日本文化の入り口マガジン和樂web
7月5日(火)
もし船を造りたいのなら、木を集めるために人を呼び込んだり作業や仕事を割り当てたりするのではなく、限りない海の広大さに憧れを抱くように彼らを教えなさい。(サン=テグジュペリ)
日本文化の入り口マガジン 和樂web
日本文化の入り口マガジン 和樂web
7月5日(火)

もし船を造りたいのなら、木を集めるために人を呼び込んだり作業や仕事を割り当てたりするのではなく、限りない海の広大さに憧れを抱くように彼らを教えなさい。(サン=テグジュペリ)

読み物
Culture
2022.06.14

「おしべ」「めしべ」の名付け親!日本の植物学の基礎を作った伊藤圭介の生涯

この記事を書いた人
この記事に合いの手する人

この記事に合いの手する人

2023年朝の連続テレビ小説は『らんまん』。主人公は「日本植物学の父」と言われた、牧野富太郎(まきのとみたろう、1862~1957年)がモデルです。しかし彼の前に、日本の植物学の基礎を築いた人物がいました。それが今回紹介する、医師であり植物学者の伊藤圭介(いとうけいすけ、1803~1901年)です。

幕末~明治の人ですね!

医学と本草学を学び、父や兄と同じ医師に

1803(享和3)年、尾張国名古屋(現、愛知県名古屋市)に医師の次男として生まれた伊藤圭介。1810(文化7)年、8歳で父から医学を学びます。
この頃尾張国では本草学(ほんぞうがく)という、主に動物・植物・鉱物を研究して、その薬用について研究する学問が盛んでした。ちなみに、本草とは薬の元となる草のこと。圭介は本草学を父や兄・大河内存真(おおこうちぞんしん)さらに、彼らの師に相当する本草学者の水谷豊文(みずたにほうぶん)から、学びます。

1820(文政3)年、圭介は18歳で尾張藩の許しを得て医業を開始。
父から学んだ医学は「漢方」で、中国からの医学を日本の風土・気候に合わせて発展させたものでした。
江戸時代中期、「蘭学(洋学)」として、オランダを通じて西洋の文化や学問、技術が入ってきました。その影響で圭介は西洋式の医学も含め、蘭学を学びました。とはいえ、「漢方」で得た知識も自身の医学に活用していました。

中国と西洋の医学をあわせて考える方法、最近でもとられていると聞きます!

医師として働く一方、豊文に従って植物採集を続けていました。
そんなときに、転機が訪れます。

ドイツ人医師シーボルトとの運命的な出会い

ドイツ人医師、シーボルトの来日

1823(文政6)年、ドイツ人医師シーボルトが来日。彼の任務は長崎出島のオランダ商館員の、健康管理にあたること。また、博物学者でもあったため、日本の風土や自然の調査も行いました。
オランダ商館長は、定期的に将軍に謁見して、西洋の物産品を献上する江戸参府を行っていました。1826(文政9)年、シーボルトはこの使節団に同行。当時、外国人が日本の国を自由に旅行することはできなかったので、日本のことを調べる絶好の機会でした。

シーボルトとの出会い、長崎遊学へ

1826(文政9)年3月、シーボルトは長崎から江戸へ行く途中、名古屋の熱田宿に立ち寄ります。そこで、圭介は豊文や存真と共にシーボルトに出会う機会に恵まれ、医学と博物学について学びました。庶民が使節団に面会するのは難しいこと。本草学の大家であった豊文が、相当な準備をしての対面だと言われています。
このときシーボルトは圭介の医学や植物の知識だけでなく、オランダ語ができることを高く評価。
そして同年5月、シーボルトが江戸から長崎へ帰る途中再び圭介に出会い、長崎遊学を勧めました。外国との交流があるのは出島だけなので、海外留学に匹敵するもの。圭介にとっては、願ってもいない好機でした。
圭介は、長崎でシーボルトの下で植物学を学びます。と言っても師弟関係というよりは、共に研究するという感じ。圭介が、シーボルトが学名を付けた植物を和名にしたり、シーボルトは圭介が伝えた植物の和名をカタカナ表記に変換したりしました。シーボルトは「余は圭介の師であるとともに、圭介氏は余の師である」という言葉を残しています。

お互いがお互いの先生、とてもいい関係ですね!

1828(文政11)年、父の病気のため名古屋に戻ることになった圭介。シーボルトは餞別として『Flora Japonica(日本植物誌)』(※1)を送ります。

※1 スウェーデンの医師・生物学者ツゥンベリーが日本滞在中に採集した植物についてまとめたもの。1784年出版。彼の師匠が動植物の「分類学の父」と呼ばれるリンネ。現在も使われている「綱」「目」「科」「属」「種」は、リンネ式階層分類体系と呼ばれている。

伊藤圭介がシーボルトより譲り受けた、携帯式顕微鏡(名古屋市東山動植物園所蔵)

シーボルトの想いを継いで発刊~『泰西本草名疏(たいせいほんぞうめいそ)』

名古屋に戻った圭介は、医師として働きながら『Flora Japonica』の研究と翻訳を目指します。
圭介はこの本を、宝物のように肌身離さず持ち歩きました。また、発刊のために土蔵や畑を売り、費用を捻出しました。圭介の強い決意を感じます。

自分の大切な財産を売ってまで!

そして、1829(文政12)年、27歳のとき『泰西本草名疏』(たいせいほんぞうめいそ)を出版します。シーボルトが校正を担当(※2)。

ヤマザキマザック美術館学芸員坂上しのぶさんによると、

日本に生えている植物の「日本語の名前」と「学名(ラテン語)」を一覧表にした、日本の植物の和英英和辞典のようなもの。日本の植物の名前が世界共通の言語に置き換えられたことで、双方でコミュニケーションが取れるようになったのです。
この中で圭介は、「おしべ」「めしべ」「花粉」などの造語を作りました。日本人は、動物にはオスとメスがいて、交配して子どもができることは知っていたけれど、植物がなぜ生まれてくるのかは知りませんでした。「植物にもオス(おしべ)とメス(めしべ)の部分があって、花粉を媒介して広がっていく」ことを、日本ではじめて紹介したのです。

なんと! 私たちが学校で習う「おしべ」「めしべ」「花粉」の言葉を作った人!

※2 圭介が長崎を去ったのち、シーボルトは日本国外持ち出し禁止の地図などを所持していたことが発覚(シーボルト事件)。国外追放になり、本書に名前を記すことができなかった。

『泰西本草名疏』上が上巻、下が附録 「泰西」は「西洋」を意味する。 (名古屋市東山動植物園所蔵)

幕末期の伊藤圭介の活躍

飢饉でも食べられる野生植物を紹介

1835(天保6)~1837(天保8)年にかけて、天保の大飢饉が起こりました。さらに1837年2月には大坂で大塩平八郎の乱がおこり、各地で打ちこわしが多発。圭介は、苦しむ人々の姿を見て、1837(天保8)年『救荒植物便覧』(きゅうこうしょくぶつびんらん)を発刊。飢饉などで食糧が不足したときに、食べられる野生植物の特徴などをリスト化しました。医師として、1人でも多くの生命を救うには、治療以外に、有益な情報を提供する方法もあると考えたのかもしれません。

伝染病予防に努める

現在は根絶しましたが、大昔から天然痘(てんねんとう)という、非常に感染力の強い死に至る伝染病がありました。1796年イギリスの医師ジェンナーがこれを予防・軽減する種痘(しゅとう)を発見。それから40年以上が経った1841(天保12)年、圭介は『英吉利国種痘奇書』(イギリスこくしゅとうきしょ)を著し、種痘の普及に力を入れました。
1850(嘉永3)年、自宅に種痘所を設け、毎月8の日に施術を実施。さらに1852(嘉永5)年には、尾張藩種痘所が設置され兄存真と共に取締役を命じられました。
種痘を広めるために、まずは自分の子どもに接種をしたり、接種を無料にしただけでなく、子どもたちに小遣いを渡したりするなど、工夫をこらしました。
圭介の他にも種痘を行った医師がおり、各地で接種が進みました。その影響を受けて1858(安政5)年江戸に種痘所(※3)が設立。圭介の行動力に驚かされます。

古くから人々を苦しませてきた天然痘、ジェンナーの発見した牛痘接種法が日本で初めて行われたのは文政7(1824)年、ここから多くの人々の努力が重ねられ、1980年には全世界でようやく天然痘根絶宣言が出されました。

また、1863(文久3)年には、コレラの心得書『暴瀉病手当素人心得書』(コレラてあてしろうとこころえしょ)を著しました。これは、ドイツの家庭用医学書のコレラの部分を訳したもの。圭介は、1844(弘化元)年にコレラ類似症に罹り、一時危篤となったことが。また1853(嘉永6)年、黒船来航によりコレラが蔓延した際は、緊急処置の方法を、わかりやすく人々に知らせました。
自らの経験を元に、世の中に貢献しようとする姿勢が見えます。

※3 後に西洋医学所と改称し、東京大学医学部の前身となる。

江戸勤務でシーボルトに再会

医学を始め蘭学への造詣が深い圭介。1847(弘化4)年、尾張藩から御用人医師に命じられました。これにより、町医者から藩医になりました。1861(文久元)年、幕府の洋学研究機関である蕃書調所(ばんしょしらべしょ)の出役を命じられ江戸に。自身や妻の病気などで、2年足らずで帰郷しますが、そのときうれしい出来事が。国外追放を解かれて、再来日していたシーボルトと横浜で再会したのです。圭介59歳のときでした。ほどなくしてシーボルトは日本を離れ、1866(慶應2)年に亡くなるので、奇跡と言えるかもしれません。

人との出会いは本当に一期一会。もし会えたらいろいろ話をしてみたかったな、と思うことがこの頃何度もあります。

明治時代の伊藤圭介の活躍

名古屋大学医学部の基礎を作る

1870(明治3)年8月、圭介は他の医師たちと、西洋医学講習所開設を尾張藩に請願。翌1871(明治4)年に廃藩置県が起こり、実現はしませんでしたが、これが現在の名古屋大学医学部・同附属病院へとつながります。

植物学者としての後半生

1870(明治3)年10月、圭介は明治新政府の命を受け、植物学の研究にあたります。70代になり医業とは徐々に距離を置き、植物学に力を入れていきます。
こののち、植物学者として文部省教授や東京大学理学部客員教授に任じられました。東京大学では、小石川植物園(※4)で研究を行いました。

小石川植物園、現在では都会のオアシスになっていますね!

※4 日本で最も古い植物園。徳川幕府の「小石川御薬園」が前身。1877(明治10)年、東京大学創立時に附属植物園となった。

日本最初の理学博士に

1881(明治14)年には東京大学教授に、そして1888(明治21)年、86歳で日本最初の理学博士の称号を受けます。

さらに1893年(明治26)から1897年(明治30)と圭介90歳前半にかけて、今までの植物学の集大成というべき『錦窠植物図説』(きんかしょくぶつずせつ)をまとめました(出版はされていない)。
圭介は99歳で亡くなったので、まさに「生涯現役」「人生100年」です。

90歳を過ぎても精力的な活動を続けた生涯、私もそんな風になりたい!

『錦窠植物図説』(名古屋市東山動植物園所蔵)
「錦窠」は伊藤圭介の号。「錦」はさまざまな色糸で織られた美しい模様の織物で、「窠」は鳥や蜂などの巣を意味する感じを組み合わせた造語。門外不出の秘本とされている。

ヤマザキマザック美術館に伺う、伊藤圭介の功績と素顔

伊藤圭介の出身地、愛知県名古屋市にあるヤマザキマザック美術館。こちらで2021(令和3)年、特別展「名古屋城からはじまる植物物語」が開催され、圭介の関連資料も多く展示されました。
学芸員の坂上しのぶさんに、伊藤圭介の功績や魅力について伺いました。

―― 『泰西本草名疏』を出版した功績について教えてください。

坂上さん:現代の小学生が理科で習う、「おしべ」「めしべ」「花粉」。植物にも動物と同じような生殖の仕組みがあることを、専門家だけでなく、小学生にもわかるように図解で伝える本を書いたことは、大きな功績だと思います。

―― 「植物物語」展をご覧になった方から、「伊藤圭介についてもっと知りたい」、「なぜ広く知られていないのだろう」という、ご意見があったそうですが。

坂上さん:伊藤圭介の名前が広く知られていないのは、1つ目の理由は「何かの発明者」ではないからだと思います。電気を発明したエジソンのような存在ではなく、電気という存在をわかりやすく人々に説明する、二次的な役割を多く担った人物だからではないでしょうか。2つ目は、圭介が「総合大学」のような人だからだと思います。植物学は牧野富太郎、博物館学は田中芳男、ラテン語は、蘭学は……と各分野のエキスパートであれば名前は残ります。本草学は総合的な学問だったために、功績を説明しづらい=知らない人が多い、となるのではないでしょうか。

また、圭介は資料コレクターというか、資料オタクでした。植物だけでなく、虫、植物、鉱物なども収集。それも北海道や伊豆など、当時で言う「僻地」のものにも関心を向けていました。国立国会図書館が所蔵する江戸時代の書物のうち、重要なものの多くを伊藤文書が占めています。圭介が集めた書物がなければ、私たちが知る江戸時代の博物学は、もっと魅力が乏しいものになっていたかもしれません。

ちなみに、名古屋大学学長を務めた故・勝沼精蔵教授は、若くして名古屋に赴任する際「名古屋において偉大な人物は、文においては伊藤圭介、武においては豊臣秀吉」と教えられ、記念碑や胸像を建てるなど、顕彰に努めました。

―― 長寿の源は食生活にもあったそうですね。

坂上さん:数え年で99歳まで生きたと言われていますが、実は105歳まで生きたという伝説もあります。長寿の源は、食生活にもありました。
96歳までは1年間毎日うな丼を食べていましたが、高齢者には強すぎるので、鯛の刺身に切り替えて、毎日食べていました。

三度の飯は朝顔の形の茶碗に3杯。間食も好きで、夜食にはうどん。ひとりで寂しさを感じる時は夜となく昼となく、浅草ノリや雷焼きが入った缶を開けてはバリバリ(笑)。

96歳まで1年間1日1うな丼、うーん、羨ましい! それに三度のごはんに加えて、間食、夜食まで!? 食べるって本当に大切なんだなあ。

ヤマザキマザック美術館 特別展「名古屋城からはじまる植物物語」の展示風景(ヤマザキマザック美術館提供)
学名に圭介の名前が付けられた植物は多数。一部をボタニカルアートとして紹介。外見だけでなく、植物のつくりを説明するような解剖図や部分図も描かれている。

―― 最後に。ヤマザキマザック美術館の見どころを教えてください。

坂上さん:ヤマザキマザック美術館は、18世紀ロココから20世紀美術までフランスの絵画や工芸品を多数所蔵。フランス絵画300年の流れを一望する5階と、19世紀末にフランスで花開いたアール・ヌーヴォーの家具やガラスをならべた4階、ふたつのフロアーで多角的に美術を体験できるのが特徴。それぞれの時代の雰囲気を楽しめる内装もみどころのひとつです。

年2回開催される企画展は、展示室それぞれの時代背景や雰囲気を活かして、ジャポニスムや自然主義などをテーマに、ファッション、工芸、現代美術、と幅広いジャンルの展覧会を楽しめます。

坂上さん、ありがとうございました。

おわりに

1901(明治34)年、99歳で亡くなった圭介。現在の私たちから見ても、「長寿」です。
圭介の業績は、後の研究者が受け継いで発展させました。牧野富太郎は、圭介を「本草学の大家として……大海の中に毅然として立った島」と高く評価しました。
医学・植物学を始めとする、日本近代科学の発展に貢献した圭介。その知的好奇心が、長生きの秘訣だったのかもしれませんね。

※アイキャッチ画像 伊藤圭介72歳の姿 (名古屋市東山動植物園所蔵)

<協力>
ヤマザキマザック美術館 学芸員坂上しのぶさん
名古屋市東山動植物園

<参考文献>
・土井康弘『日本初の理学博士 伊藤圭介の研究』(皓星社、2005年)

・日本経済新聞夕刊「『日本近代植物学の祖』に光 『おしべ』『花粉』の用語作った伊藤圭介」(2021年6月5日付)

・名古屋大学附属図書館 江戸から明治の自然科学を拓いた人 伊藤圭介没後100年記念シンポジウム 平成13(2001)年

▼おすすめ書籍はこちら
シーボルト 日本植物誌 (ちくま学芸文庫)

書いた人

大学で日本史を専攻し、自治体史編纂の仕事に関わる。博物館や美術館巡りが好きな歴史オタク。最近の趣味は、フルコンタクトの意味も知らずに入会した極真空手。面白さにハマり、青あざを作りながら黒帯を目指す。もう一つの顔は、サウナが苦手でホットヨガができない「流行り」に乗れないヨガ講師。

この記事に合いの手する人

人生の総ては必然と信じる不動明王ファン。経歴に節操がなさすぎて不思議がられることがよくあるが、一期は夢よ、ただ狂へ。熱しやすく冷めにくく、息切れするよ、と周囲が呆れるような劫火の情熱を平気で10年単位で保てる高性能魔法瓶。日本刀剣は永遠の恋人。愛ハムスターに日々齧られるのが本業。