明智光秀はなぜ織田信長を討ったのか?戦国最大のミステリーに迫る!

明智光秀はなぜ織田信長を討ったのか?戦国最大のミステリーに迫る!

まず光秀についてですが、羽柴(はしば)秀吉と並ぶ織田家の出世頭で、2020年の大河ドラマの主人公となる人物ながら、前半生については謎に包まれています。美濃国(現、岐阜県)の生まれであることは間違いないようですが、生年は諸説あり。『明智系図』では享禄元年(1528)とし、それに従えば信長よりも8歳年上になります。明智氏は東美濃の源氏の名族であり、信長の正室濃姫(のうひめ、帰蝶〈きちょう〉)の母親は、光秀の叔母にあたるともいわれますが、確証はありません。

光秀は濃姫の父・斎藤道三(さいとうどうさん)に仕えますが、道三が弘治2年(1556)に息子に討たれると美濃を離れ、越前(現、福井県)の朝倉義景(あさくらよしかげ)のもとに10年ほど身を寄せたとされます。この朝倉義景に上洛援助を求めてきたのが、将軍になる前の足利義昭(あしかがよしあき)でした。しかし朝倉氏は動かず、義昭は次に美濃を攻略した織田信長に支援を求めます。この時、義昭と信長を仲介したのが光秀でした。

永禄11年(1568)、信長は足利義昭を奉じて上洛。義昭を15代将軍の座につけて、室町幕府再興を果たしました。光秀は義昭に仕える奉公衆(幕臣)となっていましたが、信長に有能ぶりを見込まれ、織田の家臣にもなり、義昭とのパイプ役を務めます。その後、義昭と信長が対立すると、光秀は幕臣を辞め、信長の有力家臣となりました

その後の光秀の活躍は目覚ましく、持ち前の教養を活かして公家や豪商、文化人らと親交を結び、交渉事を円滑に進める一方、武将として武功を重ね、信長配下で最初の城持ち大名となります。大坂の石山本願寺攻めや丹波国(現、京都府中部、兵庫県北東部)攻めに従事し、天正7年(1579)には丹波平定を完了。信長は「丹波での光秀の働きは天下に面目をほどこした」(『信長公記』)と絶賛し、この功で34万石の大領主となりました。

本能寺の変の頃には近江(現、滋賀県)坂本城、丹波亀山城(現、京都府亀岡市)の城主であり、組下大名に丹後(現、京都府北部)の細川藤孝(ほそかわふじたか)、大和(現、奈良県)の筒井順慶(つついじゅんけい)らを従える、まさに重臣中の重臣だったのです。

亀岡城(亀山城)跡

次に、本能寺直前の天正10年頃の織田家の状況に触れておきます。同年3月、長年の宿敵であった甲斐(現、山梨県)の武田家を滅ぼし、甲斐・信濃(現、長野県)・駿河(現、静岡県)・上野(こうずけ、現、群馬県)を接収。駿河は同盟者の徳川家康(とくがわいえやす)に与え、重臣の滝川一益(たきがわかずます)を上野に置いて関東の押さえとします。

北陸方面では筆頭家老の柴田勝家(しばたかついえ)が越後(現、新潟県)の上杉景勝(うえすぎかげかつ)領に侵攻、上杉家は信濃、上野方面からも織田勢に圧迫され、風前の灯(ともしび)でした。

中国方面では重臣の羽柴秀吉が備中(びっちゅう)高松城(現、岡山県岡山市)で、中国の覇者・毛利(もうり)軍と対峙(たいじ)。秀吉は5月に信長の出馬を仰(あお)ぎました。ちょうどその頃、徳川家康が駿河拝領の御礼に近江の安土(あづち)城を訪れており、明智光秀は接待役を務めていましたが、信長は秀吉の要請に応えて自らの出馬を決断するとともに、光秀の接待役を解いて、一足先に秀吉の応援に向かうよう命じています。

備中高松城水攻め(岡田玉山『絵本太閤記』国立国会図書館デジタルコレクションより)

そして摂津国(現、大阪府)では、信長の三男・信孝(のぶたか)が重臣の丹羽長秀(にわながひで)に補佐されながら、四国の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)を攻めるべく軍船を調え、渡海しようとしているところでした。

つまり織田軍を率いる重臣たちは全国に散っており、安土から京に出向いた信長の近くにいる有力武将は、中国に出陣する明智光秀だけだったのです。なお安土を訪れていた徳川家康は、本能寺の変が起きた際には、少数の家臣を連れて堺見物をしているところでした。信長もまた、さほど多くない近習や馬廻衆(うままわりしゅう)らとともに上洛して、本能寺で茶会を開き、準備が整い次第、中国に向かう手はずだったのです。信長を討とうとする光秀にすれば、またとない絶好の条件がそろっていたといえるでしょう。

江戸時代から戦前まで信じられた「怨恨」説、戦後の研究から生まれた「野望」説

光秀再び信長公を恨む(岡田玉山『絵本太閤記』国立国会図書館デジタルコレクションより)

では、いよいよ光秀が信長を討った動機について、諸説を検証してみましょう。

まずもっとも古典的といえる説が、光秀が信長を恨んでいたとする「怨恨(えんこん)」説です。映画やテレビドラマで、信長の機嫌を損(そこ)ねた光秀が、打擲(ちょうちゃく)されたり、足蹴(あしげ)にされる場面を観たことがある人も多いでしょう。あるいは光秀が自分の母親を人質にして敵を降伏させたところ、信長が約束を破って敵将を殺したため、母親も敵方に殺されてしまった話や、安土城を訪れた徳川家康の接待に手抜かりがあったとして、信長に満座の中で折檻(せっかん)された話も有名です。

こうした信長の仕打ちを恨んだ光秀が謀叛を起こしたと、江戸時代から語り継がれ、芝居などでも演じられて、戦前までそれが光秀の動機と信じられていました。しかし実は信長のひどい仕打ちが記されているのは、ほとんどすべて後世の編纂(へんさん)物で、光秀が生きた当時の同時代史料からは確認できません。

江戸時代の読み物や芝居が、読者や客の関心を引き、共感を呼ぶために脚色した俗説が流布(るふ)し、ドラマなどで今なお描かれて、私たちもそれを疑わずに事実と信じてしまっているのが現状なのです。光秀は本能寺の変の半年前の茶会の席で、信長自筆の書を掲げています。その姿勢を見ても、直前まで関係は良好だったと考えるべきでしょう。

これに対し戦後、光秀の動機は「怨恨」ではなく「野望」であるとしたのが、歴史学者の高柳光寿(たかやなぎみつとし)氏でした。その著書『明智光秀』(1958年、吉川弘文館)は、確かな史料に基づいて従来の怨恨説を一つひとつ否定し、「光秀は天下を狙った」と結論づけたもので、本格的な光秀研究の端緒となったとされています。「野望」説は今でも影響力を持っていますが、一方で、天下を狙ったにしては、本能寺の変後の光秀の行動があまりに無計画に過ぎるのではないかという疑問が提示されています。

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