明智光秀はなぜ織田信長を討ったのか?戦国最大のミステリーに迫る!

明智光秀はなぜ織田信長を討ったのか?戦国最大のミステリーに迫る!

光秀の背後で糸を引いていたのは誰か? まことしやかに語られる多様な「黒幕」説

野望説に疑問が呈される一方で、次々と主張され始めたのが、光秀の背後には彼を操る黒幕がいたのではないかとする「黒幕」存在説でした。その主なものを紹介してみましょう。

1.朝廷黒幕説

当時、朝廷と信長の間には、さまざまな軋轢(あつれき)があったとされます。信長は正親町(おおぎまち)天皇に譲位を迫り、暦(こよみ)を訂正するよう求めるなど、朝廷に圧力をかけていました。また本能寺の変後、関白や太政大臣を歴任した近衛前久(このえさきひさ)が事件関与を疑われて逃亡、光秀と朝廷の取次役であった吉田兼見(よしだかねみ)は本能寺の変前後の日記を改ざんし、光秀との関係を隠そうとしました。こうした公家たちの不審な動きが、朝廷が光秀の黒幕であったことを示している、というものです。

2.足利義昭黒幕説

室町幕府15代将軍の義昭は、信長と対立して諸国の大名に打倒信長を呼びかけ、自らも挙兵したため、元亀4年(1573)に信長によって京都から追放されました。一般的に室町幕府はこの時に滅亡したとされますが、義昭は将軍職のまま毛利輝元領の備後(びんご、現、広島県東部)で亡命幕府を維持しています。そして2年前(2017)、光秀が山崎の戦いに臨む前日に書いた手紙の原本が見つかり、光秀が「義昭を京都に迎えたい」と書いていることから、その意図は「室町幕府再興」にあったとする見解が示され、話題になりました。

3.羽柴秀吉黒幕説

本能寺の変によって最も得をした者は誰か? となれば、明智光秀を討って天下人となった秀吉になるでしょう。光秀は四国の長宗我部元親と親戚ぐるみの親交を持ち、信長もそれを認めていましたが、信長が元親を見限ると、秀吉は元親の仇敵である三好康長(みよしやすなが)の四国復帰を支援、信長の了承も取り付けて光秀を窮地に陥れました。また、本能寺の変が起きると、秀吉は戦っていた毛利氏と素早く講和を結び、光秀を討つべく現在の岡山市から京都までの約200kmを10日で走破する「中国大返し」をやってのけます。その手回しのよさから、秀吉は光秀が謀叛を起こすよう仕向けていた、とされます。

4.徳川家康黒幕説

信長の同盟者の家康は、かつて正室と長男が武田氏に内通している疑いを信長にかけられ、二人を死なせています。信長への憎しみはあったでしょう。しかしそれ以上に家康を不安にしたのは、武田の滅亡で、東の防波堤役を務めてきた徳川の存在価値が失われたことでした。信長は自分にとって価値がないと見れば手のひらを返すのは、長宗我部の例からも明らかです。実際、宣教師のルイス・フロイスは、信長が家康を殺すつもりではないかと疑い、本能寺に向かう光秀の手勢には「敵は家康」と思い込んでいる者もいたほどでした。危険な状況を打開するために、家康は何らかの方法で光秀に謀叛を起こさせた、とします。

この他にも堺商人黒幕説、イエズス会黒幕説、本願寺黒幕説など、挙げればきりがありませんが、すべての黒幕説に共通するのは「状況証拠」しかないことです。足利義昭説以外の黒幕説で研究者が支持しているものは現在ありません。足利義昭説にも多くの疑問が提示されており、最新研究における大勢は光秀が単独で本能寺を起こしたとしています。

キーマンは光秀重臣の斎藤利三か、それとも信長の非道を阻止するためだったのか

「月下の斥候 斎藤利三」(「月百姿」部分、国立国会図書館蔵)

最後に現在、光秀の動機として可能性が高いと思われる二つの説を紹介しましょう。

四国問題と斎藤利三関与説

一つは、すでに触れた四国の長宗我部問題と、光秀重臣の斎藤利三(さいとうとしみつ)が本能寺の変に大きく関わっているというものです。

当初、信長は土佐(現、高知県)から四国制覇を目指す長宗我部元親に友好的でした。というのも、信長は大坂の本願寺と10年に及ぶ戦いを続けており、元親は四国から本願寺の背後を脅かす存在として貴重だったのです。信長は元親の四国統一を認めていました。ところが天正8年(1580)に本願寺と講和すると、信長は元親への態度を一変し、土佐の他は阿波(現、徳島県)半国の領有しか認めないとしたのです。元親と信長の取次役を務めていた光秀は面目を失い、元親は信長と決裂しました。特に困ったのは斎藤利三です。実は元親の正室は利三の義妹、元親の長男の正室は利三の姪で、長宗我部と明智家中は血縁関係で結ばれていました。信長は四国攻めを計画しますが、光秀にすれば長宗我部を攻める事態は何としても避けたかったのです。

そんな最中、今度は斎藤利三自身が信長の標的となります。利三はもともと同じ織田家中の稲葉一鉄(いなばいってつ)に仕えていましたが、一鉄と喧嘩し、光秀の家臣となりました。本能寺直前の天正10年、那波直治(なわなおはる)がやはり一鉄のもとを去り、光秀に仕えます。利三の引き抜きによるものでした。これに一鉄が怒って信長に訴え、信長は光秀に那波を一鉄のもとへ戻し、利三には切腹させるよう命じます。その後、利三は助命されますが、フロイスは『日本史』に抗弁した光秀を信長は足蹴にしたと記しました。事実かはともかく、四国問題と重臣利三への厳罰が、光秀に謀叛を決意させたとします。

本能寺(写真:寿福 滋)

信長非道阻止説

もう一つは、信長による数々の暴挙(とりわけ朝廷の権威に対して)を見かね、これ以上の非道を阻止するために討ったとするものです。

光秀は本能寺の変の翌日に出した手紙に「信長父子の悪虐(あくぎゃく)は天下の妨(さまた)げ、討ち果たし候(そうろう)」と記しました。悪逆非道の具体的な内容は、「①信長による皇位簒奪(こういさんだつ)計画、②暦への口出し、③源氏でないにもかかわらず将軍に任官、④太政大臣近衛前久への暴言、⑤天皇から国師号を授けられた高僧・快川紹喜(かいせんじょうき)の焼殺、⑥安土城に御所清涼殿(せいりょうでん)を模した本丸御殿を造営(天皇行幸の際は、天皇を天主から見下ろすことになる)」などとされます。

朝廷黒幕説の内容ともかぶりますが、あくまで光秀の意思で信長を討ったとするものです。もっとも、暦は当時京都で用いていたものが現状にそぐわなくなっていたことは事実ですし、信長は皇室を敬っていたとする論者も多くいます。近衛への暴言は『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』に載るもので、同時代史料では確認できません。なお、ルイス・フロイスの『日本史』も同時代史料ではないことを付け加えておきます。

日本史上の一大ターニングポイントが本能寺の変だった

歌川国芳「大江山入之図」(部分)

さて、いかがだったでしょうか。明智光秀本人が動機を明確に語っておらず、本能寺の変の真相については状況証拠から探らざるを得ないのが現状です。しかし本能寺の変が起きたからこそ、信長の後継である秀吉政権と、それに対抗する家康政権が誕生したわけで、まさに日本史上における「一大ターニングポイント」であることは間違いありません。さらに重臣明智光秀がなぜ信長を討ったのかを探ることは、信長政権がどんな性格のものであったのかを読み解く上で重要であり、今も多くの研究者が取り組んでいます。

蛇足ながら、私の空想もつけ加えておきましょう。高い教養があり、武将としても一流であった光秀。いかに乱世とはいえ、主君信長を討てば、「主(あるじ)殺し」の汚名をかぶることになるのは承知していたはずです。それでもあえて謀叛に踏み切ったのは、それが信長よりも上位の存在の意を汲んだ行動であると信じたからではないでしょうか。つまり、信長を討った後、「これは正当な行為だった」と皆が納得し、汚名の払拭(ふっしょく)が担保されているからこそ、変後の周到な準備もあまり必要ないと考えたのではないか。

光秀は老の坂から京の本能寺を目指しました。この地は二人の源氏の武将と縁があります。老の坂とは大枝(おおえ)山を指し、これは「酒呑童子」で有名な大江山のことだともいわれます。この地で平安の頃、天皇の命を受けた源頼光(みなもとのらいこう)が悪鬼の酒呑童子を退治しました。また鎌倉時代末期には、後醍醐(ごだいご)天皇の意を奉じた源氏の足利高氏(あしかがたかうじ)が、この地から京に攻め込み、幕府の拠点・六波羅探題(ろくはらたんだい)を壊滅させています。老の坂を下り、京の本能寺を目指す源氏の将・明智光秀の脳裏にあったものは果たして何であったのか。

皆さんはどう考えますか?

参考文献:日本史史料研究会編『信長研究の最前線』(洋泉社)他

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