日本文化の入り口マガジン和樂web
2月1日(水)
秋の人のよりし柱にとがめあり梅にことかるきぬぎぬの歌(与謝野晶子)
日本文化の入り口マガジン 和樂web
日本文化の入り口マガジン 和樂web
1月30日(月)

秋の人のよりし柱にとがめあり梅にことかるきぬぎぬの歌(与謝野晶子)

読み物
Culture
2022.10.18

結婚の仲人も将軍の仕事!?『吾妻鏡』で読む源頼朝の人事力

この記事を書いた人

令和4(2022)年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』をもっと楽しむために、原作である『吾妻鏡』を読んでみようコーナー! 富士川で平家を追っ払って、背後を叩く可能性のある常陸国の佐竹氏を倒し、いよいよ鎌倉幕府の基礎を築いていくぞ!

機関としての幕府の基礎……つまり誰がどの役割をするかの人事だ!!

会社においてもすっごく重要な「人事」! 源頼朝の力量やいかに!?

▼これまでの流れはこちら!

初代侍所就任!!

治承4(1180)年11月17日。佐竹攻めから鎌倉に戻った頼朝様は、さっそく和田義盛(わだ よしもり)を侍所別当(さむらいどころ べっとう)に任命した。

侍所というのは、幕府の警察や軍事を担当する機関だ。別当はその筆頭責任者のこと。

ちなみになぜ侍所別当に義盛が指名されたかというと、『吾妻鏡』では、安房国でこれから先どうなるかもわからない時に「オレ、御家人たちのリーダーになりたいんだよ~」って言い出して、それを頼朝様が面白がったらしい。

ドラマでもそんなシーンがありましたね!

でもやっぱり、義盛が面白かったからやらせようってだけじゃなくて、それに見合う軍事力や顔の広さや能力があったんだと思う。

侍所のお仕事

義盛、よく脳筋武士の代表みたいに扱われるけど、事務能力もけっこうあった。というか侍所別当の仕事、ほぼ事務仕事だし。しかも何千・何万人の御家人たちのデータを取りまとめるのに、Excelもない時代だよ!? 

侍所の仕事の例
ヒェ~、エクセルあったとしても大変だ~!

目の前の脅威を取り去った今、今までの戦をまとめたり、これからの戦や守備に備えるために真っ先に決めたわけだな。ちなみに侍所のNo2となる梶原景時(かじわら かげとき)殿が鎌倉御家人になるのは年が明けた治承5(1181)年1月になってからなので、この時はまだいない。

侍所別当となった義盛の仕事ぶりは、さっそく『吾妻鏡』の治承4(1180)年12月12日に書かれている。頼朝様が新居へ引っ越しした日だ。御家人たちは侍所(さむらいどころ)と呼ばれる控室で向かい合って2列に並んだ。義盛はそこに並んだ者たちを記録した。その数311人!

……これだけの人数の顔と名前が一致してないと務まらない役職なんだなぁ。

学校の先生みたいだ。

お坊さんたちも配置!!

治承4(1180)年11月19日。頼朝様は、異母弟の阿野全成(あの ぜんじょう)殿に武蔵国長尾寺(現・神奈川県川崎市の妙楽寺)を与え、祈祷をして幕府を支えるように命じた。

当時、僧侶による祈祷には力があると言われていて、重要視されていたんだ。ドラマの全成殿は面白祈祷師だったけど、まぁ京都の醍醐寺で幼少期から修行していたから、それなりに祈祷の力があると期待されていたんだろうな。

最期に呪文で嵐を呼んだシーンはほろりとしました……。

頼朝様はとにかく位の高い僧侶を鎌倉に呼びたかったみたいだ。12月4日には上総国に流罪となっていた阿闍梨(あじゃり=弟子の規範となる僧)を呼び寄せて、鶴岡八幡宮の共僧(ぐそう)とした。

共僧ってのは、神社もお寺もごちゃまぜだった当時の僧の役職で、神社で仏事を執り行う僧侶のこと。神職より上の立場だった。

ほかにも、「どこそこの寺は誰々という僧に管理させるよう頼朝様が命じた」という記事が『吾妻鏡』では散見される。寺社の管理は政治や町づくりにに欠かせない要素の1つだったのだ。

山内首藤経俊の斬首!?

ドラマでは大庭景親(おおば かげちか)と同じタイミングで沙汰が下った山内首藤経俊(やまのうちすどう つねとし)殿だが、実際は大庭より後に沙汰が下った。治承4(1180)年11月26日のことだ。

でもまぁ、内容はドラマと同じ。山内首藤殿の母が頼朝様の乳母で、頼朝様は乳母の嘆願を聞き入れた。乳母との縁は深いと、印象的なシーンだったな。

助命され結構長生きしたようですね。「ちなみに山内首藤までが氏で、名が経俊だ!」とのことです。

頼朝様の正観音像

ドラマでは重要なアイテムとなっている、頼朝様が髻(もとどり=マゲ)の中に入れていた正観音像。石橋山の戦いの時、しとどの窟(しとど)に置いてきたのだが、探し出してきて治承4(1180)年12月25日に無事届けられた。

ちょっとしたクリスマスプレゼントだな! ……まぁ鎌倉時代にはまだこの概念は伝わってない上にプレゼントは観音様だけど。

探し出す係も頼朝が任命していたのかな~。

結婚の仲人も人事の1つ!

現代と当時の結婚観は全く違うとは度々言及している。頼朝様は、これはと気に入った男子を自分に近しい家の女子と結婚させることが度々ある。これは本人たちの意に反して行われるわけではなく、当時としては男子はもちろん女子にとっても名誉なことだったことは片隅においといてほしい。

「ウチらの仲人、頼朝様だぜ?」ってマウントとったりしてたのかな~。

この期間で『吾妻鏡』に書かれている婚姻は、治承5(1181)年2月1日。足利義兼(あしかが よしかね)殿と北条時政(ほうじょう ときまさ)の娘、小笠原長清(おがさわら ながきよ)殿と上総広常(かずさ ひろつね)殿の娘が、頼朝様が仲人として結婚した。

菊池容斎『前賢故実 巻第8 足利義兼 小笠原長清』 出展:国立国会図書館デジタルコレクション

足利殿と小笠原殿はドラマには出て来ていないが、2人とも幕府には重要な人物! 足利殿は室町幕府の将軍となる足利家の初代。小笠原殿は甲斐源氏で、早くから頼朝様に従っている。

そしてこの2人の嫁となった娘の父親については、ドラマを見ていた者には説明の必要はないだろう。北条時政は頼朝様の舅。上総広常殿は南関東でも最大勢力の武士だ。

こうして頼朝様は有力な御家人に要職を割り振ったり、御家人同士で婚姻関係を結ばせることで御家人同士の結束を強めたのだった!

将軍って色んな能力が求められるんだな~!!

アイキャッチ画像:『京都御所内侍所』 ColBaseをもとに作成
ますます目が離せない!大河ドラマのおススメ書籍はこちら↓↓


眠れないほどおもしろい吾妻鏡―――北条氏が脚色した鎌倉幕府の「公式レポート」 (王様文庫)

書いた人

承久の乱の時宮方で戦った鎌倉御家人・西面武士。妻は鎌倉一の美女。 いわゆる「歴史上人物なりきりbot」。 当事者目線の鎌倉初期をTwitterで語ったり、話題のゲームをしたり、マンガを読んだり、ご当地グルメに舌鼓を打ったり。 草葉の陰から現代文化を満喫中。