日本文化の入り口マガジン和樂web
12月5日(月)
大学生の時に、世界を変えることに携わりたいと思っていた。そして、今も。(イーロン・マスク)
日本文化の入り口マガジン 和樂web
日本文化の入り口マガジン 和樂web
12月2日(金)

大学生の時に、世界を変えることに携わりたいと思っていた。そして、今も。(イーロン・マスク)

読み物
Culture
2019.09.17

小早川の裏切り、毛利輝元の本心…本当の関ヶ原合戦はまったく違っていたんだっ!

この記事を書いた人

五大老と五奉行

天下人・豊臣秀吉(とよとみひでよし)は晩年、自分の没後に幼い息子・豊臣秀頼(ひでより)を支えて、豊臣政権を運営していくためのシステムを準備した。それが「五大老・五奉行」の制度である。五大老のメンバーは有力大名で、徳川家康、前田利家(まえだとしいえ)、毛利輝元(もうりてるもと)、上杉景勝(うえすぎかげかつ)、宇喜多秀家(うきたひでいえ)。一方、五奉行は有能な官僚で、石田三成、増田長盛(ましたながもり)、長束正家(なつかまさいえ)、前田玄以(まえだげんい)、浅野長政(あさのながまさ)であった。五大老と五奉行は役割分担をしつつ、合議によって政務をとることになっていた。

武断派と吏僚派の対立

また、秀吉は晩年に朝鮮出兵を行い、その最中の慶長3年(1598)8月に没する。秀吉の死とともに朝鮮出兵は中止されるが、そこで表面化するのが加藤清正(かとうきよまさ)、黒田長政(くろだながまさ)、藤堂高虎(とうどうたかとら)ら最前線で戦った武断派の諸将と、石田三成ら吏僚派との対立だった。武断派は自分たちの働きを三成らが正しく秀吉の耳に入れず、そのために秀吉から譴責(けんせき)を受けたとして激しく憎んだのである。

家康の天下への野望

一方で、秀吉が死ぬとさっそく遺命に背き、無断で有力武将と次々に縁戚関係を結んだ人物がいる。五大老筆頭格の徳川家康だ。石田三成は家康の行動に天下簒奪(さんだつ)の野望を見抜き、強い危機感を抱く。家康の違反行為については三成ら奉行だけでなく、五大老の前田利家も問題視したため、翌慶長4年(1599)2月に家康も自ら非を認めた。しかし、閏(うるう)3月3日に重鎮の前田利家が病没すると、事態は大きく動く。

七将襲撃事件と三成の失脚

利家が逝去した翌日の閏3月4日、7人の武将が石田三成を亡き者にしようと襲撃を仕掛けた。窮地に陥った三成は、あえて伏見屋敷にいた家康に庇護(ひご)を求める。「豊臣家中の分裂をひそかに望む家康は、今ここで分裂の火種である自分に死なれては困るはず」と、三成は読んだ。読み通り、家康は七将を追い返して三成を守るが、代わりに騒ぎの責任をとるかたちで、三成は居城の近江(現、滋賀県)佐和山城に隠退することになってしまう。

家康による有力者追い落としと「直江状」

三成の失脚後、家康は他の有力者を次々と追い落としていく。慶長4年9月には、亡父利家に代わって五大老となった前田利長(としなが)や、五奉行の浅野長政が家康暗殺を企てたとして、利長を屈服させ、長政を流罪にする。また慶長5年(1600)1月には、五大老宇喜多秀家の家中の騒動に介入し、有力家臣たちを離反させて、宇喜多家を弱体化させた。

さらに国許の会津にいる五大老の上杉景勝が謀叛を企んでいるとする讒言(ざんげん)を取り上げ、釈明のために上洛するよう要求。これに対し上杉家重臣の直江兼続(なおえかねつぐ)は、「讒言の真偽も究明せず、一方的に釈明を求めるのは家康に表裏の心があるからではないか」と野心を指摘する書状(「直江状」)を送り、上洛を拒絶する。激怒した家康は上杉討伐を決定、大坂城の豊臣秀頼の名のもとに、諸大名から成る大軍を率いて東国へ向かう。

三成らの挙兵と「東西挟撃策」

家康が東国に下ると、隠退していた三成が動いた。かねてより上杉家と、家康を東西から挟撃する策を取り決めていた三成は、毛利家の安国寺恵瓊(あんこくじえけい)を通じて五大老の毛利輝元を大坂城に入れ、盟友の大谷吉継(おおたによしつぐ)にも協力を要請。吉継は「勝算なし」と一旦はいさめるが、三成との長年の友情を重んじ、ともに起った。

毛利、宇喜多の2人の大老と、三成ら3人の奉行は、家康を弾劾(だんがい)する「内府ちかひ(違い)の条々」を全国の大名に送って、豊臣政権からの家康の排除を公的に示した。毛利輝元を総大将とする西軍の家康への宣戦布告であり、これを機に日本全国が東西両軍に割れることになる。

小山評定と幻となった挟撃策

一方、関東で三成らの挙兵を知った家康は、急遽、下野(しもつけ、現、栃木県)小山で討伐軍の諸将と評定を開き、善後策を諮(はか)る。その席で豊臣家に恩のある福島正則(ふくしままさのり)が先頭切って「三成を討つべし」と吠えたため、上杉討伐の中止と、反転西上して三成ら西軍と戦うことが決まり、討伐軍は東軍に変じた。これに対し、会津で待ち構えていた上杉景勝は家康勢を追うことはせず、東軍に与(くみ)して上杉の背後を脅かす山形の最上義光(もがみよしあき)を攻める。かくして三成との挟撃策は、幻となった。

岐阜落城と南宮山布陣

西軍は上方で家康が預かっていた伏見城を落とすと、3万が伊勢(現、三重県)方面に進出。三成らは東軍との決戦を想定して美濃大垣城に進出するが、総大将の毛利輝元は大坂城から動かない。東軍は尾張(現、愛知県)清洲城に集結すると、8月23日に西軍の岐阜城を攻略。一方、西軍は8月25日に東軍の伊勢安濃津(あのつ)城を落として伊勢を制圧すると、9月7日に約2万が美濃に進軍、大垣城の西の南宮山(なんぐうさん)に布陣した。毛利秀元(ひでもと)、吉川広家(きっかわひろいえ)、安国寺恵瓊、長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)、長束正家らで、大垣城の後詰(ごづめ)とされる。戦機は熟しつつあった。

家康の着陣、そして関ヶ原へ

9月14日、小早川秀秋の軍勢が現れ、南宮山の西、関ヶ原の松尾山に布陣。秀秋はそれまで西軍として行動していたが、旗幟(きし)は不鮮明である。一方、東軍が布陣する美濃赤坂に徳川家康が到着。家康の金扇の馬標(うまじるし)は石田三成らが拠る大垣城からも望め、兵たちに動揺が走る。三成重臣の島(嶋)左近(しまさこん)は、西軍の士気を鼓舞すべく、杭瀬(くいせ)川の局地戦で東軍を破った。その夜、三成ら西軍主力は大垣城を出て、関ヶ原に向かう。理由は一説に、東軍が大垣城を素通りして、西に向かう噂が流れたからだともいう。西軍の移動に気づいた東軍もあとを追い、夜明けには両軍が関ヶ原で対峙(たいじ)することになった。そして9月15日早朝、東西両軍は関ヶ原で戦端を開く……。

最新研究が指摘する通説の数々の誤り

以上が、関ヶ原に至るまでのおよその流れで、たとえば司馬遼太郎の小説『関ヶ原』や、それをもとにした映画やドラマも、ほぼこれを踏襲している。しかし先述した通り、ベースとなっているのは後年に編纂された史料や軍記物などの二次史料であり、最新研究では、数々の誤りがあると指摘されている。渡邊大門『関ヶ原合戦は「作り話」だったのか』を参考に、いくつか見てみよう。

書いた人

東京都出身。出版社に勤務。歴史雑誌の編集部に18年間在籍し、うち12年間編集長を務めた。編集部を離れるも、いまだ燃え尽きておらず、noteに歴史記事を自主的に30日間連続で投稿していたところ、高木編集長に捕獲される。「歴史を知ることは人間を知ること」だと信じている。ラーメンに目がない。