児島藩、琉球平穏ノ状ヲ在江戸家老ニ報ズ。

 鹿児島藩=薩摩藩の国許から江戸家老へ、琉球は平穏であることを伝えました。わざわざ「平穏です」と報告しなきゃならないほど、このところ非常事態が続いていたのです。

5日

彦根藩士小野田小一郎等、上総・安房海岸諸藩警備地ヲ巡視ス。

 湖東焼(陶器)を創始した彦根藩家老が同姓同名で、弘化3年に亡くなっています。たぶん、その跡継ぎなのでしょう。

8日

前宇和島藩主伊達宗紀「伊予入道」鹿児島・松前二藩ノ辺海防備ニ関スル内情ヲ、前水戸藩主徳川斉昭ニ告グ。

 宇和島藩の御隠居さまが、薩摩藩と松前藩の沿岸防備の内情をどこからか聞きつけ、水戸の御老公さまに知らせました。お互い御隠居さま同士ですから、憂き世のことから離れた話題が良いかと思いますが。

刈谷藩主土井利善「民次郎・後大隅守」封内ニ於テ練兵ヲ行フノ許可ヲ請フ。幕府、之ヲ聴ス。

 刈谷藩(譜代2万3000石)の殿様が、領内で練兵を実施することを願い出て、幕府に許可を受けました。

11日

彦根藩、浦賀警備ノ為、領地佐野「下野国結城郡」ニ於テ銃砲ヲ鋳造ス。

 本領が江戸から遠い諸藩のため、関東各地に遠方の藩の飛び領地が設けられ、江戸屋敷で消費する米や野菜を確保していました。彦根藩30万石は、近江国の本領28万石と、江戸近郊の世田谷と、現在の栃木県佐野市にあった飛び領地を併せて30万石です。その佐野領で銃砲が鋳造されました。

12日

琉球中山府、去秋以来外国人退去ヲ清国ニ哀訴セシ顛末ヲ、鹿児島藩家老調所笑左衛門「広郷」ニ内報ス。

 琉球政府は、外国人退去のことを清国に口添えを頼んだ件について、鹿児島藩=薩摩藩家老にコッソリ報告しました。

13日

吉田社仮遷宮

 吉田神社は幕府が定めた諸社禰宜神主法度により、全国の神職の任免権(神道裁許状)を握ったうえ、天皇の守護神8柱を祀る八神殿を擁したことから、江戸時代の神道の世界では大きな権威でした。このたびは建物の建て替えのための仮遷宮であり、竣工の暁には正遷宮が行われます。

鹿児島藩世子島津斉彬、老中阿部正弘「伊勢守・福山藩主」ヲ訪ヒ、琉球警備ニ関スル要旨三条ヲ弁疏ス。

 琉球問題で老中から詰問を受けた島津斉彬が、弁明のときを迎えました。要旨を三箇条に整理して、わかりやすく説明したとのことです。

14日

幕府、恒例ニ依リテ茶ヲ進献ス。

 古くからの習わしで、京の宇治茶は現地で茶壺に詰めるところまでが茶師の役目で、茶壺の配達はサービスに含まれません。幕府といえども宇治から茶壺を運ばねばなりませんが、同時に京都の禁裏へも献上されるのが恒例でした。

幕府、上田藩主松平忠優「後忠固・伊賀守・大坂城代」ニ、震災救恤ノ為金三千両ヲ貸与ス。

 信濃国上田藩(譜代5万3000石)も、さる3月の善光寺地震で被災したため、幕府は3000両を貸与しました。

川越藩、三崎「相模国三浦郡」陣屋ヲ腰越「同郡鴨居村」ニ徙ス。

 川越藩が三浦半島にある陣屋を三崎から腰越に移しました。三崎は現在の神奈川県三浦市三崎(城ヶ島に近い)あたり、腰越は神奈川県横須賀市鴨居(観音崎に近い)あたりと思われます。

15日

右大臣九条尚忠ヲ左大臣ニ、内大臣近衛忠煕ヲ右大臣ニ、権大納言花山院家厚「右近衛権大将如故」ヲ内大臣ニ任ズ。

 朝廷の人事異動です。九条、近衛は公家社会の最上位である摂関家、花山院は摂関家に次ぐ精華家です。

佐賀藩主鍋島斉正「肥前守」・庄内藩主酒井忠発「左衛門尉」・高取藩主植村家興「出羽守」・松本藩主戸田光則「丹波守」・丸岡藩主有馬温純「日向守」・高槻藩主永井直輝「遠江守」・今治藩主久松定保「後勝道・駿河守」・村松藩主堀直央「丹波守」・峰山藩主京極高景「右近将監」・七日市藩主前田利豁「丹後守」・黒石藩主津軽承保「出雲守」参府ニ依リ、各登営ス。

18日

幕府、朝命ニ依リ、踐祚以来ノ御服調進料ヲ献ズ。

 朝廷の儀式はカネかかりますからね。

19日

高田藩主榊原政恒「式部大輔」尼崎藩主桜井忠栄「遠江守」大垣藩主戸田氏正「采女正」中津藩主奥平昌服「大膳大夫」延岡藩主内藤政義「能登守」三河吉田藩主大河内信璋「伊豆守」新発田藩主溝口直溥「主膳正」津和野藩主亀井茲監「隠岐守」杵築藩主松平親良「市正」福知山藩主朽木綱張「近江守」上ノ山藩主松平信宝「中務少輔」高島藩主諏訪忠誠「因幡守」鳥羽藩主稲垣長明「摂津守」岩村藩主松平乗喬「能登守」水口藩主加藤明軌「越中守」出羽松山藩主酒井忠良「大学頭」挙母藩主内藤政優「丹波守」与板藩主井伊直経「兵部少輔」結城藩主水野勝進「日向守」小諸藩主牧野康哉「遠江守」大田原藩主大田原広清「出雲守」天童藩主織田信学「兵部少輔」谷田部藩主細川興建「長門守」奥殿藩主大給乗利「石見守」安志藩主小笠原貞幹「信濃守」伊勢亀山藩世子石川総禄「長門守」就封ニ依リ、各登営ス。

20日

新清和院「欣子内親王・光格天皇中宮」一周忌法会ヲ、般舟三昧院及泉涌寺ニ修ス。

 もう一周忌とは月日が経つのは早いものです。般舟三昧院(はんじゅざんまいいん)についてはシリーズ第7回弘化4年2月6日で説明しております。

21日

幕府、暑中天機奉伺ノ為氷砂糖ヲ進献ス。

 天皇さまの御機嫌伺いに、幕府は氷砂糖を献上したとのことです。

22日

島原藩主松平忠誠「主殿頭」卒ス「四月十六日」是日、養子忠精「又八郎・後主殿頭・忠誠弟」封ヲ襲グ。

 肥前国島原藩(譜代6万5000石)の殿様が死んで、弟が養子として跡を継ぎました。

23日

鹿児島藩世子島津斉彬、琉球貿易及海防ニ関シテ、前水戸藩主徳川斉昭ノ質疑ニ答フ。

 だーかーらー、水戸の御老公のことはスルーしてあげてください。

24日

鹿児島藩世子島津斉彬、琉球人ニ託シテ清国ニ書籍器具ヲ求ム。

 琉球王国を通して清国と交易できるのが薩摩藩の強みですね。長崎経由だと、幕府の管理貿易だから何を買うのか情報は筒抜けですし。

26日

矢田藩主吉井信任「左兵衛督」卒ス「五月十日」是日、養子信和「和之助・後信発・左兵衛督」家督ヲ承ク。

 上野国矢田藩(親藩1万石)の殿様が死んで養子が跡を継ぎました。細かい領地がバラバラになっているうえ、相給(あいぎゅう)といって、一つの村に複数の領主が相乗りさせられている状態もある、統治が難しそうな小藩です。

蘭国商船1艘、長崎ニ来リ、漂民護送・沿海測量ニ関スル我通告ニ対シ、英・仏二国ノ回答ヲ齎ラス。又恒例ニ依リ、時事ヲ報ズ。

 オランダの商船が長崎に来ました。漂流者の扱いや外国船による沿海の測量に関する幕府からの通告に対する、英仏二国の回答を持ってきたとのことです。恒例の『和蘭風説書』も持ってきてくれました。

27日

老中阿部正弘、蘭国王書翰及我返翰ノ写ヲ鹿児島藩主島津斉興父子ニ内閲セシム。

 天保15年(1844)にオランダ国王から将軍に届けられた『和蘭告密』という、開国を勧告する親書を、老中の阿部正弘はコッソリ鹿児島藩=薩摩藩主父子に見せました。そのときすでに幕府は異国船打払令をやめ、薪水給与令に切り替えていましたが、漂流者の保護措置は充分と思われていないから、つぎつぎと外国船が交渉を求めてくるのです。

29日

幕府、相模沿岸警備ノ部署ヲ改ムルヲ以テ、川越藩主松平斉典「大和守」ニ命ジテ三浦・鎌倉二郡「相模」諸村ヲ上知セシム。尋デ、斉典、武蔵国久良岐郡ニ代地ヲ請フ。

 江戸湾警備の川越藩から、部署交代に伴い三浦郡と鎌倉郡の村々を幕府直轄領として召し上げます。かわりに武蔵国久良岐郡に領地を欲しいとのことです。旧久良岐郡は現在の神奈川県横浜市域にあたります。

川越藩、砲術奨励ノ為、藩士ニ銃砲新調費ヲ補給ス。

 銃砲新調といっても、西洋式の新型銃なんかは、まず個人で買えるものではありません。買えるようになるのは、開国してからです。

晦日

琉球滞留ノ英・仏人、琉球人通事ニ漢訳基督教書ヲ琉球語及日本文字ニ翻訳センコトヲ強要ス。中山府三司官、状ヲ鹿児島藩ニ報ズ。

 琉球滞留の英仏人というと、英国籍がベッテルハイム、仏国籍がル・チュルヂュで、いずれも宣教師です。ベッテルハイムはユダヤ教からプロテスタントに改宗した人で、ル・チュルヂュはカトリックですから、仲が良いとも思えませんが、両者結託して琉球政府に基督教関連書を日本語訳するよう強要したようです。

是月

幕府、老中阿部正弘牧野忠雅「備前守長岡藩主」若年寄大岡忠固「主膳正岩槻藩主」遠藤胤統「但馬守三上藩主」寺社奉行久世広周「大和守関宿藩主」勘定奉行石河政平「土佐守」松平近直「河内守」大目付深谷盛房「遠江守」目付松平近韶「式部少輔」等三十三名ニ海岸防禦用掛命ズ。

 この幕府の人事異動が、どれだけ実効を伴うものか、まったく未知数ですが、ともあれ将軍に対して幕閣の「やってる感」を示すためには有効といえそうです。

幕府、稍水戸藩内政ニ留意シ、側衆本郷泰固「丹後守」・目付遠藤則訓「半左衛門・後隼人正」等、密ニ其藩情ヲ探ル。幕府ノ奥医伊東宗益「法眼」等、亦老女藤沢「経定院」ニ頼リ、前水戸藩主徳川斉昭ノ雪冤ニ尽力ス。

 幕府は側衆や目付という、地位の高い者たちを動かして水戸藩の内情について探りを入れました。水戸の御老公が現役当時に無茶な改革をやったせいで隠居謹慎という不名誉を蒙ったので、御老公復権に向けて幕府の奥医師や、大奥の老女が運動しているとのことです。

彦根藩主井伊直亮「掃部頭」相模警備ヲ命ゼラレタルハ藩祖直孝以来担当セル京都守護ト両立シ難キヲ訴ヘ、近江・相模両国ニ於テ十万石ヲ加封センコトヲ請フ。幕府、禦侮ノ急務ナルヲ諭シテ之ヲ斥ク。

 京都守護を担当してきた彦根藩は、相模警備と両立できないから、もうあと10万石を加増してくださいと願い出ました。幕府は「禦侮」が最優先だとして、却下しました。禦侮=相手にあなどられないように心がけることは、弘化3年8月29日に下された、孝明天皇さまの勅命によることです。

書いた人

1960年東京生まれ。日本大学文理学部史学科から大学院に進むも修士までで挫折して、月給取りで生活しつつ歴史同人・日本史探偵団を立ち上げた。架空戦記作家の佐藤大輔(故人)の後押しを得て物書きに転身、歴史ライターとして現在に至る。得意分野は幕末維新史と明治史で、特に戊辰戦争には詳しい。靖国神社遊就館の平成30年特別展『靖国神社御創立百五十年展 前編 ―幕末から御創建―』のテキスト監修をつとめた。