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2022.05.28

巴御前は実在しなかった?美しき女武者の系譜を追う

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大河ドラマ『鎌倉殿の13人』にも登場した巴御前(ともえごぜん)。木曽義仲の愛妾として、また武勇に優れた武将としても名高い女性だ。しかし、この巴御前という女性についてはさまざまな説があり、実在したのかどうかも疑わしい。『平家物語』『吾妻鏡』『源平盛衰記』から、巴御前の謎に迫りたい。

巴御前は木曽義仲の妻だったのか?

古典『平家物語』の第二の主人公とも言うべき源(木曽)義仲。河内源氏の一門である源義賢の次男として生まれるも、父・義賢は、源 義平(源義朝の子)によって殺されてしまう。義賢は上野・武蔵国にかけて勢力を伸ばしていた。よって、鎌倉を本拠とする甥・義平に討たれたのは、勢力争いが絡んでいたと推測される。

僅か二歳の幼少の義仲は、母に抱かれ、木曽の豪族・中原兼遠のもとへ赴く。兼遠のもとで長年育てられ、義仲は逞しい武将に成長する。「騎馬戦でも、徒歩での戦でも、坂上田村麻呂や源義家といえども、義仲に勝ることはない」と評されたほどであった。

さて、巴御前という女性は、一般的には、義仲の妻と思われているかもしれない。しかし、『平家物語』に「木曾殿は信濃より、巴・山吹とて、二人の便女を具せられたり」とあるように、巴は妻とは記されず「便女」と書かれている。便女には、美女や召使いの女性との意味がある。巴は『平家物語』によれば、戦に参加する女武者であった。しかも単に参戦するだけでなく「強弓精兵、一人当千の兵者」として活躍したという。 「色白く髪長く容顔まことに優れたり」(『平家』)とあり、美女だったようだ。

木曽義仲が、源義経らの軍勢に攻められ敗死する直前、巴は義仲から「お前は女であるからどこへでも逃れよ。私は討ち死にする覚悟だから、最期に女を連れていたなどと言われるのはよろしくない」と落ち延びるように諭されるが、巴は拒否。それでも再三、「落ち延びよ」と言われるものだから、ついに巴も意を決し、最後のご奉公として、敵方の武士の首を切り、東国に落ち延びる。『平家物語』においては、巴はここで姿を消す。

読者はどうしても巴の「その後」が気になりますね。

巴御前は実在したのか?

ところが『源平盛衰記』によると、東国に落ち延びた巴は、鎌倉の源頼朝に召され、その後、侍所の長官を務める事になる和田義盛(いわゆる鎌倉殿の13人の1人)の妻となったという。巴は義盛の子・義秀を産んだというが、義秀が生まれたのは、1176年。木曽義仲が敗死したのは、1184年と時期が合わない。よって、巴が和田義盛の妻となり、子を産んだというのは、後世の創作であろう。巴が女武者だったという話も『平家物語』などの創作と言われており、巴の実在さえも疑わしい面もある。

鎌倉時代後期に編纂された歴史書(鎌倉幕府編纂)『吾妻鏡』には巴御前の存在は確認されない。また当時の史料(書状や日記など)にも巴は登場しない。巴は軍記物、歴史文学の中でのみ存在する女性であった。なぜ、巴は歴史文学の中でのみ存在するのか?こればかりは想像するしかないが、実際の義仲軍のなかにも、勇猛な女武者がいたのではないか。その女武者(個人か複数かは分からぬが)がいつしか「巴」という名を付けられ、文学の中で登場するようになった。私はそのように空想している。

「物語映え」するキャラクターとして、徐々に巴という人格ができていったのかなぁ。

『源平盛衰記』は、巴を「木曽義仲の乳母の子」であり「義仲の妾」としているが、『源平盛衰記』自体も『平家物語』の異本であり文学的要素が強いものである。記述をそのまま信用することができない。とは言え、同書には巴に関して、興味深い記述も見え、例えばそれは「押並テ組、首ネヂ切テ、軍神ニ祭ン」との巴の言葉である。戦において、敵の首をとり、軍神に祀ろうというのである(巴は敵首を獲り、それを義仲に見せたという)。

粟津の戦いで内田三郎家吉の首をねぢ切る巴御前
石川豊信 メトロポリタン美術館蔵

戦場で敵の首をとり、軍神に祀るとの言葉は『平家物語』において、畠山重忠や源義経も発しているが『源平盛衰記』の巴の言葉もそれと同様であろう。『源平盛衰記』のみに、軍神に敵首を祀るとの巴の言葉が載るのである。同書は、巴の武勇のみならず、宗教性を帯びる女性として描いている。それは、巴の実在を証明するものではないとしても、他書にはなく、貴重であろう。

真の女武者・板額御前

しかし、女武者自体は、例えば『吾妻鏡』(鎌倉時代後期の歴史書)にその存在が確認されている(越後国の城氏の一族・板額御前)。板額御前は、城長茂の妹とされる。城長茂は、治承・寿永の内乱(源平合戦)においては、平家方に与し、木曽義仲とも干戈を交えた。しかし、内乱の過程で没落。源頼朝が覇権を握ると、城長茂は囚人として、梶原景時(頼朝の重臣)に預けられた。1189年の奥州藤原氏攻めでは、戦功を立て、鎌倉幕府の御家人になる事を許される。ところが、頼朝死去後、何かと庇護してくれた梶原景時が政争に敗れ、一族は滅亡。それから約1年後の1201年1月、城長茂は兵を率いて上洛。小山朝政の屋敷を攻撃するのだ。長茂軍は撃退されるが、長茂は後鳥羽上皇の御所に参上し、二代将軍・源頼家の追討の許しを得ようとする。

しかし、要求は容れられず、長茂は逃亡。2月に吉野山にいる事が露見し、殺された。長茂がなぜこのような無謀な行為をしたかは謎だが、反乱の火の手は、長茂が死んだだけでは消えなかった。長茂の甥・城資盛が越後で挙兵したのだ。そして、その挙兵には長茂の妹・板額御前も加わる事になる。

越後の反乱に、鎌倉では幕府の宿老(北条時政、大江広元、三善康信ら)が対策を協議。佐々木盛綱が大将として、越後に派遣される。 5月には、幕軍と城氏の間で戦が繰り広げられるが、その時に活躍したのが、板額御前であった。御前は「童形の如く上髪せしめ腹巻を着し。矢倉の上に居て」敵を射たという(『吾妻鏡』)。御前が放った矢は悉く敵に命中したとのことだ。信濃国の豪族・藤沢清親は、背後の山に回り、高所から矢を放ち、御前の股に命中させる。さすがの御前も倒れ、清親の家臣に捕縛された。城資盛も幕軍のために敗れた。こうして建仁の乱は幕を閉じる。

捕虜となった板額御前のその後

御前は捕虜になり、鎌倉に連行された。それが1201年6月28日のことである。御前の矢傷は癒えておらず、介助されながら、鎌倉にやって来た。二代将軍の頼家は好奇心もあったのだろう、御前を見たいと言い出したので、藤沢清親が御前を連れて御所に参上。御簾のなかから、頼家は御前を見たという。畠山重忠・小山朝政・和田義盛・比企能員・三浦義村ら御家人らも多数集まり、まるで市場のような賑わいを見せた。御前は、座の中央を通り、御簾の前に進み出る。少しも卑屈なところはなく、堂々とした態度だったと言われる。それは、参集した御家人たちにも、引けをとらない勇姿だった。その翌日、浅利与一義遠という武将が、頼家に対し、次のように申し出る。「越後の捕虜を貰い受けたい」と。

頼家が「板額御前は、豪傑。それを欲しいとは、余程の理由があるのだろう」と聞くと「御前を妻とし、大力の子を産ませ、朝廷を護り、幕府を助けたいと考えております」との返事が。頼家は「板額御前は、容貌は美しいが、心は武者同然。誰が優しく愛することができようか。義遠の考えていることは、普通の人が好むことではない」と笑うと、御前を義遠に嫁がせる事に同意したという。義遠は、御前とともに甲斐に帰ったと言われる。山梨県では、御前の墓と伝わる塚があるので、御前は同地で亡くなったのだろう。御前が甲斐で幸せな後半生を過ごした事を願いたい。

板額御前の結婚後の役割やその後に関しては、こちらの記事を読んでみてください↓↓

鎌倉時代の女武者・板額御前は巴のモデル?元祖バトルヒロインの生涯を紹介

主要参考文献

古谷知新 校訂『源平盛衰記』(国民文庫刊行会、1910)
杉本圭三郎『全訳注 平家物語』(講談社、1988)
鈴木彰ほか編集『木曾義仲のすべて』 (新人物往来社、2008)
濱中修「巴の神話学―『源平盛衰記』を中心に」『国士舘人文学』(国士舘大学文学部人文学会、2011)
濱田浩一郎『平家物語とその時代』(ベストブック、2022)
濱田浩一郎『北条義時』(星海社新書、2021)

▼参考文献はこちら
「諸行無常」がよく分かる 平家物語とその時代 (ベストセレクト)

書いた人

兵庫県相生市出身。歴史学者、作家。姫路日ノ本短期大学・姫路獨協大学講師を歴任。大阪観光大学観光学研究所客員研究員。著書に『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『超口語訳 方丈記』(東京書籍のち彩図社文庫)、『昔とはここまで違う!歴史教科書の新常識』(彩図社)、『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社新書)ほか。

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大学で源氏物語を専攻していた。が、この話をしても「へーそうなんだ」以上の会話が生まれたことはないので、わざわざ誰かに話すことはない。学生時代は茶道や華道、歌舞伎などの日本文化を楽しんでいたものの、子育てに追われる今残ったのは小さな茶箱のみ。旅行によく出かけ、好きな場所は海辺のリゾート地。