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2019.09.17

小早川の裏切り、毛利輝元の本心…本当の関ヶ原合戦はまったく違っていたんだっ!

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大谷吉継(イラスト:諏訪原寛幸)

七将襲撃の際、三成は家康屋敷に逃げ込んでいない

五大老の重鎮・前田利家が没した翌日、石田三成を7人の武将が討とうとするが、三成はあえて政敵の徳川家康の屋敷に逃げ込んで、難を逃れたと従来語られてきた。ドラマなどでは三成の機転と、家康の本心を見抜いた場面として描かれるが、事実は異なる。実際の三成は伏見城内の自分の屋敷に入って、襲撃に備えていた。また事態の収拾を図ったのが家康であることは事実だが、三成と親しい大谷吉継が、家康寄りの立場で積極的に解決に協力している。この時点で吉継は、家康を豊臣政権の重鎮として支持していたことがわかるという。

「直江状」は実在したのか

難癖をつけてきた家康に対し、野心を指摘して切り返した直江兼続の直江状は、胸のすく話として昔から語られてきた。が、一方で直江状の原本は見つかっておらず、その真偽はいまだに研究者の間でも意見が分かれている。家康が上杉討伐に踏み切っている以上、そうさせるだけの直江の挑発的な返書が実在した可能性はあるが、渡邊氏によるとそもそも上杉討伐は、直江状があろうがなかろうが実行された、家康の既定路線だったと考えられるという。

三成と上杉の「東西挟撃策」はなかった

石田三成が上杉家の直江兼続とともに計画していたという、家康を東西から挟み撃ちにする策。実現していれば、まさに日本の歴史上かつてない大規模な決戦となっただろう。それだけに会津で討伐軍を待ち構えていた上杉景勝が、反転する家康勢に何も手を出さなかったことに首をかしげたくなる。もちろんうかつに追撃すれば、その隙に乗じて北方の最上義光や伊達政宗(だてまさむね)らが上杉領に攻め込む危険性はあった。だが、それ以前の問題として、実は挟撃策そのものが存在していなかったという。

挟撃策が文献に初めてあらわれるのは、関ヶ原合戦から80年後、江戸時代の延宝8年(1680)に国枝清軒(くにえだせいけん)が著した『続武者物語』所収の、6月20日付の石田三成の書状(直江兼続宛)とされるものだ。そこには「家康は一昨日の18日に伏見を出馬し、かねてからの作戦が思うとおりになり、天の与えた好機と満足しています。私も油断なく戦いを準備しますので、(中略)会津方面の作戦を承りたく思います(現代語訳)」とある。文面からは三成が上杉家と歩調をそろえた作戦を計画していたことがうかがえるが、そもそも『続武者物語』の史料としての信憑性は極めて低く、また三成書状とされるものの内容も、同時期の現存する他の三成書状と矛盾しており、偽文書と見て間違いないという。

上田城

たとえば、現存する7月晦日付の信州上田の真田昌幸(さなだまさゆき)宛の三成の書状では、三成は昌幸に挙兵を知らせていなかったことを詫びるとともに、上杉景勝に西軍と連携するよう昌幸から説得してほしいと依頼をしている。つまり三成は、一説に相婿(あいむこ、妻同士が姉妹)で懇意なはずの昌幸にすら事前に挙兵計画を伝えていなかったばかりか、昌幸に上杉の説得を依頼しなければならないほど、上杉との関係にも距離があった。これでは事前に上杉と東西挟撃策を取り決めるなど、ありえなかっただろう。

この他にも、上杉討伐を中止して西軍と戦うことを決めたという小山評定の有無、家康とは別ルートで美濃に向かい、関ヶ原に遅参した徳川秀忠(ひでただ)勢こそが徳川の精鋭部隊だったのか否か、そして関ヶ原で戦いの口火を切った井伊直政(いいなおまさ)の抜け駆けは事実だったのかなど、研究者の間で議論が続いており、従来の関ヶ原合戦像が大きく変わりつつある。

本稿では最後に、合戦の行方を左右した3人のキーマンの真意を紹介したい。いずれも毛利の関係者であり、これも従来の関ヶ原のイメージを変えるものである。

毛利の2人のキーマン・毛利輝元と吉川広家

毛利輝元像

西軍総大将を引き受けた毛利輝元の本心

関ヶ原合戦はある意味、毛利輝元の野心に石田三成らが翻弄されたのかもしれない。
従来、毛利輝元は、三成らと親しい安国寺恵瓊らの後押しで大坂城に入り、西軍の総大将に祭り上げられたかのように語られてきた。本人は乗り気ではなく、だから最後まで大坂城から動かなかったのだ、と。しかし、事実は異なる。輝元は大坂城の奉行らが「内府ちかひの条々」を発すると、広島から僅か2日という異例のスピードで大坂城に入り、甥の毛利秀元も6万の大軍で大坂城に入るなど、極めて積極的であった。生前、豊臣秀吉が「東国は家康、西国は輝元に任せる」と言っていたことから、輝元には「自分は西国の統括者である」という意識が強く、このときも熊本の加藤清正に従うよう促している。ただし、家康と正面から勝負するつもりはなく、むしろ輝元の関心は、戦いに乗じて四国方面など西国に毛利領を拡大することにあった。そんな輝元を、西軍は総大将に据えざるを得なかったのである。

豊臣を好まず、黒田に同意した吉川広家

毛利輝元は、中国の覇者となった毛利元就(もうりもとなり)の孫だが、父・隆元(たかもと)が早世したため、長く二人の叔父の後見を受けた。吉川元春(きっかわもとはる)と小早川隆景(こばやかわたかかげ)である。小早川隆景は豊臣秀吉に信頼され、秀吉の養子であった秀秋を小早川家の養子に譲り受けることになる。一方、吉川元春は秀吉とは距離を置いていた。その元春の息子が吉川広家である。

吉川元春、小早川隆景が没すると、代わりに毛利輝元を支えたのは政僧・安国寺恵瓊と広家であった。秀吉や石田三成と親しい恵瓊に対し、広家は父同様秀吉と距離を置き、恵瓊とも仲が悪かったという。そんな広家に接近したのが、家康シンパの黒田長政(くろだながまさ)である。広家は以前、浅野長政と大喧嘩をしたことがあり、それを仲裁したのが黒田長政だった。以来、広家と親しくなった長政は、西軍が挙兵すると、毛利家の将来のために輝元が家康側につくことを広家に何度も勧め、広家もまた輝元を説得。最初から家康とぶつかる気のない輝元は、西軍総大将でありながら西軍諸将を裏切り、領国の保証を条件に密かに家康と和睦する。それが関ヶ原の決戦前日の、9月14日のことだった。広家はその時、毛利秀元や安国寺恵瓊らとともに南宮山に布陣していたが、秀元や恵瓊に輝元の和睦のことは伝えていない。決戦当日、南宮山の軍勢は広家が抑えて全く動かず、西軍敗北の要因となるが、その裏にはこうした事情があった。

もう一人のキーマン・小早川秀秋

松尾山の小早川陣所跡

19歳の小早川秀秋の決断が、関ヶ原の明暗を分けたことはよく知られている。ある意味、戦いに直接的に関わった最大のキーマンといえるが、彼が東軍に寝返ったのは、戦いがたけなわになった頃合いではなく、もっと早かったようだ。たとえば一次史料の「石川康通・彦坂元正連署状写」には、「戦いをまじえた時、小早川秀秋・脇坂安治(わきさかやすはる)、小川祐忠(おがわすけただ)・祐滋(すけしげ)の四人が(家康に)御味方をして、裏切りをした。そのため敵は敗軍となり」とある。開戦早々の裏切りであれば、秀秋に内応を催促する家康の「問い鉄砲」もなかったことになる。そもそも関ヶ原合戦の様相が、従来語られてきたものと全く異なってしまうだろう。

旗幟不鮮明の小早川秀秋が、決戦前日の14日に松尾山に着陣したことは先述した。同日、東西両軍から秀秋のもとに「味方してほしい」という起請文(きしょうもん)が届けられているところを見ると、やはり前日まで秀秋は去就を明らかにはしていなかったようだ。ただし、小早川家中の意思決定には、稲葉正成、平岡頼勝(ひらおかよりかつ)という二人の重臣の影響力が大きく、しかも二人とも家康派であった。これに度々、東軍への加担を勧めていたのが、またも黒田長政である。秀秋の開戦早々の裏切りが事実とすれば、前日のうちに、黒田と二人の重臣の勧める東軍への内通を、秀秋自身が認めていたということになるだろう。こうして見ると、毛利、小早川を内応させた黒田長政こそ、あるいは東軍勝利の最大の功労者といえるのかもしれない。

関ヶ原合戦の勝敗を決めたものは何だったのか

これまで語られてきたように、東西両軍が一進一退の戦いを続ける中、小早川の裏切りで戦局が一変したという方が、戦いとしてはドラマチックである。しかし実際は、石田三成ら西軍諸将にとって、より非情な展開であったようだ。特に西軍主力であったはずの毛利勢が南宮山から動かず、その理由が毛利輝元の変心と、吉川広家の西軍嫌い(特に安国寺恵瓊に対して)にあったとするならば、西軍にとってはなんともやりきれない話である。

いずれにせよ天下分け目の関ヶ原合戦は、戦略戦術以前に、政治的駆け引きや謀略によって、戦う前に勝敗が決まっていたといえるだろう。それだけに東軍の当事者やその子孫にしても、「本当は武士らしく、正々堂々の戦いの末に勝利を得たかった」という鬱屈した思いがあって、のちにさまざまな脚色が加えられたのかもしれない。また、渡邊氏によると、毛利家の安国寺恵瓊、上杉家の直江兼続らは死後、主君に代わって敗戦の責任を一身に負うスケープゴートにされたという。結局歴史は勝者のものであり、また生き残った者に都合よく改変されていくものであることを、痛感させられる話である。

とはいえ、関ヶ原合戦の研究は途上であり、まだまだ不明な点が少なくない。今後、研究がさらに進み、本当の関ヶ原合戦が詳細に再現され、諸将一人ひとりの思いがより正確に後世に伝わる日が来ることを、期待して待ちたい。

参考文献:渡邊大門『関ヶ原合戦は「作り話」だったのか』、白峰旬『新解釈 関ヶ原合戦の真実』、光成準治『関ヶ原前夜』他

書いた人

東京都出身。出版社に勤務。歴史雑誌の編集部に18年間在籍し、うち12年間編集長を務めた。編集部を離れるも、いまだ燃え尽きておらず、noteに歴史記事を自主的に30日間連続で投稿していたところ、高木編集長に捕獲される。「歴史を知ることは人間を知ること」だと信じている。ラーメンに目がない。