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愚かな連中は、迷いにとらわれ、悪の種をまけば悪の報いがあり、善の種をまけば善の報いがあるという原理を信用しない。(日本霊異記)
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Culture
2019.08.24

新選組「池田屋事件」の集合場所は?メンバーは?幕末の夜に起こったサスペンスを徹底追跡

この記事を書いた人

集まっていた浪士たちの顔ぶれとは

宮部鼎蔵(御船町立七滝中央小学校蔵)

なぜ浪士たちは池田屋に集まっていたのか?

ここで池田屋にいた浪士たちに目を転じてみましょう。この時、浪士たちが会合を持った目的は、当日朝に新選組に捕らわれた古高俊太郎を奪還するための相談でした。壬生の新選組屯所を襲って、古高を救出しようという話が進んでいたのです。新選組が懸念した放火計画の相談ではなく、いわば新選組がまいた種で、浪士が会合する必要が生まれていたのです。

池田屋は、長州藩京都屋敷と密接な関わりのあった旅籠で、松下村塾(しょうかそんじゅく)出身の秀才ながら身分の低かった吉田稔麿(よしだとしまろ)などは、藩邸よりもむしろ池田屋を自身の拠点としていました。この日も吉田稔麿は、勝手のよい池田屋の2階を緊急の会合開催場所にして、同志たちに連絡を取ったと考えられます。

長州屋敷跡に建つ桂小五郎像

池田屋に集まったメンバーとは? 桂小五郎はいたのか?

集結した浪士らは、吉田稔麿が連絡を取った者を中心とする十数名と見られますが、実は確実な記録がなく、推定を交えておよそ次のようなメンバーであったと思われます。

【肥後】宮部鼎蔵(みやべていぞう)、宮部春蔵(しゅんぞう)、高木元右衛門(たかぎもとえもん)
【土佐】望月亀弥太(もちづきかめやた)、石川潤次郎(いしかわじゅんじろう)、野老山吾吉郎(ところやまごきちろう)、藤崎八郎(ふじさきはちろう)
【長州】吉田稔麿、広岡浪秀(ひろおかなみほ)、桂小五郎(かつらこごろう)
【その他】大高又次郎(おおたかまたじろう)、大高忠兵衛(ちゅうべえ)、西川耕蔵(にしかわこうぞう)、淵上郁太郎(ふちがみいくたろう)、淵上謙三(けんぞう)、大沢逸平(おおさわいっぺい)

このうち土佐の石川、野老山、藤崎の3人は、たまたま池田屋に立ち寄って同郷の望月と話をしていたところ、事件に巻き込まれ、また会合を準備した長州の吉田稔麿も、池田屋に泊まっていたので協力しただけで、古高奪還のための新選組襲撃論者ではなかったようです。

注目すべきは桂小五郎(のちの木戸孝允〈きどたかよし〉)で、出席していれば、肥後の宮部鼎蔵と並ぶ重鎮的な存在でした。桂は維新後、自らの談話で、池田屋に行ったものの時間が早かったせいか誰もおらず、出直すつもりで別の場所にいたところ事件が起きた、と語っています。しかし池田屋では早い時間から数人が集まっており、桂の話と矛盾するだけでなく、当時の長州藩士の手記には、「桂は池田屋から屋根を伝って対馬(つしま)藩邸に逃げ込んだ」とあり、藩士の中には桂を「臆病者」呼ばわりする者もいたようです。桂も会合に出席していて、いち早く逃げた可能性は高いといえるでしょう。

書いた人

東京都出身。出版社に勤務。歴史雑誌の編集部に18年間在籍し、うち12年間編集長を務めた。編集部を離れるも、いまだ燃え尽きておらず、noteに歴史記事を自主的に30日間連続で投稿していたところ、高木編集長に捕獲される。「歴史を知ることは人間を知ること」だと信じている。ラーメンに目がない。