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2022.08.06

メイド・イン・ジャパンのバイクを「世界レベル」にした伝説のレーサー・高橋国光の偉業を振り返る

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今年3月、元レーシングドライバーの高橋国光が亡くなった。享年82。

この記事では、彼のことを「国さん」という愛称で統一したい。

国さんは、数々の国際的レースで活躍した四輪レーサーである。が、20代の頃は二輪レーサーとして数々の実績を残した。今回は国さんの前半生、特に1961年の西ドイツGPでの活躍にスポットを当ててみよう。

この1961年は、日本の二輪車業界を永遠に変えてしまう転換点でもあったのだ。

ホンダの原点

我々現代人が知っているホンダというメーカーの歴史は、小型二輪車を製造することから始まった。

本田宗一郎は、終戦直後の大衆が何を求めているかをよく知っていた。それは「個人で所有できるモーター付きの乗り物」である。この時代、建設作業員や運輸業者の関係者がトラックや三輪自動車を運転することはあったが、一個人が私的な目的で車やバイクを乗り回すということはあまりなかった。あるとすれば、その人物は間違いなく金持ちである。

宗一郎は、まず既存の自転車にモーターを外付けすることを考えた。従って最初期のホンダは「バイクのメーカー」ではなく「モーターのメーカー」だったのだ。しかし旧陸軍の放出品だったモーターの在庫がなくなると、次は自分たちでそれを設計製造する必要に迫られる。せっかくだから、以前より強力なモーターにしたい。が、あまり性能を上げすぎると今度は自転車のフレームがそれに追いつかなくなる。ならば、フレームも自分たちで作ってしまおう。そのようにして、より排気量の大きいマシンを段階的に開発していったホンダ。そんな二輪メーカーは、50年代中頃に入ると積極的にレースに挑戦するようになった。

「世界一の二輪車レース」として知られるマン島TTレースに出場する。それにはまず国内のレースで勝たなければならない。そして「レースに出場する」ということは、メーカーの技術レベルを自ずと向上させるということでもある。

意気揚々と出場した浅間火山レースでは宗一郎の思う結果にありつけなかったものの、これはホンダ車をレーシングスペックのマシンにする大きなきっかけにもなった。このレースからホンダは、世界的二輪車企業へと踏み出していくのだ。

「浅間山の新星」が世界を制する!

浅間山周辺は、1959年まで日本の二輪レースの中心地だった。そしてここから、戦後日本を象徴する天才レーサーが続々と輩出されていく。

1958年8月に開催された第1回全日本モーターサイクルクラブマンレース大会において、当時18歳の高橋国光というライダーが注目された。彼は350ccクラスをBSA350に乗って見事優勝した。これがその後続く「国さん伝説」の幕開けである。

翌年の第2回全日本クラブマンレース、そして併催の第3回全日本オートバイ耐久ロードレースでも優れた成績を残した国さんは、ホンダにスカウトされてワークスレーサーになった。そして早々に結末を先に書いてしまえば、国さんは1961年5月14日のロードレース世界選手権・西ドイツGPにて、平均時速の大会新記録を叩き出して優勝したのだ。

この時の国さんは、若干21歳である。なお、ホンダが念願だったマン島TTレース優勝を実現したのはその1ヶ月後のこと(ただし、マン島の優勝ライダーは国さんではない)。

高橋国光という「奇跡」

ここで、国さん以前の日本人ライダーと、彼らが置かれていた環境について解説したい。

1961年まで世界に通用する日本人ライダーがいなかったのかというと、それは違う。1930年のマン島TTレースでは、当時41歳の多田健蔵という人物が出場して何と15位入賞を果たした。

多田が乗っていたベロセットKTTというマシンは、現代では常識のハンドクラッチ及びフットシフトを確立した記念碑的製品でもあった。世界最先端の機構を備えるマシンに跨り、危険なマウンテンコースを完走した多田は世界を驚かせた。

しかし、それから30年後の日本人ライダーは多田よりも不利な環境に置かれていた。

まず、この30年の間に日本は敗戦を経験している。ただ負けただけではなく、国内の主要都市がB29の空襲によりほぼ焼け野原になったのだ。

そして敗戦から20年以上の間、日本には本格的なモータースポーツ競技ができるほどのサーキットが存在しなかった。

先述の浅間山でのレースは「浅間高原自動車テストコース」というところで開催されたが、これは火山灰土壌と砂利道で構成された未舗装路。我々現代人が想像する「サーキット」ではまったくない。戦前には多摩川スピードウェイというアジア初の常設サーキットも存在したが、それもいつの間にか野球場になってしまった。従って終戦間もない時期の日本国内に存在する「サーキット」といえば、米軍基地くらいしかなかったのだ。

ちなみに、日本人の海外旅行自由化は1964年4月1日からの話である。「日本にはサーキットがないからヨーロッパで腕を磨こう」ということすらできなかった。

海外旅行自由化の3年前に国さんが西ドイツGPで優勝した出来事は「偉業」という他なく、極めて不利な環境でレーシングテクニックを身に着けた高橋国光という存在自体が「奇跡」だったのだ。

マスコミは「偉業」に気がつかなかった

国さんの西ドイツGP優勝は、日本の産業界にとってどれほどの影響を及ぼすものだったのか。当時の日本のマスメディアは、それを正確に感じ取ってはいなかった。

ここで筆者は、図書館に足を運んで当時の新聞を調べてみた。

まずは朝日新聞から。5月16日付の朝刊に、西ドイツGPの話題が掲載されていた。記事タイトルは「ホンダ号で高橋優勝 国際オートバイ競争」である。

【ホッケンハイム(西独)十四日発=AP】ドイツ“グラン・プリ”オートバイ・レースは十四日ホッケンハイムで行われ、二五〇cc級レースで日本のホンダ二五〇cc(四衝程)に乗った高橋国光選手が49分43秒6(平均時速186.41キロ=大会新)の記録で優勝した。日本選手が日本製のオートバイで欧州のグラン・プリ・レースで優勝したのはこれがはじめて。また一二五ccレースでもホンダに乗った高橋選手は六位となった。

(朝日新聞 1961年5月16日朝刊)

以上が記事全文だ。聡明な読者諸兄諸姉はお気づきかもしれないが、これはスポーツ面の下部に小さく記載された「ベタ記事」である。

当時の一般全国紙のスポーツ面で大きく取り上げられたのは、大相撲とプロ野球。特にこの日は大相撲5月場所の真っ只中だった。全盛期を過ぎた初代若乃花の去就がにわかに注目され、それと入れ替わるように頭角を現した大鵬と柏戸が茶の間を賑わせた。この時代のモータースポーツとは、マイナー競技に過ぎなかったのだ。鈴鹿サーキットの完成は翌62年9月である。

宗一郎の出身地静岡県の地方紙静岡新聞も、ホッケンハイムの偉業をベタ記事にしたのみだ。その内容は朝日新聞のそれと殆ど変わらないので割愛させていただくが(こちらもAP通信から配信された記事)、この時点で国さんの西ドイツGP優勝が「日本の産業の在り方」を決定づけるものだということに新聞記者は気づいていなかった。

宗一郎は「カミナリ族の大親分」

日本人の乗った日本製のバイクが国際レースで優勝する。

1961年当時、欧米にも少しずつ日本メーカーの製品が流通するようになったとはいえ、現地の一般市民のイメージは「日本=敗戦国」である。敗戦国の工業製品が、戦勝国の製品より良いものであるはずがない。この時代のメイド・イン・ジャパンは「二級品」だったのだ。

国さんの優勝は、そんな時代背景の中での出来事である。

そしてこの快挙は、宗一郎とホンダの社員に盤石の自信を与えた。

宗一郎が執筆した『俺の考え』(新潮社)という本がある。この書籍の初出は1963年、原稿執筆は1962年中である。国さんの快挙、そしてマン島TTレース初優勝から僅か1年後の宗一郎の心情が記述されている。

よく私のことを世の中の人は「カミナリ族の大親分」「アプレ経営本田」というアダ名で呼んでいる。私には両方とも非常に歓迎する言葉である。(中略)それはなぜかというと、カミナリといわれるような性能のオートバイをつくったということが、要するに現在の輸出を支えている、こう私は自負しているからだ。

(本田宗一郎『俺の考え』新潮社)

当時、バイクで公道を暴走する若者は「カミナリ族」と呼ばれていた。そしてカミナリ族の出没の責任を、ホンダを始めとする二輪メーカーにマスコミ関係者が求めたのは事実である。

が、当の宗一郎はそれに反発するどころか、胸を張っていた様子さえ見受けられる。

ここから日本の二輪メーカーは大手四社に絞られていくが、同時にその四社が世界中のサーキットで活躍するようになる。そして二輪車自体が日本を代表する輸出製品として、巨額の外貨を稼ぎ出したのだ。

ありがとう国さん!!

その後の国さんは勝利数を重ねるも、1962年のマン島TTレースで悲劇に見舞われる。

決勝レースで転倒し、一時意識不明の重体に陥るほどの怪我を負ってしまったのだ。以降は二輪レーサーとしては影を潜めたものの、四輪レーサーに転向して数々の輝かしい成績を挙げる。美しくも豪快なドリフト走行を確立させ、日本国内のみならず海外の選手にも絶大な影響を与えた。国さんの活躍がなければ、日本製自動車の世界的流通はもっと遅れていたに違いない。二輪・四輪問わずクルマというものは、性能や品質を証明するための「伝説」を要求されるからだ。

命がけのサーキットで数々の「伝説」を生み出してくれた偉人に、我々は最大級の感謝を示さなければならない。

【参考】
本田宗一郎『俺の考え』新潮社
中部博『定本本田宗一郎伝: 飽くなき挑戦大いなる勇気』三樹書房
朝日新聞 1961年5月16日朝刊
静岡新聞 1961年5月16日朝刊
『私の履歴書』日本経済新聞社

書いた人

ノンフィクションライター、グラップリング選手、刀剣評論家。各メディアでテクノロジー、ガジェット、ライフハック、ナイフ評論、スタートアップビジネス等の記事を手がける。