Culture
2019.09.10

史跡にまつわる怪談。城や古墳・古戦場に残る悲しいエピソードに人間の歴史を見た

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「あの男性、頭を下げているんじゃない。首がないんだ」

首のない軍勢を率いる柴田勝家

賤ヶ岳古戦場

北ノ庄城で無念の自刃

首のない武者の亡霊がうろつく話は、古戦場や城跡でよく耳にする。しかし、これから紹介する伝説は、歴史的にも有名な武将であり、しかも軍勢で現われるという。

天正10年(1582)の本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれると、織田家中では明智光秀を破った羽柴秀吉と、宿老の柴田勝家の二人が主導権を争うことになった。織田家に取って代わろうとする秀吉の天下への野望は明らかで、これを阻止しようと勝家が挑んだ決戦が、本能寺の翌年の、賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い(滋賀県長浜市)である。

しかし、武運つたなく勝家は敗北。居城の越前北ノ庄(えちぜんきたのしょう)城(福井市)まで退却するが、ほどなく秀吉の大軍に包囲された。「もはやこれまで」と北ノ庄城において、勝家は正室お市の方らと無念の自刃を遂げる。多くの家臣も炎上する城と運命をともにした。天正11年(1583)4月24日のことである。

以来、4月24日の夜になると、足羽(あすわ)川に架かる九十九(つくも)橋を、勝家率いる柴田の軍勢が渡り、いずこかの戦場へ出陣していく姿が見られるようになった。ただし軍勢は勝家以下、ことごとく首がない。そしてこの姿を見た者は、1年以内に死ぬといわれた。そのため福井城下では、4月24日の夜はどこの家も固く戸締りをし、一歩も外には出なかったと伝わる。

勝家以下、なぜ亡霊の首がないのか、理由は不明だが、秀吉に天下を奪われ、敗者の烙印を押された武将としての勝家の無念さが、その姿に現われているのではないだろうか。

江戸時代にも起きていた凶事

しかし江戸時代の半ば、そんな勝家軍の亡霊の姿を絵にしたいと考えた男がいた。表具師(ひょうぐし)の佐兵衛である。表具師とは、掛け軸や巻物、屏風、襖(ふすま)などを仕立てる職人のこと。享保17年(1732)の4月24日夜、佐兵衛は九十九橋の南詰めの木かげにひそみ、勝家軍を待った。すると丑(うし)の刻(午前2時頃)に、闇の中から首のない軍勢が続々と現われ、いずこかへ消えていく。

一部始終を見届けた佐兵衛は、家に戻ると、軍勢の姿をまたたく間に描いた。そして女房に見つかってはまずいと考え、描き上げた絵を表具の入った箱の中に隠す。翌朝、佐兵衛はふとんの中で冷たくなっていたという。

数日後、佐兵衛に頼んでいた表具の受け取りに来た福井藩士の糟屋伝左衛門(かすやでんざえもん)は、渡された箱の中に佐兵衛の描いた絵を見つけて仰天する。あまりに不吉な絵であることから、伝左衛門は屋敷の庭先で絵を火に投じるが、炎に包まれた絵は生き物のように舞い上がり、部屋の障子や襖に飛び火して屋敷が炎上、近隣まで類焼する大火を引き起こした。

はたして首のない勝家の軍勢は今も4月24日の夜に現われているのか、定かではない。なお、もし勝家らの姿を見てしまった場合、命が助かる方法が一つだけあるという。それは行列に向かって、「天下の名将、柴田勝家公殿」と叫ぶことである。

書いた人

東京都出身。出版社に勤務。歴史雑誌の編集部に18年間在籍し、うち12年間編集長を務めた。「歴史を知ることは人間を知ること」を信条に、歴史コンテンツプロデューサーとして記事執筆、講座への登壇などを行う。著書に小和田哲男監修『東京の城めぐり』(GB)がある。ラーメンに目がなく、JBCによく出没。