大型台風にも屈しない治水インフラを築いたのは徳川家康だった!

大型台風にも屈しない治水インフラを築いたのは徳川家康だった!

令和元年台風19号は、各地に甚大な被害を与えた。

氾濫した河川も複数あったが、筆者の住む静岡県静岡市の安倍川はそうした災難とは無縁だった。ちなみに、筆者の自宅のすぐ目の前には安倍川沿いの堤防がある。

万が一安倍川が氾濫したら筆者の自宅も無事では済まないはずだが、その心配はしていない。

なぜなら、徳川家康の偉業を信じているからだ。

川の流れを変えた徳川家康

Twitterでこのような投稿が拡散されていた。

徳川家康が利根川の治水工事を行わなければ、東京は水浸しになっていたはずだ。23区の住民は日光東照宮に参拝したほうがいい。

筆者はこの意見に、諸手を挙げて賛成する。

江戸時代以前の利根川は、荒川と合流していた。このような状態で此度の台風19号が上陸してきたら、荒川はあっという間に氾濫してしまうはずだ。しかも徳川家康が指導した治水事業は、これだけではない。家康という人は武田信玄の影響を強く受けた「治水マニア」で、彼のお膝元である駿府即ち現在の静岡市にも巨大堤防を導入した。

いや、それどころではない。家康は安倍川の流れすらも変えてしまった。

静岡市内の「薩摩土手」

安倍川は利根川とは逆で、他の河川と合流することで氾濫の少ない川になった。

家康が工事を指導する以前の安倍川は、現在よりも東寄りに水が流れていた。しかも駿府の中心部で川が複雑に分岐していたから、水害も起こりやすい。

そこで家康は、安倍川をその西側に位置する藁科川と合流させることで、煩雑な河川の一本化を計った。市内葵区に「薩摩土手」と呼ばれる堤防がある。これは徳川が島津に造らせたものだ。島津とはもちろん、薩摩の島津である。

この堤防工事が着手されたのは慶長11年。西暦では1606年だが、考えてみればこの6年前まで島津は徳川に敵対していた。関ヶ原の合戦ではわざわざ徳川本陣の目前を横切るように撤退し、その後も徳川侵攻に備えて領内各地に支城を設けた島津。結局、徳川幕府は島津に手を下すことができなかった。だがそれと引き換えに、島津は幕府主導の公共事業への参加を余儀なくされる。もちろんこれは、手弁当だ。しかしそのような境遇であっても手を抜かないのが、薩摩隼人の特徴でもある。

薩摩土手は、安倍川の流れを大きく変える効果をもたらした。これ以降、安倍川は藁科川と合流することになる。より安全で氾濫の可能性が少ない河川に変貌したのだ。

「大治水時代」の功績

戦国時代は、治水技術の発達期でもあった。

日本は中央に山脈が連なる島国で、そこから流れる河川は細く、短く、荒々しい。同じ川でもナイル川やメコン川などとはその姿が全く異なる。

緩やかに流れる大河から水路を敷いて農業用水にする技術は、エジプト文明やメソポタミア文明を発展させる基礎インフラにもなった。しかし、日本ではそうした技術は求められない。少しの雨でも暴れ出す川をいかに制御するか、というのが日本の治水技術のコンセプトなのだ。

武田信玄のように、領内の平野面積が極端に少ない国の大名であれば尚更治水の重要性にこだわらなければならなかった。日本の戦国時代と安土桃山時代、そして江戸時代初頭は「大治水時代」と呼称しても構わないのでは、と筆者は思案しているがいかがだろうか。

その中で徳川家康は、現代に至るまで住民の命を守り続けている治水施設の建設をいくつも主導した。これはTwitterで拡散されたように、首都圏に住む者は日光東照宮へお礼参りに行かなければならない。

「治水」は数百年がかりの事業

「川沿いの堤防」というのは、日本人にとっては何気ない光景である。

そう聞いて、『3年B組金八先生』のオープニングのようなシーンを想像する人もいるかもしれない。確かに、天候が穏やかであれば堤防はただの通学路、もしくはジョギングコースに過ぎない。そしてできることなら、堤防がその真価を発揮する瞬間は訪れないほうがいい。この先ただのジョギングコースでいてくれれば、我々は枕を高くして眠ることができる。

しかし、日本は台風の通り道に位置する国だ。誰が何を言おうと、列島を台風の来ない海域へ移動させることはできない。

堤防とは究極の災害保険であり、数百年前から継続されている公的扶助事業なのだ。

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