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2022.08.30

落語って何?いつから始まったの?世界に誇る伝統芸能を3分で解説

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落語とは、日本の大衆芸能の一つで、おもしろおかしい話で聴衆を笑わせ、終わりに「落ち」(サゲと言います)をつける話芸です。

落語家は、扇子と手ぬぐいだけを小道具にして、会話と動作のみで話を展開していきます。言葉だけで観客を物語世界へいざなうという、非常に高度な技術・話術が必要で、落語家として一人前になる(江戸落語では「真打ち」と呼ばれます)には、師匠について長い年月をかけて下積みや修業を重ねる必要があります。

落語は日本が世界に誇る伝統芸能といわれますが、どのようにして生まれたのでしょうか。寝る前には必ず落語を聞いて眠るほど落語好きな和樂webスタッフが、3分で解説します。

私も、落語が大好きです♡落ち込んだ時とか、元気もらえます!

江戸時代後期の寄席の様子。一恵齋芳幾画『春色三題噺』 より(東京都立中央図書館デジタルコレクション)

落語の起源は戦国時代の「眠気覚まし」か

もともと落語は、「落とし咄(ばなし)」などとも呼ばれ、「落語(らくご)」と呼ばれるようになったのは1887(明治20)年ごろからとされます。

(「はなし」は「噺」「咄」などとも書きますが、ここでは基本的に常用漢字に従って表記します)

その起源には諸説ありますが、近世文学と落語の研究家だった興津要・早稲田大学名誉教授によれば、安土桃山時代(16世紀末)、武将の側近として彼らの話し相手でもあった「御伽衆(おとぎしゅう)」の夜話が起源だと考えられるそうです。

豊臣秀吉の御伽衆の一人であった織田有楽斎。栗原信充画『肖像集』より(国立国会図書館デジタルコレクション)

御伽衆は、普段は武将の政治や軍事の相談相手役で、武芸や趣味の指南役を担っていました。彼らは戦の際にも帯同し、特に話のうまい人物が味方の兵に向かって夜通しさまざまな話を語りました。将兵らは敵の夜襲に備えるために夜通し起きている必要があり、彼らの眠気を覚ますために御伽衆は士気を高める武勇伝や武功話を語って聞かせていました。

それでもやはり眠気は迫ってくるもの。そこで、御伽衆の中には思わず笑ってしまう「オチ」をつける工夫をする人が出てきます。この笑い話が、落語の起源だと考えられています。

オチの誕生は、眠気覚ましだったとは!芸人の深夜ラジオ聞く受験生とリンクする~。

こうした御伽衆の笑い話は数十年後、江戸時代に入って、京都の僧侶・安楽案策伝(あんらくあんさくでん)によって『醒睡笑(せいすいしょう)』という書物にまとめられました。本のタイトルからも、これらの落とし話が眠気を覚ますためのものだったことが分かります。この書物は現在も読むことができ、中には現在の落語で人気の演目の原形と考えられる話も含まれています。

ちなみに策伝は、豊臣秀吉の御伽衆の一人であったと伝わります。

『醒睡笑』第1巻(国立国会図書館デジタルコレクション)

江戸初期に生まれた「プロの落語家」

一方、京都の貴族たちにも御伽衆的存在がおり、作者は不明ですが彼らの間で『昨日は今日の物語』(1615年頃、元和年間刊)という滑稽話を集めた書物が人気を博します。

こうして戦国の世が終わった後も、笑い話はさまざまな場所で広がりを見せ、江戸中期頃になると「プロの落語家的存在」が生まれます。

京都の「露の五郎兵衛(つゆのごろべえ)」、大坂の「米沢彦八」、江戸の「鹿野武左衛門(しかのぶざえもん)」といった人物がそれで、露の五郎兵衛は屋外で通りすがりの人を集めて話を聞かせるスタイル、鹿野武左衛門は主に武家屋敷などに呼ばれてお座敷で語るスタイルで、それぞれ人気を博します。この時代にすでに不特定多数の客を相手に料金を徴収して興行を行っていたようで、彼らは「落語家の祖」と言われます。

上方は大道芸から始まったので、人の気を引く滑稽噺が多いですね。一方江戸落語は、お座敷芸として発展したので、しっとりした人情噺が多い気がします。

露休著『かへり花』(1712年刊)より。画面左に座っているのが露の五郎兵衛(国立国会図書館デジタルコレクション)

たとえば露の五郎兵衛のスタイルは「辻咄(つじばなし)」と呼ばれ、「街の盛場や祭礼の場によしず張りの小屋をもうけ、演者は広床几(ひろしようぎ)の上の机の前で口演し、聴衆は床几に腰をかけて聴くという形式をとり、晴天に興行して道ゆく人の足をとめ、咄が佳境にはいったころを見はからって,銭を集めて回るという庶民的演芸だった」(興津要。日本大百科全書より)ようです。

客が増える=寄席の誕生

さらに時代が下り、寛政年間(1790年〜)に入ると落とし話の人気に伴って「寄席(よせ)」が生まれ、庶民の娯楽の場として急速に広がります。

江戸時代後期の寄席の様子。一恵齋芳幾画『春色三題噺』 より(東京都立中央図書館デジタルコレクション)

寄席とは、落語をはじめとして、講談や浪曲などの技芸(演芸)を観客に見せる興行小屋のこと。江戸では、山生亭花楽(さんしょうていからく。後の初代三笑亭可楽)が東上野にある下谷稲荷社(現在の下谷神社)で木戸銭(入場料のこと)を取って落とし話を聞かせた記録があり、これが「寄席」の発祥だとされています。現在、下谷神社には「寄席発祥の地」の碑が立っています。

下谷神社に立つ「寄席発祥の碑」。今でも上野には「鈴本演芸場」という寄席があっておすすめです。(同神社の許可を得て撮影)

初代三笑亭可楽は、観客からお題を三つ出してもらい、それをもとに即興で話をつくる「三題噺」という試みを始め、これによって人気を博します。その後、老中水野忠邦の「天保の改革」によって寄席は一時下火になるものの、水野の失脚後に息を吹き返し、話の内容もホロリと泣かせる人情話や怪談話、鳴り物を取り入れた音曲話、芝居話など、さまざまなバリエーションが生まれ、それぞれを得意とする落語家も多数生まれていきます。

下谷神社にある正岡子規の句碑「寄席はねて 上野の鐘の 夜長哉」

一方同じ頃、大坂では初代桂文治が寄席興行を開催します。桂文治は「上方落語中興の祖」とされますが、この時代の江戸での人気に比べると、「上方の劣勢はおおうべくもなかった」(前掲日本大百科全書より)と言われます。

一恵齋芳幾画『春色三題噺』 より。スベったのか?というくらい落語家の覇気がないのが気になるところ(東京都立中央図書館デジタルコレクション)

落語を「芸術」に高めた天才

時代は明治に入り、大衆の娯楽であった落語を、さらに一段高い「芸能」いわば「芸術」へと導いた人物が登場します。それが、三遊亭圓朝(さんゆうていえんちょう)。

晩年の三遊亭圓朝。『圓朝全集』より(国立国会図書館デジタルコレクション)

1869(明治2)年、明治政府は「演劇類似興行禁止令」を出します。風俗を乱さないように、鳴り物や伴奏を入れた華やかな演目を禁止し、芝居がかった演出を禁じました。

そこで圓朝は、扇子一本だけを使った「素噺(すばなし)」に特化し、その話術を極めていきます。舌一枚で人の心の機微を描き出す——。特に人情話を得意とした圓朝は、現在でも名作と呼ばれる演目を「三題噺」などから数多く生み出します。

圓朝作とされる『鰍沢(かじかざわ)』『文七元結(ぶんしちもっとい)』『芝浜』『死神』といった演目は、今なお観客の心を揺さぶる——そして笑える——不動の人気を誇っています。落語を話芸の頂点とも言える存在へと高めたのは、まぎれもなくこの圓朝でした。

屈指の人情噺『芝浜』、シュールな魅力の『死神』。漫画『落語心中』でも、登場人物が演じていました。

また、当時日本の文壇では、書き言葉と話し言葉を一致させようとする「言文一致運動」が展開されていました。その先頭に立っていた作家・二葉亭四迷は、この圓朝の落語を彼が話したままに書き留めることからその運動を展開させていきました。圓朝の落語は、日本の近代文学黎明期にも多大な影響を与えたのです。

若かりし頃の三遊亭圓朝。『圓朝全集』より(国立国会図書館デジタルコレクション)

いまも人気が高まり続ける

その後大正・昭和期に入り、落語は活動写真(後の映画)などの流行、さらに後には漫才ブームなどの影響で下火となります。

特に上方落語は大正から昭和にかけて衰退の一途をたどりました。演じる人がおらず消滅の危機にあった上方落語界で、数少なくなった古老の落語家から演目を聞き取り、多くの話を守り伝えるとともに自ら上方落語ブームの火付け役となったのが、三代目桂米朝でした。彼はその熟達した話芸と功績から、落語界で二人目となる(一人目は五代目柳家小さん)国の重要無形文化財、いわゆる「人間国宝」に認定されます。

桂米朝は、落語研究家の顔もあり、著書も多いです。

一方、東京では第2次世界大戦からの復興期に名人と呼ばれる人物が相次いで誕生します。
五代目古今亭志ん生、六代目三遊亭圓生(えんしょう)、八代目桂文楽は「三名人」と呼ばれ、黄金期を築きます。

また、そうした師匠たちの次なる世代として当時の若手落語家たちの中から頭角を現したのが、三代目古今亭志ん朝、七代目(五代目とも)立川談志、五代目三遊亭円楽、五代目春風亭柳朝でした。四人は「東京落語四天王」と呼ばれ、絶大な人気を博します。

古典落語の名手と言われた、三代目古今亭志ん朝の早すぎる死は、残念でした(涙)。

同じ頃、上方落語で四天王と呼ばれたのは先述した三代目桂米朝、五代目桂文枝、六代目笑福亭松鶴、三代目桂春團治の四人でした。

明治時代の落語家の番付。最も大きな字で書いてあるのが、三遊亭圓朝。『圓朝全集』より(国立国会図書館デジタルコレクション)

彼らの落語は現在もCDなどを通して楽しむことができます。
一般的に、大正時代頃までにつくられた落語の演目は「古典落語」と呼ばれますが、昭和以降につくられた落語を「新作落語」や「創作落語」と呼びます。「昔の話はとっつきにくい」という方には、現代を舞台にした新作落語を聞いてみるのも良いかもしれません(東京では立川志の輔さん、上方では六代目桂文枝さんがおすすめ)。

最近、女性落語家の活躍もめざましいです!上方落語では、桂二葉さんがおすすめ!

現在でも寄席には若手からベテランまで、多くの落語家が連日高座に上がっています(舞台のことを落語などでは「高座」と呼びます)。コロナ禍のためにオンライン配信などを余儀なくされた演芸場、寄席も多くありますが、現在再びにぎわいを取り戻しつつあります。

彼らの話芸の伝統は、たどっていけば明治時代、さらには江戸時代まで遡ることができます。そうした歴史を知って訪れてみると(もちろん知らなくても、十分すぎるほど楽しめますが)、またひと味違った落語の楽しみ方ができるかもしれません。

参考文献:
・『日本大百科全書』
・山本進ほか『落語』(山川出版社、2016年)
・稲田和浩『図解 落語入門』(世界文化社、2018年)
・三遊亭圓朝『圓朝全集』(岩波書店、2012年)

スタッフおすすめ書籍

落語初心者の方も楽しく読める漫画です!


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幼い頃より舞台芸術に親しみながら育つ。一時勘違いして舞台女優を目指すが、挫折。育児雑誌や外国人向け雑誌、古民家保存雑誌などに参加。能、狂言、文楽、歌舞伎、上方落語をこよなく愛す。十五代目片岡仁左衛門ラブ。ずっと浮世離れしていると言われ続けていて、多分一生直らないと諦めている。