Culture
2022.11.17

世界に挑んだ川上音二郎・貞奴一座!欧米公演をデジタルアーカイブで追体験

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日本のアイドルの海外進出が今日でもニュースになる時代、今から約120年も昔、世界に挑んだのが川上音二郎・貞奴一座です。米サンフランシスコで興行収入を持ち逃げされて一文無しになったどん底から這い上がり、1900年のパリ万博で一番の注目を集め、仏大統領から勲章を授けられる栄光の座へ-。1年8ヵ月余の波瀾万丈の旅を、デジタルアーカイブに収められた当時の資料を見ながら、追体験してみませんか?

『春の波濤』では、貞奴役が松坂慶子、音二郎役が中村雅俊でした!

欧米公演をリアルタイムで収めた「音貞アルバム」

(右)が米雑誌『ハーパーズバザー』の表紙 1900年3月24日。(左)は仏雑誌『テアトル』表紙 1900年10月 いずれも貞奴の舞台姿=「音貞アルバム」から

「音貞アルバム」の表紙には「川上一座渡米行業大事件ノ終結迄ノ」と書かれている=「音貞アルバム」から

ジャポニズム人気の中で熱狂を呼び起こした川上音二郎・貞奴一座の欧米公演。中でも、ベル・エポックの芸術家たちを魅了したのは、芸者出身で近代日本初の女優、貞奴の優美な舞踊でした。「若きピカソが素描をした」「彫刻を作りたいというロダンの依頼を断った」「オペラ『マダム・バタフライ』を作曲中だったプッチーニにインスピレーションを与えた」…。数々の伝説に彩られ、書籍などで紹介されてきました。1985年のNHK大河ドラマ『春の波濤(はとう)』、2007年の舞台『恐れを知らぬ川上音二郎一座』でも描かれてきました。

では、当時はどう伝えられていたのか、自分の目で確かめたいと思っていたところ、動静を伝える一次資料が貼り込まれた1冊のアルバム「川上音二郎・貞奴一座欧米公演関係資料アルバム」(通称「音貞アルバム」)が、東京・築地にある映画・演劇の専門図書館、松竹大谷図書館に残されていることを知りました。「音貞アルバム」は全94ページで、音二郎や貞奴たちから届いた手紙やはがき、公演とほぼリアルタイムで収集された新聞記事の切り抜きなど約160件が収められていました。劣化が進んでいましたが、2018年にクラウドファンディングで募った資金で補修とデジタル化が実施され、立命館大学アート・リサーチセンターの協力を受け、2020年10月にデジタルアーカイブ《松竹大谷図書館特別資料閲覧システム》で公開され、ネットで閲覧できるようになりました。デジタルアーカイブで「音貞アルバム」をひもといてみましょう。

借金地獄から起死回生を狙っての船出

川上音二郎と貞奴=松竹大谷図書館提供

まず、川上音二郎(1864~1911)と貞奴(1871~1946)のプロフィールについて簡単にご紹介します。音二郎は14歳で故郷の博多を家出して上京。言論の自由や国会開設、憲法制定を求めた自由民権運動に共鳴して、その思想を宣伝する「壮士芝居」から演劇の道に入り、20代半ばに政治を風刺した演説歌「オッペケペー節」を、後ろ鉢巻に赤の陣羽織を着て、日の丸の軍扇をかざして寄席で歌いまくり、大流行させます。歌詞の中にこんな一節を見つけました。

権利幸福嫌ひ(い)な人に 自由湯をば飲ましたい
オッペケペッポペッポッポ(略)
表面(うわべ)の飾りは好(よ)いけれど
政治の思想が欠乏だ 天地の眞理が分らない(略)
米価騰貴の今日に 細民困窮顧みず

今聴いても十分通じる内容です。七五調のラップでリズミカル。「音貞アルバム」の整理に当たった松竹大谷図書館の司書、武藤祥(さち)子さんは「音二郎は、世の中を良くしたいというのが永遠のテーマでした。新しい考えを広めるためにはどうすればいいのか。そのために新しいものを積極的に取り入れて、挑み続けた人だと思います」と話しています。今でいうと、音二郎は進取の気性に富み、プロデュース力にもたけた人気急上昇中のポップスターでした。

一方の貞奴は、実家の困窮のため、7歳で芸者置屋を営む女性の養女となり、芸事を厳しく仕込まれ、15歳ごろ芸者デビュー。美貌で知られ、首相を務めた伊藤博文ら政府要人のバックアップを受け、売れっ子芸者になりました。令和なら、大手事務所に所属して政治力やマネージメント力もあり、歌って踊れて楽器演奏もできるスーパーアイドルといったところでしょうか。

貞奴の回想によると、そんなふたりが出逢い、一緒になったのが明治23(1890)年。その4年後に正式に結婚しました。音二郎30歳、貞奴23歳。結婚した94年の夏に日清戦争が勃発。音二郎は『壮絶快絶日清戦争』という題名で舞台化して、戦地の取材を基に、火薬や照明を駆使した迫真の砲撃シーンで大当たりを取ります。その勢いに乗って、歌舞伎に対抗する新演劇を上演するため、最新の設備を備えた西洋式劇場「川上座」を、東京・神田三崎町に建設しますが、新聞に「俗悪」と叩かれて客足が次第に遠のき、劇場は人手に渡ってしまいます。

演劇を改良するためには政治から変えなくてはと、衆議院選挙に2度立候補するも、いずれも落選。借金の山を抱え、八方ふさがりの中で、日本脱出を試みたのが、欧米公演につながったのです。

明治32(1899)年4月30日 @神戸港・発 ▼ついに日本脱出

日本脱出はいわば壮大な「夜逃げ」でした。音二郎は世間の非難に嫌気を起こし、明治31(1898)年9月、小さな手漕ぎボートに貞奴と自分の姪・しげの3人と愛犬1匹で乗り込み、東京湾を出航しました。途中、横須賀で捕まったり、台風に遭ったりしながら、約4ヶ月かけて1899年正月早々に神戸へ到着。音二郎は記者会見を開いてその冒険譚について語り、話題を提供しました。令和だったらYouTubeで配信していたに違いありません。

壮大な夜逃げ!!その様子を記者会見する音二郎って、確かに現代のユーチューバーに通じるかも。

気力を取り戻した音二郎は、海外進出で起死回生を図ろうと、関西で資金集めの興行を繰り広げました。目標は、来年1900年開催予定のパリ万博出演でした。そこへアメリカで成功していた日系移民の興行師・櫛引弓人(くしびきゆみんど)が米国公演を勧めました。渡航費などの資金も援助するとの誘いに、渡りに船と乗った音二郎は、神戸で一座を結成して船に乗り込み、出港したのです。

一行は音二郎、貞奴、音二郎の弟・磯二郎、音二郎の姪・ツル、通訳兼女形・三上繁、丸山蔵人ら座員9人、衣装方、道具方、かつらを扱う鬢方、長唄と三味線の担当者各1人、事務員の計19人でした。船は横浜、ハワイ・ホノルルなどを経て、3週間後の5月21日、米カリフォルニア州サンフランシスコに到着しました(以下の旅程は『川上音二郎欧米漫遊記』による)。

明治32(1899)年5月25日 @米サンフランシスコ ▼貞奴、女優デビュー

サンフランシスコの街中に、貞奴の写真が大きく掲載されたポスターが貼られていました。欧米は当時、空前のジャポニズムブーム。しかも女優が脚光を集めていました。芸者出身の貞奴を看板女優にしようと、興行師は考えていたからです。貞奴は抗議しますが、これまでも余興で踊りを披露していた貞奴は、サンフランシスコ到着4日後の5月25日、女優として初めて舞台に立ち、『道成寺』を踊りました。

一方、興行を仕切るはずだった櫛引は事業に失敗したため、その代わりを現地の弁護士・光瀬耕作に頼むことに。それがトラブルを招くことになります。

公演は現地に住む日本人たちの好評を博し、1ヵ月弱で2,000ドルの収入を得て、順風満帆の船出となったはずでした。ところが6月21日、カリフォルニア座での公演5日目に劇場へ向かうと、衣装や小道具が差し押さえられていました。ホテルに戻ってみると、部屋は施錠されて入室できなくなっており、所持品もすべて没収されていました。光瀬は劇場使用料や宿泊費を払わずに2,000ドルを持ち逃げして、姿をくらましました。

一座は公演はおろか、宿無しになってしまいました。身に付けていた時計を売って、飢えをしのぐ日々。絶体絶命のピンチに陥った一座に、救いの手を差しのべたのは、現地に住む日系人たちでした。彼らの尽力で劇場を借りてチャリティー公演を開き、その売り上げで差し押さえられていた衣装や道具を取り戻すことができました。

異国で一文無しって、どれだけ心細かったことか。手を差し伸べてくれる人がいて、良かったです(涙)。

(右下)チャリティー公演に対する音二郎らの御礼が掲載された記事。「御礼 今回有志諸君の御盡力に依りジャーマンホール演劇興行に付ては初日より賑々敷御来観被成下難有奉存候以御蔭毎日大入の盛況を呈し小生は不及申一座之者共博愛義侠なる同胞諸君之御高志の程奉感佩候不取敢紙上を以て此段御礼奉申上候 七月廿七日 川上音二郎 同一座 在留同胞諸君 [明治卅二年]」とある。日本語新聞切り抜き 紙名不詳=「音貞アルバム」から

これからどうすべきか。日系人たちは帰国を勧め、一座の中からも「日本に帰りたい」との声が上がりましたが、音二郎は長年の夢だった海外巡演をあきらめきれず、「どうしてもフランスまで行く! 行けるところまで行ってみようじゃないか」と押し切りました。

一座のうち座員ら2人が現地にとどまることになりました。苛酷な旅に巻き込むのは避けたいと、子役として連れてきた2人を現地に残すことにしました。音二郎の弟・磯二郎(当時16歳)を現地のアメリカ人の使用人をしながら学校へ通う学僕として預け、姪のツル(当時11歳、9歳の説も)も日系人画家・青木年雄の養女にしました。

青木年雄とツルか=「音貞アルバム」から

実は、「音貞アルバム」は巡業先から音二郎や貞奴、座員たちが青木の元に贈った手紙や新聞記事の切り抜きなどが基になっています。一座は遠く離れていてもツルのことを案じ、自分たちの活躍を知らせるために便りを寄越しました。

貞奴がツルに充てた手紙をご紹介します。「ミス青木へ余りおしゃべりをせぬよう又首に下げる札を忘れぬようにとお伝へ(え)下されたく…」。ツルはのちに青木鶴子となって女優となり、日本人初のハリウッドスター、早川雪洲(せっしゅう)と結婚します。鶴子が日本に帰国した際に「音貞アルバム」も持ち帰ったと考えられています。経緯は不明ですが、何人かの手を経て、松竹大谷図書館に寄贈されました。

鶴子は、日本人初の国際スターと言われる早川雪洲の妻だったのですね!

手紙 川上音二郎、貞奴(連名) ポートランド 1899年10月5日=「音貞アルバム」から

明治32(1899)年9月15日 @米シアトル ▼『藝者と武士』初演

15人になった一座は8月29日、辛酸をなめた米サンフランシスコを後にして、太平洋沿いを船で北上して9月1日に船でワシントン州シアトルに到着。ここで飛躍の足がかりとなった人気演目『藝者と武士 Geisha and the Knight』が生まれました。

「藝者と武士」が書かれた英文刊行物 ルイ・フルニエ 『川上と貞奴』 パリ 1900年=「音貞アルバム」から

『藝者と武士』は、欧米人向けに音二郎が歌舞伎の『鞘当(さやあて)』と『道成寺』を組み合わせた作品。前半は売れっ子芸者を巡って2人の武士が恋の鞘当て。後半は芸者が武士を追いかけますが、恋の裏切りを知って嫉妬の余り、大蛇となって武士たちを殺そうとします。殺陣あり、腹切りあり、衣装の早変わりあり。現地のニーズを機敏に察知して作品に取り入れる音二郎のプロデュース力には驚くばかり。何と言っても貞奴の踊りと悲壮な死の演技が観客の心をつかんだのでした。1週間の公演で手ごたえをつかんだ一座は、鉄路、タコマ、ポートランドを経て大都市イリノイ州シカゴを目指します。

明治32(1899)年10月11日 @米シカゴ・着 ▼絶食が生んだ迫真の死の場面

シカゴに着いたものの興行師を欠く一座は、劇場の確保に難航して、たちまち金欠状態に。そこで奇妙な超節約術を考えついて、実践しました。一例を紹介すると…。

・【住】ダブルベッドしかない四畳半ほどの一室だけを借りて15人で宿泊。数人ずつが時間差で客を装って入室。
・【食】早起きをするとお腹が減るので、我慢して朝寝。食事は朝だけ。コーヒーショップでコーヒーとパン、ハムエッグなどを食べる。昼食は抜き。夕食はコーヒーショップのコーヒー1杯で空腹に耐える。夜は水を飲んで腹を膨らませる。

追い詰められた一座の前に、救いの神が現れます。ライリック座の座主ハットンでした。10月22日の初日が決まると、音二郎は宣伝のため、芝居の衣装や鉄兜を身につけて、広告旗を掲げて街中を練り歩きました。法螺貝を吹いて、陣太鼓を打ち鳴らす。この「チンドン行列」効果か、劇場は満員になりました。『藝者と武士』の上演中、笠を持ちながら回る死の場面で、貞奴は気が遠くなり、倒れてしまいました。迫真の演技と評判になりますが、実は空腹の余り、気を失っていたのでした。初日の公演を終えると、一座はギャラを手に料理店へ駆け込み、ステーキやフライを山のように注文して涙を流しながらほおばりました。

その時の食事は、美味しかったでしょうね。まさに命がけの巡業だったのが、伝わってきます。

ここから一座の快進撃が始まります。シカゴ公演は連日の大入り。現地の新聞の評判も上々。シカゴで過ごした1ヵ月間で、一座は地獄と天国を味わいました。11月12日にシカゴを汽車で発ち、巡業をしながらマサチューセッツ州ボストンに向かうことにしました。朝早くに出発して到着したその夜に公演という強行軍で、ミシガン州グランドラピット、マスキーガン、バットルクリーク、エドリアン、オハイオ州トレード、テッフィン、トレード、デートル、マンスフィールド、ポサイラスなどを巡り、12月3日にボストンへ到着しました。

明治32(1899)年12月3日 @米ボストン・着 ▼座員2人の死

これまでの無理がたたったのか、相次いで座員が病に倒れました。いずれも立女形(たておやま)だった丸山蔵人と三上繁の2人が、この地で世を去ります。丸山は白粉(おしろい)の多用による鉛中毒で12月4日に入院、12日に死去。三上も酒好きが原因で病気となり、翌年1月26日に入院、30日に亡くなりました。三上は妊娠中の妻を日本に置いてきており、子どもが間もなく生まれるところでした。「どうしても死にたくない」と言いながら、息を引き取りました。三上の死の直前に書かれた年賀状がアルバムに残されています。乱れている筆跡が異郷で散る三上の無念さがにじんでいるように見えます。

右端は三上繁が死の直前に書いたと見られる年賀状 ボストン 1900年1月 =「音貞アルバム」から

2人の死と前後して、音二郎も盲腸炎で12月21日に入院し、一時は重体に陥ります。開腹手術が成功して1月14日に退院して命拾いをしました。しかし、その後、体調が万全に戻ることはなく、49歳で急逝する遠因になったとも言われています。それだけ苛酷で命を懸けての挑戦だったのです。

明治33(1900)年1月25日@米ボストン ▼一夜漬けの『ベニスの商人 』上演

悲しみを振り払うかのように、一座は新たな演目に挑戦します。ボストンへ巡業に来ていた英国の名優ヘンリー・アーヴィング卿(1838~1905)と女優エレン・テリー(1848~1928)によるシェークスピア喜劇『ベニスの商人』を、音二郎が退院してから10日後の1月24日に観劇。「台詞回しといい、身振りといい、仕草といい、分からぬ我々さえもただ感に打たれて帰りました」とすっかり感動した音二郎は、目と鼻の先の劇場で日本版『ベニスの商人』を、『人肉質入裁判』(「 才六」) として上演することを思い立ちます。

『道成寺』などの「一点張りでは、鼻についてもおかしくない。何か変(わ)った新狂言…」をと考えて、アーヴィング卿の「向(こ)うを張って遣(や)ろう」としたと音二郎は後に新聞などで回想して、あたかも対抗心から上演したと語っています。しかし、これは彼一流のサービス精神に満ちたハッタリだったと私は読んでいます。

アーヴィング卿がボストンに到着した際に、音二郎が一座の公演に招待したことから、かねてより両者は親交を深めていました。互いの舞台を観劇し合い、国は違えど、同じ演劇人同士として認め合っていたのです。音二郎は世界一の名優でありながら決して威張らず、老齢でも巡業して回る「勇気と勤勉のほどは、実に感心じゃありませんか」と述べています。一方のアーヴィング卿も、音二郎ら一座の芝居に感心し、自分の「芸術仲間だ」という興行師宛ての紹介状を書き、ロンドンへの巡業を勧めました。

アーヴィング卿の『ベニスの商人』を観劇した音二郎は感想を聞かれ、「非常に疲労を覚えたから今夜宿へ帰ってゆっくり寝てから良く考えて申し上げる」と答えたと、『マダム貞奴』(レズリー・ダウナー著)で書かれています。創意を尽くした『人肉質入裁判』(「才六」) は、アーヴィング卿の名舞台に対する音二郎の精いっぱいの「答え」だったのではないでしょうか。誰よりもアーヴィング卿に見てほしかった。しかし、ボストン公演はいつ楽日を迎えるのか分からない。だから、すわ急げと、観劇翌日の1月25日に上演することに決めたのだと思います。

アーヴィング卿もこの「日英スター競演」を面白がって、テリーと共にシェイクスピア劇の演じ方や役作りについて手助けしてくれたと、音二郎は回想録に書いています。

音二郎は『ベニスの商人』を猛スピードで換骨奪胎して翻案。裁判の場面だけを取り上げ、高利貸しのシャイロックは北海道の漁師・才六(音二郎)に、弁護人のポーシャは金持ちの娘(貞奴)にしました。一夜漬けで稽古をする羽目になった座員たちは大騒ぎ。せりふを覚えきれず、「何と言やいいんですよ」と文句たらたらの貞奴に、「どうせ見物にゃ分からないから、絶句をしたときア、スチャラカポコポコでも何でもいい。ただ身振りや台詞にウンと力を入れて、いかにも熱心に見せてさいいりゃ、金玉の名句を吐いてると思う」と音二郎は言い放ちました。

音二郎の度胸がスゴい。人生を切り開くための、ハッタリ力ですね~

冒頭でご紹介した舞台『恐れを知らぬ川上音二郎一座』では、この時のエピソードを作・演出の三谷幸喜が面白おかしく描いていました。てっきり創作だと思っていましたが、実話だと知ってびっくりしました。

一夜漬けの 『人肉質入裁判』は「身振りや台詞にウンと力を入れ」た熱演が通じたのか、新聞の劇評は好評でした。とりわけ9センチ四方の人肉を切り取ろうとする場面で、筆を取りだして几帳面に胸に印を付けるリアルな演技が大いに受けたそうです。「音貞アルバム」にも、ヘンリー・アーヴィング(HENRY IRVING)とエレン・テリー(ELLEN TERRY)の名前の下に、笑ったり、しかめっ面をしたりする音二郎、貞奴の写真の入った新聞記事の切り抜きがありました。この写真のようにふたりは「してやったり」と呵々大笑したのではないでしょうか。

英字新聞切り抜き 「サンデーイグザミネーマガジン」=「音貞アルバム」から

世界のひのき舞台パリ万博へ

一座は1月28日にボストンを発ち、ワシントン、ニューヨークを巡業。4月28日、ニューヨークから船で大西洋を渡り、5月8日に英リバプールへ到着。その日の深夜、ロンドンに着きました。音二郎の手には、ボストンで親交を深めたアーヴィング卿が書いてくれた紹介状が功を奏して、米国へ渡ったころのような心細さはありませんでした。一座は歓待を受け、マネージャーがつき、公演も順調。6月27日にはエドワード英皇太子(のちのエドワード7世)が一座の公演を観劇するという栄誉に浴しました。ここでも一座の十八番『芸者と武士』を出し、好評を得ました。

仏政府からの勲章授与を知らせる川上音二郎の謄写版印刷物 パリ 1900年11月1日=「音貞アルバム」から

6月28日にロンドンを出発し、29日パリに到着。音二郎は、第5回パリ万国博覧会に出演する夢を遂に果たしました。女性ダンサーの先駆者で、名うてのプロデューサーでもあったロイ・フラー(1862~1928)と契約を結び、万博のパビリオン「ロイ・フラー劇場」で7月4日から11月3日までの123日間公演。その間に世界中に、貞奴は一大ブームを巻き起こしました。ルイ・フルニエが書いた英文刊行物『川上と貞奴』(1900年)では、貞奴について「杏仁形の目、優雅な身のこなし。踊りの名手でありながら第一級の悲劇女優である」と絶賛されています。8月19日には、ルーペ仏大統領主催の園遊会にも招待されて参加。当時の芸術家たちの関心を引きつけたほか、「Yacco」にちなんだ着物や香水、クリームが発売されるなど、社会現象にもなりました。音二郎、貞奴は、万博への貢献を評価されて、仏政府から勲章も授与されました。11月4日にパリを出発、ベルギーに立ち寄った後、7日にロンドンに到着。9日に帰国の途につき、1901年1月1日に神戸に着きました。

日本エンタメの海外進出の先駆け

一座の前人未踏の挑戦は、日本エンタメの海外進出の先駆けでした。内向き志向が強まっているとされる今、教えられることが多いのではないでしょうか。次から次へと押し寄せる荒波を乗り越えた音二郎と貞奴の最強コンビ。「どちらか1人が欠けても欧米公演は成功しなかったと思います」という、松竹大谷図書館の武藤さんの言葉にうなずくばかりです。明治の時代に、情熱的にパワフルに世界を駆け抜けた一座をしのびつつ、その奮闘ぶりを伝えるアルバムを開いてみてはいかがでしょうか。

大変な苦労をしたけれど、世界を舞台に活躍した2人は、絶妙のコンビだったのでしょうね。

「音貞アルバム」をネットで閲覧するには

「音貞アルバム」は、松竹大谷図書館のホームページ内にあるデジタルアーカイブのうち、松竹大谷図書館特別資料閲覧システムをクリックすると、トップ画面が表示されます。細かい項目がありますが、何も検索語を入力せずに、「検索ボタン」をクリックします。すると、検索結果一覧から台紙(アルバム1ページ全体)の画像のサムネイル一覧が表示されます。その中から見たい台紙のサムネイル画像をクリックすると、「閲覧画面」が表示されます。台紙の画像をクリックすると、別ウィンドウが開き、拡大して見ることができます。

また、台紙に貼り込まれた記事など個別資料を見たい場合は、トップ画面に戻り、何も検索語を入力せずに「検索ボタン」を押し、「個別資料閲覧」ボタンを押すと、個別資料の全データが一覧表示されるので、見たいデータの「詳細情報」ボタンをクリックすると、その個別資料の「詳細情報画面」が表示されます。ちょっと難しいかもしれませんが、記事の小さな文字もはっきり見えます。

「音貞スピリット」を語り継ぐ神奈川県茅ヶ崎市

音二郎と貞奴が欧米公演から帰国後に居を構えた神奈川県茅ヶ崎市では、「『音貞アルバム』を紐解く講演会」が2022年11月20日午前10時から、同市立図書館で開かれます。

登壇する茅ヶ崎市美術館館長の小川稔さんは、同館が2011年に「音二郎没後100年・貞奴生誕140年記念 川上音二郎・貞奴展」を開催したのを機に、「音貞アルバム」を調査しました。「明治という苦難の時代に、体を張って徒手空拳で世界に乗り出していった『音貞スピリット』に大いに感動しました」と振り返っています。

音二郎と貞奴が、茅ヶ崎の自宅前で撮影した総勢18人の集合写真。「神奈川県茅ヶ崎ノ自宅」の書き込みも=「音貞アルバム」から

茅ヶ崎市では、2014年にも「川上音二郎生誕150年記念 世界を歩いた!音貞展」を開きました。「音貞スピリット」に魅入られた市民たちがグループをつくり、音貞コンビの心意気を今に伝えるイベント「音貞オッペケ祭」を毎年開催しています。

今回の講演会では、デジタルアーカイブの資料を見ながら、調査時のエピソードを振り返りつつ、音二郎・貞奴夫妻の足跡をたどる予定です。当日先着35人(無料)ですが、後日、You Tubeで動画配信も予定されています。こちらの催しもぜひチェックしてみてください。

参考文献
『自伝 音二郎・貞奴』藤井宗哲・編 三一書房 1984年
『財団法人松竹大谷図書館所蔵 青木家旧蔵川上音二郎一座関係資料調査報告書補遺』小川稔・著 2010年
『音二郎没後100年・貞奴生誕140年記念 川上音二郎・貞奴展』図録 茅ヶ崎市文化振興財団・茅ヶ崎市美術館・著 2011年
『その時歴史がうごいた〈30〉』NHK取材班・編著 KTC中央出版 2004年
『川上音二郎と貞奴 明治の演劇はじまる』 井上理恵・著 社会評論社 2015年
『川上音二郎と貞奴Ⅱ 世界を巡演する』 井上理恵・著 社会評論社 2015年
『川上音二郎と貞奴Ⅲ ストレートプレイ登場する』 井上理恵・著 社会評論社 2018年
『マダム貞奴 世界に舞った芸者』 レズリー・ダウナー著 木村英明・訳 集英社 2007年
『明治演劇史』渡辺保・著 講談社 2012年

書いた人

大阪生まれ、横浜育ち、名古屋を経て東京住まい。就職浪人ののち記者歴20年超。ロスジェネ世代ゆえの粘り強さとフットワークの軽さが身上。小4から新聞中毒。社会問題から舞台やアートなど全方位に興味があり。橋本治に私淑。国際演劇評論家協会(AICT)日本センター会員で『シアターアーツ』編集部員。アイコンは5歳の時に描いた自画像。正面向きでも鼻を明示したくて青で塗った個性は「五つ子の魂 百まで」。