日本文化の入り口マガジン和樂web
12月8日(木)
柴扉暁に出づれば 霜雪のごとし(廣瀬淡窓)
日本文化の入り口マガジン 和樂web
日本文化の入り口マガジン 和樂web
12月8日(木)

柴扉暁に出づれば 霜雪のごとし(廣瀬淡窓)

読み物
Culture
2022.05.07

大河の予習に『慈光寺本承久記』を読んでみたら、意外と朝廷軍がかっこよかった

この記事を書いた人

ラップバトルも始まっていよいよ朝廷軍と鎌倉軍の大激突です! 当時の戦ってぶっちゃけバイブスぶち上がった方が勝ちなので……果たしてどちらの軍がアゲアゲなのか……。読んでみましょう!

ちなみに各陣営の場所については、以前実際に行ってみて考察していますので、参考までに。
実際の陣営地はどこだった?信長が整備した木曽川沿い「承久の乱古戦場」を巡り検証してみた

「『慈光寺本承久記』を読んでみた」シリーズの過去記事はこちらからどうぞ↓↓

大内惟信

まず出てくるのは元鎌倉御家人・朝廷軍の大内惟信(おおうち これのぶ)さん。大内さんは25騎の鎌倉軍を弓矢で討ち取り、その後敵が上陸してからも多く討ち取りました。しかし息子さんが鎌倉軍に討たれてしまい、敗走しました。

ちなみに『承久記』にはこれっきりの登場ですが、大内さんはこの敗走後10年近く行方をくらまし、寛喜2(1230)年12月に捕らえられました。そして処刑は免れて西国へと流罪になったのでした。

10年もどこにいたんだろう!

蜂屋入道

続いて朝廷軍の蜂屋(はちや)入道が登場します。現在の岐阜県美濃加茂市の豪族です。彼も24騎の兵を弓矢で討ち取り、組み合っては多くの敵を討ち取りました。しかし深手を負って自害します。

あれ……。なんだかイメージでは鎌倉軍の圧勝! みたいな雰囲気ですが、朝廷軍も強い人が結構いますね。

市川新五郎

前回のラップバトルでブチ切れてしまった市川さんも、無事川を渡れたようです。そしてラップバトルの相手を討ち取りました。……現代人のみなさんは、ラップバトルは握手で終わってくださいね!

ラップバトルする機会……あるかなぁ。

蜂屋三郎

先ほど自害した蜂屋入道の息子さんは父の死を見て敗走します。しかしその弟の三郎くんは父の仇を取るために、勝てないと分かっていても引き返して来ました。蜂屋三郎くん! なんだか忍術学園にいそう!

蜂屋三郎くんがロックオンしたのは、前回も登場した武田さんちの信長くん!! 蜂屋三郎 VS 信長!! ここだけ見たらすっかり室町時代ですが、鎌倉時代です。

蜂屋三郎くんと信長くんが取っ組み合いをして、蜂屋三郎くんが優勢……。マウントポジションを取りました! そして短刀を信長くんに突き立てようとしたところを、信長くんの弟が駆け寄って来て、蜂屋くんを討ち取りました。惜しい……!

命がけの戦闘シーンだけど、某忍術学園で再生されてしまいました。

神土殿

『慈光寺本承久記』に次に出てくる朝廷軍は「神土殿」。読み方も不明ですが、おそらく『吾妻鏡』にも出てくる神地頼経(かみち? よりつね)であろうとされています。

川上から逃げて来る味方たちを見て、戦って討ち取られる覚悟を決めますが、部下に「生きてこそですよ。死ぬ覚悟ではなく生きる覚悟をしましょう!」と言われ、鎌倉軍の総大将、北条泰時(ほうじょうやすとき=義時の長男)に投降します。しかし泰時は許さず、処刑してさらし首にしてしまいました。

ちなみに『吾妻鏡』では神地頼経さんが投降したのは同じですが、生け捕りにしています。その後どうなったかは明らかになっていません。……京都へ戻らなかったので死んだと思われたのか、あるいは処刑した部分をカットしたのか……。

鎌倉の世は厳しい……。

大豆戸

そして各陣営で多くの敵を討ち取り、また討ち取られ、朝廷軍は逃げて行ったことが書かれています。

その中でも中心的な場所が双方の総大将がいた大豆戸(まめど)の渡しでした。ここの詳細はこちらを参考に。
日本で唯一の承久の乱イベント! 岐阜県各務原市「承久の乱合戦供養祭」で供養塔の謎を探る

ちなみに『慈光寺本承久記』では、三浦胤義(みうら たねよし)が奮戦し、多くの敵を討ち取った事が書かれていますが、『吾妻鏡』では「陣営を放棄して逃げた」と書かれています。いやぁ……朝廷軍推しとしては、さすがに『吾妻鏡』の編集が過ぎると思いますね……! 

今だったら炎上するやつ。

押野と大和

食渡(じきの わたし)にいた、鎌倉軍の押野入道と大和入道はこんな会話をしています。

押野入道
「ここは昔から1000騎のうち1騎も渡れないと言われるほどの難所だ。もう少し上流から渡ろう」

大和入道
「なるほど。北条義時殿からの指示で『上流から渡れ』とあったのはそういう事だったのか」

ここの道のこと、義時はおそらく源平合戦の時から知っていたんでしょうね。源平合戦では義時は目立った活躍はしていませんが、よく観察していたんだろうなと思える描写です。

戦ではそういうとこが大事なんだな。

加藤光員

朝廷軍の武士に加藤光員(かとう みつかず)という人物がいます。彼は元々鎌倉御家人でしたが、色々あって朝廷軍の味方をしていました。

『慈光寺本』では、「加藤光員は平維盛(たいらの これもり)と同じ失敗をした」とあります。

加藤光員は尾張国の鳴海潟(なるみがた=現・愛知県名古屋市緑区鳴海町)の住人が山へ入ると言うので、火をつけさせた。すると無数の鳥が炎に耐え切れず伊勢(三重県)の方へ逃げた。

その中に白鷺が100羽ほどいるのを見つけて、「あれを見ろ。きっと沖の水軍が白旗(鎌倉軍の旗)を差して背後から回り込んでくるに違いない」と恐れをなした。3000騎も従えておいて、1矢も報いずに逃げ出した。

あああ……維盛さんの富士川の話~。いやでも、維盛さんは突然の騒音に驚いたということでまだ理解できます。しかし加藤さんは勝手に想像を膨らませて怖がっているので、維盛さんも「同じにしないで!」と言う気がします。

想像力豊か!!

もしかしたら加藤さんは、以前紹介した津久井(つくい)さんと同じように、本心は鎌倉にありながら、あれよあれよという間に朝廷軍に組み込まれてしまったのかもしれません。

ちなみに、加藤さんのその後の動向は記録にありませんが、岐阜県恵那市の龍護寺(りゅうごじ)にお墓と伝わるものがあります。

渡辺翔

上瀬(かみのせ/かみせ)という所には、渡辺翔(わたなべ かける)という人物がいました。摂津国の渡辺党の棟梁で、酒呑童子(しゅてんどうじ)を退治した源頼光(みなもとの よりみつ)とその4人の部下の1人、渡辺綱(わたなべの つな)の子孫です。

『羅城門渡辺綱鬼腕斬之図』 出展:国立国会図書館デジタルコレクション

血筋がまずカッコイイ、名前がカッコイイ。そして渡辺党は美形一族らしいので、実際にイケメンだったことでしょう。

「天は二物を与えず」じゃないんかい!!

しかもその戦いぶりは、馬で縦横無尽に駆け回り、「我は翔、我は翔」と高らかに名乗りながら怒涛の如く矢を放つ。まさに承久無双! 承久デビルメイクライ!! ドラマに出てくるでしょうか……。楽しみですね!!

そんな感じで超かっこよく奮戦した渡辺翔さん。翌日の明け方まで粘りますがやはり敗走してしまいました。

「承久の乱は鎌倉幕府の圧勝」という結果しか知らなかった人は意外だったのではないでしょうか。というわけで、次回に続く!

書いた人

神奈川県横浜市出身。地元の歴史をなんとなく調べていたら、知らぬ間にドップリと沼に漬かっていた。一見ニッチに見えても魅力的な鎌倉の歴史と文化を広めたい。