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読み物
Culture
2019.11.24

百人一首とは?見方が変わる8つのキーワードで解説。男が女心を歌っていた!?

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後世の文学に大きな影響を与えた百人一首。では、百人一首とはそもそもどのようなものなのでしょうか。8つのキーワードで読み解きます。

定家

「百人一首」は晩年の好みを反映した和歌のインデックス。

藤原定家の名前は、「新古今集」の選者として出てくることが多いでしょう。これは藤原家隆らと共同で選んだ和歌集です。一方、「新勅撰和歌集」は定家だけに依頼があり、ひとりで選んだものです。これができあがったのは、定家が74歳の年の3月の下旬です。その年の5月に、息子の嫁の父親である宇都宮蓮生入道頼(うつのみやれんしょうにゅうどうより)綱(つな)から京都・嵯峨野の山荘の襖に貼るために色紙を頼まれ、引き受けました。これが「百人一首」の原型です。定家は「古今集」以降「新古今集」までの八代集の中から、秀歌選を何種類もつくっていました。「百人一首」は、定家晩年の見識、好み、感性を反映した、和歌のインデックスでもあるのです。
 

女性仮託

男の歌人が女の心を歌う、物語世界の始まり

43首も恋の歌がある「百人一首」。その中には、男性の作者が女性の立場で歌を詠む、女性仮託の歌が多いのです。定家が自選している「来ぬ人を松帆の浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ」という歌からしてそうです。平安時代から鎌倉時代にかけての男女の交渉は、女性が待たされる側でした。男性は結婚してもしばらく女性の家に通う、通い婚形式です。定家の歌は、女性がやって来ない男性を待って、塩がじりじり焼けるような苛立ちで詠んだ歌ということなのです。「百人一首」の中に女性仮託の歌は47首もあります。待つ立場の女性の心を忖度(そんたく)しつつ、空想を働かせることで歌の中に物語的な世界を構築するのが、女性仮託の歌の目的ではないでしょうか。

掛詞

平安時代の人の心の働きが身近に感じられるキーワード

和泉式部の娘である小式部(こしきぶの)内侍(ないし)の「大江山いく野の道の遠ければまだふみも見ず天の橋立」という歌があります。「ふみも見ず」とは、自分の足で踏んでないということと、母からの文も見ていないということを掛けた掛詞ですが、小式部内侍の創作ではありません。和泉式部の娘が活躍したのは、「拾遺集」から「後拾遺」にかけての頃だと判断されますから、彼女より前に前例があったはずなのです。小式部内侍が詠んだことが話題になって、多くの歌人がまねていったということかもしれません。人の心のあやをうまく表現した掛詞は繰り返し使われていきます。ところで平安時代にもっとも流行った掛詞は、「秋」と「飽き」。そして、男を女が待っている「待つ」と植物の「松」。掛詞一つを取っても、その頃の人の恋愛観の一部は感じ取ることができるでしょう。

本歌取り

イメージを重ねて、山場をつくるテクニック

小野小町の「花の色はうつりにけりないたづらに我が身世にふるながめせしまに」という歌の中から、「ながめせしまに」と「我が身世にふる」という言葉が流行りました。後の歌人はそれを生かして、自分なりに歌を詠んでいくわけですが、元の歌の季節を変えるなどして、バリエーションをつくります。そこに、伝統に則しながら表現を創造していく意欲が感じられます。その結果が本歌取りという形で示されていきます。ある歌が下敷きになり、影を落としているものを読むのには時間がかかります。引いた歌も解釈しながら読んでいくからです。本歌の意味と目の前にある歌の意味を二重写しにし、イメージの重ね合いをしながら練り上げていくのが本歌取りです。

言葉の泉

言葉は当時の人の暮らしを垣間見るタイムマシン

歌に使われている言葉を調べると、その時代に重要視されていた風物がわかり、人の目線すら感じられることがあります。「万葉集」では春だけでなく、秋にも霞と詠んでいました。ところが、「古今集」からは「春の霞、秋の霧」が固定化し、私たちの感覚に近くなります。また、菊は「万葉」に一首もなく、「古今集」後期から登場します。「心あてに折らばや折らむ初霜のおきまどわせる白菊の花」と凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)が詠んでいますが、平安時代には九月九日重陽の節句を大切な行事としていたからです。そして実は「ひと」こそ「百人一首」で多く使われる言葉で、19回も出てきます。いつの時代でも重要なのは「ひと」なのです。

歌枕

繰り返して詠まれることで、現実を越えた光景

吉野は「万葉集」の頃から平安時代の中期までは「雪の吉野」で、雪に結びついていました。ところが、西行の「山家集」以降になって、「花の吉野」が圧倒的になる。桜の名所に変わるのです。そうかと思うと、龍田川、龍田山のように、龍田といったら紅葉、宮城野といったら全部が萩と結びつく歌枕もあります。これは中世に連歌が盛んになって、この歌枕にはこの言葉という組み合わせができたことによります。中世には歌枕集が何十種類も出ているほどです。「百人一首」には、天橋立から吉野まで、38の歌枕が登場します。歌枕は繰り返して詠まれることで、現実の風景を越えて日本人の脳裏に焼きついた夢の名所、光景と言えるでしょう。 

異種百人一首

「百人一首」が日本人に愛された証拠

「百人一首」は「100人の歌が1セット」というわかりやすい形が受けて、かるたとなって庶民の間にも流行します。さらに、これから異種がたくさん生まれていくのです。近くは第二次世界大戦時の「愛国百人一首」、江戸時代には「富士百人一首」、武家だけを集めた「武家百人一首」、女性だけを選んだ「女百人一首」、桜の花を詠んだ歌を集めて「花百人一首」ができたこともありました。これらを本来の「百人一首」に対して、「異種百人一首」と呼んだり、「変わり百人一首」と呼んだりしてます。現在私が知っているだけでも、およそ5、600点は存在しています。これらは、「百人一首」が日本人にどれだけ愛されてきたかを語る証拠となっています。

百人一首は日本美の素

謡曲から落語まで、広い範囲に影響

「百人一首」は歌舞伎や落語に取り入れられたり、川柳や狂歌の「本歌」として使われたりもしています。江戸時代に大田南畝(おおたなんぼ)は、「秋の田のかりほの庵の歌がるた取りぞこなって雪は降りつつ」という狂歌を詠んでいます。天智天皇の歌「秋の田のかりほのいほの苫をあらみわが衣手はつゆにぬれつつ」と光孝天皇の歌「きみが為春の野に出て若菜つむ我ころも手にゆきはふりつつ」は最後がよく似ているので、間違って取ってしまったという意味なのです。書家が「百人一首」を仮名の手本にして書くのはもちろん、大和絵の画家はここから画題を得ていることが多いのです。近代文学に、謡曲に、狂言に、「百人一首」の影響ははかりしれないものがあります。

解説/神作 光一 (和樂2006年2月号より)
写真/篠原宏明