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2019.09.02

幕末最大の謎、龍馬暗殺事件。近江屋で何が起きたのか?黒幕はいたのか?徹底調査

この記事を書いた人

歴史上の人物の中で、とりわけ日本人に人気の高いのが幕末の志士・坂本龍馬(さかもとりょうま)でしょう。「尊敬する偉人」のランキングなどでも、たいてい1位に輝きます。司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』を読んで、好きになったという人も多いようです。

しかし、龍馬は明治維新を目前にして、何者かによって暗殺されました。龍馬を襲ったのが誰なのかについては、いまだ諸説あり、謎に包まれているのです。そこで和樂Web「日本史3大ミステリーシリーズ」最終回となる第3回では、龍馬暗殺の概略と諸説を紹介しながら、事件の真相に迫ってみたいと思います。ぜひ皆さんも推理してみてください。

■第1回
卑弥呼でおなじみ「邪馬台国」はどこにあった? 古代日本史ミステリー
■第2回
本能寺の変はなぜ起きた?徹底解説!明智光秀が織田信長を討った理由とは

暗殺事件は一瞬の出来事だった

龍馬暗殺(イラスト:森 計哉)

慶応3年(1867)11月15日は、太陽暦では12月10日にあたります。朝から午後まで雨、後に曇りという寒い一日だったその夜。京都河原町蛸薬師(たこやくし)下ルの醤油商・近江屋新助方の二階で、坂本龍馬は来訪した同じ土佐(現、高知県)の中岡慎太郎(なかおかしんたろう)、岡本健三郎(おかもとけんざぶろう)と話をしていました。二階には龍馬の家来・藤吉(とうきち)も同居しており、近所の書肆(しょし)菊屋(中岡の宿所)の倅(せがれ)・峰吉(みねきち)が、中岡に手紙を届けに来ていました。やがて龍馬が「軍鶏(しゃも)鍋が食べたい」と言うので、峰吉が近所の店に肉を買いに行き、一緒に岡本も辞去します。

その少し後、数名の武士が龍馬を訪ねて来ます。階下で取り次いだ藤吉が階段を上がると、背後からいきなり斬られて転倒。その物音に、藤吉と峰吉が遊んでいると勘違いした龍馬は「ほたえな(騒ぐな)」と叱りました。直後、二人の武士が龍馬と中岡のいる座敷に殺到。火鉢を挟んで座っていた龍馬と中岡に斬りつけ、龍馬は額を割られます。それでも龍馬は背後の床の間にある刀を取ろうとしますが、背を袈裟(けさ)斬りにされ、さらに三太刀目を鞘のまま刀で受けますが、敵の刀が再び頭部を斬り、昏倒。中岡も後頭部に重傷を負いました。刺客たちは二人が動かなくなるのを見届け、立ち去ります。ほんの一瞬の出来事でした。

龍馬絶命の詳細

刺客たちが去ると、龍馬は意識を取り戻し、「残念、残念」「慎太、手は利(き)くか」と中岡を気遣い、階下の店の者に「医者を呼べ」と声をかけ、「わしゃあ脳をやられた。もういかん」と言って絶命したといいます。この日は龍馬33歳の誕生日でした。なお藤吉は翌日、中岡は翌々日に死去します。中岡享年30、藤吉享年20。龍馬と中岡らが殺害された近江屋跡は現在、河原町通の繁華街で、石碑のみが事件を伝えています。

坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地碑

事件直後から流れた奇妙な風説

近江屋古写真(国立国会図書館蔵)

寺村左膳の日記

事件の報せは、すぐに土佐藩をはじめ、各方面に伝わりました。龍馬らが襲われたことを、近江屋の主人・新助や峰吉らが近所の土佐藩邸や白川の陸援隊(中岡が組織した武力討幕のための浪士隊)屯所(現、京都大学農学部付近)に急報し、駆けつけた土佐藩関係者が、まだ息のあった中岡から事件の様子を聞くことができたからです。事件当日に報せを受けた土佐藩側用役・寺村左膳(てらむらさぜん)は、その日の日記に次のように記しています。

「子細は坂本良(龍)馬、当時変名才谷楳太郎(さいだにうめたろう)、ならびに石川清之助(いしかわせいのすけ、中岡の変名)、今夜五ツごろ(20時頃)、両人四条河原町の下宿に罷(まか)りあり候(そうろう)ところ、三、四人の者参り、(中略)やにわに抜刀にて才谷、石川両人へ切りかけ候ところ、不意のことゆえ、両人とも抜き合い候間もこれなく、そのまま倒れ候よし。下男もともに切られたり。賊は散々に逃げ去り候よし。才谷は即死せり。石川は少々息は通い候に付き、療養に取り掛かりたりという。多分、新撰組等の業(わざ)なるべしとの報知なり」(『寺村左膳道成日記』)。

新選組局長近藤勇

その日のうちに、かなり正確に情報が伝わっていたことに驚かされますが、注目すべきは最後の「多分、新撰組のしわざであろうとの報せであった」という部分です。事件直後、土佐藩関係者はまず、幕府方の警察組織である新選組を疑っていたことがわかります。ただし、襲撃された中岡自身は、「敵を知らず」と伝えていました。少なくとも顔見知りの者の襲撃ではなかったのです。

奇妙な風説

一方で別の、奇妙な風説も流れていました。
・「坂下(本)龍馬、暗殺に逢う。(中略)けだし龍馬を刺すは土州人(土佐藩士)なり」(肥後藩士上田久兵衛〈うえだきゅうべえ〉『日録』12月4日)。
・「元来、土佐の内間探索候ところ、藩士二気にあい分かれ、(中略)梅太郎(龍馬)となおまた今一手とは、たちまち不和を生じ、ほとんど殺伐の次第に及ばんとする」「おそらく右(龍馬)切害人は、宮川(助五郎、土佐藩士)」(鳥取藩『慶応丁卯(ていぼう)筆記』)。
・「坂本を害(がいし)候も薩人(薩摩藩士)なるへく候」(『改訂肥後藩国事史料』12月9日)。
つまり龍馬と中岡を殺害したのは、所属する土佐藩、もしくは龍馬の同志であったはずの薩摩藩であったろう、とするものです。なぜ、そうした風説が他藩で流れることになったのか、まず龍馬の来歴と当時の状況を紹介しておきましょう。

勝海舟の弟子が目指した海軍創設と、希望を託した薩長同盟

龍馬のふるさと・高知の桂浜

土佐藩主山内(やまうち)家は、関ヶ原合戦で滅んだ長宗我部(ちょうそかべ)氏に代わって、土佐に入った家です。そして山内家では藩士を、本来の山内家臣を上士、新たに仕えた長宗我部旧臣らを郷士(下士)として厳しく線引きしました。龍馬は郷士の出身です。郷士はしいたげられ、意見を言うことも許されません。やがて黒船来航の危機感から諸藩の下級武士が行動を起こし始めると、郷士たちは次々と脱藩します。もちろん脱藩は大罪ですが、国許にいても郷士が陽の目を見ることはないためでした。龍馬も28歳で脱藩します。

勝海舟(イラスト:森 計哉)

龍馬が脱藩した文久2年(1862)当時は、2年前に幕府大老の井伊直弼(いいなおすけ)が討たれた桜田門外の変の影響もあって、幕府批判と攘夷(じょうい、外国勢力を打ち払うこと)実行が、龍馬周辺の下級武士の間でも叫ばれていました。ところが龍馬は面白いことに、幕府旗本の勝海舟(かつかいしゅう)に弟子入りします。アメリカを見てきた勝から「本気で攘夷をやるなら、海軍をつくり、諸外国が日本に手を出せないようにすることだ」という話をされ、目を見開かされたからでした。以後、龍馬は勝の海軍塾の塾頭となり、元治元年(1864)には勝が開いた幕府の神戸海軍操練所の中心メンバーとなります。

しかし同年、反幕府急先鋒の長州藩が、幕府方勢力を排除しようと京都に攻め込む禁門の変を起こし敗退。神経をとがらせた幕府は、操練所の学生に長州に同情する者が多いとし、勝を罷免(ひめん)、操練所を閉鎖します。大局を見ない幕府に失望した龍馬は、勝の伝手(つて)で仲間たちと薩摩藩を頼り、翌慶応元年(1865)に長崎で貿易・海運商社の「亀山社中(しゃちゅう)」を設立。その目的は操船術の習熟とともに、外国から最新の武器を薩摩藩名義で購入し、孤立する長州藩に横流しすることで、犬猿の仲の両藩の融和を図ることにあったといいます。

薩摩藩家老・小松帯刀

そして龍馬や土佐脱藩の中岡慎太郎らの斡旋(あっせん)もあり、慶応2年(1866)1月21日、京都の薩摩藩家老・小松帯刀(こまつたてわき)邸にて、龍馬立ち会いのもと、薩摩の小松帯刀、西郷吉之助(さいごうきちのすけ、隆盛)らと長州の桂小五郎(かつらこごろう)らとの間で「薩長同盟」が結ばれました。内容は、これから行われる幕府による長州征伐において、薩摩が軍事的・政治的援助を長州に与える取り決めで、両藩の提携が維新に向けての大きな希望の一歩となります。

指名手配、紀州藩との対決、そして「船中八策」

伏見の寺田屋

薩長同盟が締結された直後のことでした。龍馬は伏見の旅籠(はたご)寺田屋に宿泊中、深夜に伏見奉行所の捕方(とりかた)に踏み込まれます。「薩摩藩士を名乗る怪しい浪人者」とにらまれたためでした。龍馬は左手に負傷しながらも数発ピストルを撃ち、捕方がひるんだところを屋外に脱出、薩摩藩の伏見屋敷にかくまわれて九死に一生を得ます。しかし脱出時の銃撃で捕方が2人死亡したため、龍馬は「殺人指名手配犯」となりました。

土佐藩参政・後藤象二郎

翌慶応3年(1867)1月、長崎で龍馬に意外な人物が接近してきます。土佐藩参政(さんせい)後藤象二郎(ごとうしょうじろう)。参政とは藩行政の最高責任者で、藩主に次ぐ地位です。土佐藩では前藩主・山内容堂(やまうちようどう)が実権を握り、政治的スタンスは、あくまで徳川幕府支持でした。しかし、前年に幕府は長州征伐に失敗し、薩摩、長州が勢いづく中、土佐としても彼らとのパイプを欲したのです。それが龍馬であり、中岡慎太郎でした。土佐藩は龍馬、中岡の脱藩の罪を許し、龍馬の亀山社中を「海援隊(かいえんたい)」、また、後に中岡が結成する浪士隊を「陸援隊」と名づけて、藩の外郭団体とするのです。

同年4月、思わぬアクシデントが龍馬を見舞います。長崎から大坂へ荷物を運んでいた海援隊のいろは丸が、備後(びんご、現、広島県東部)沖で紀州藩の大型船と衝突、沈没したのです。相手は徳川御三家の紀州藩であり、海援隊に勝ち目はないと思われましたが、龍馬は談判の場を長崎に置き、航海法とイギリス海軍の助言も得て、紀州藩に勝利。同藩は8万両の賠償金を支払うことになりました。「紀州藩はこれで龍馬を憎んだ」ともいわれます。

龍馬がいろは丸事件で長崎にいる頃、京都では政局が大きく動いていました。14代将軍家茂(いえもち)の死去を受け、徳川15代将軍に就任した慶喜(よしのぶ)が政治的独走を始めていたのです。西郷ら薩摩藩は歯止めをかけようとしますが、慶喜の政治力に圧倒され、徳川の支配が再び強化されかねないと危惧。「武力討幕」の意思を固めるに至りました。

坂本龍馬像(長崎市)

一方、土佐藩前藩主の山内容堂は倒幕の機運が高まる中、徳川を救う新機軸を求め、長崎にいる後藤象二郎に上洛を命じます。後藤は龍馬に同行を依頼、大坂に向かう船中で龍馬がまとめたのが「船中八策(せんちゅうはっさく)」と呼ばれる政策論でした。眼目は幕府の政権を朝廷に返還し(大政奉還〈たいせいほうかん〉)、新たに二院制議会を設け、人材を登用し、公議によって政策を決めるというもので、「公議政体論」と呼ばれます。これならば徳川も一大名として政権に加わることが可能で、龍馬のプランに驚いた後藤は、すぐに山内容堂に提案、容堂も喜び、「公議政体論」を土佐藩の藩論とすることに決まりました。

佐幕か、武力討幕か、公議政体か

中岡慎太郎

「公議政体論」を得た後藤は同年6月22日、龍馬や中岡慎太郎を連れて、薩摩藩の小松、西郷、大久保一蔵(おおくぼいちぞう、利通)らと会い、同意を求めます。薩摩側は土佐側の顔を立てて一応「薩土盟約」を結びますが、西郷らはすでに武力討幕に方針を決めており、また土佐藩内にも武力討幕を主張する者は少なからずいました。同席していた中岡も実は強硬な武力討幕論者です。そもそも誰もが「将軍慶喜が大政奉還を行うはずがない」と考えており、武力討幕準備に本腰を入れる薩摩は、9月上旬に盟約を破棄するに至りました。

龍馬もまた大政奉還の難しさは承知しており、後藤を後押しして10月3日に大政奉還建白書を幕府に提出するものの、いつでも武力討幕に転じることができるよう準備しています。ところが10月13日、将軍慶喜は大政奉還を承諾、14日に朝廷に奉還を上奏しました。この歴史的な決断に龍馬は「慶喜公のために一命を捨てよう」と感激します。が、同日、朝廷工作によって薩摩、長州に「討幕の密勅」が下っていました。大政奉還の実現で討幕の密勅は空振りとなり、薩摩としては「余計なことをしてくれた」という思いが強かったでしょう。

「新政府綱領八策」(国立国会図書館蔵)

薩摩藩らの討幕派が苦々しい思いでいる一方、幕府に仕える者たちの多くも、大政奉還を苦々しく思っていました。幕府を支持する「佐幕派」の人々にとって、代々仕えてきた幕府が消滅するなど、あり得ないことなのです。それを龍馬はどう感じていたかはわかりませんが、同年11月、新政府のあり方を示す「新政府綱領八策」を記し、首班となる人物を伏せ字で「○○○自ら盟主となり」と書いています。○○○は前将軍慶喜の可能性が高いとされ、もしそうであるならば、慶喜の政治力を警戒する薩摩にとって、慶喜を新政府の首班とする龍馬の構想は認めがたいことでした。この直後の11月15日、龍馬は暗殺されるのです。

現場の遺留品から、実行犯7つの説をしぼり込む

坂本龍馬(イラスト:森 計哉)

上記のように、暗殺される直前の龍馬は、ある意味誰に狙われてもおかしくないといっていい状況にありました。そのため当時から現代に至るまで、さまざまな犯行説が唱えられています。まず実行犯の主な7つの説を列挙してみましょう。

1.新選組説

事件当日の土佐藩重役・寺村左膳の日記に記され、その後も新選組説を信じる土佐藩関係者は少なくありませんでした。なかでも海援隊関係者は、いろは丸事件で賠償金を支払わされた腹いせに、紀州藩が新選組を動かして暗殺させたと考えています

2.京都見廻組説

新選組同様、幕府の警察組織で、幕臣で構成されていました

3.中岡慎太郎説

討幕論の中岡が公議政体論の龍馬と論争の末、斬り合ったとします

4.土佐藩討幕派説

鳥取藩の『慶応丁卯筆記』が記す、土佐藩士宮川助五郎を主犯とします

5.中岡暗殺巻き添え説

実は刺客が襲ったのは中岡の方で、龍馬は巻き添えだったとします

6.御陵衛士(ごりょうえじ)説

伊東甲子太郎(いとうかしたろう)を長とする新選組の分派で、新選組を裏切り、薩摩藩に取り入る手土産代わりに龍馬を斬ったとします

7.薩摩藩刺客説

人斬り半次郎こと中村半次郎ら薩摩藩士が刺客になったとします

実は事件現場には犯人の遺留品がありました。『慶応丁卯筆記』が「刀之鞘 壱本 但(ただ)し 黒塗」と記すように、現場に刀の鞘(さや)が一本落ちていたのです。このことからも殺害に第三者が介在していることは間違いなく、まず③の相討ち説は消えます。

御陵衛士屯所跡

さて、土佐藩士らは新選組の犯行と目星をつけ、遺留品の鞘を元新選組の御陵衛士に見せて、見覚えはないかと問います。彼らは首をひねったあげく、幹部の原田左之助(はらださのすけ)の物ではないかとしました。しかし新選組には150人以上の隊士がおり、誰の鞘かを特定するのはまず困難で、御陵衛士の証言は極めてあやふやです。が、土佐藩士らは、これで新選組の犯行と決めつけました。ちなみに原田は一年前、三条大橋の制札(せいさつ)場で、制札を抜いて捨てた複数の土佐藩士を新選組が取り押さえ、宮川助五郎を捕縛した際の指揮官です。場数を踏んだ人物だけに、現場に鞘を置いてくることはあり得ないでしょう。

しかも新選組は当日夜、会合を開いており、アリバイがあります。①の新選組説は消えるでしょう。また原田の鞘と証言した御陵衛士は当時、新選組の近藤勇暗殺計画を進めており、彼らが龍馬を襲う余裕はなかったと考えられます。さらに殺害現場が龍馬の隠れ家であることから、犯人のねらいが中岡だったとは考えにくいでしょう。そして中岡は「敵を知らず」と証言しています。土佐の宮川助五郎は顔見知りでした。そもそも宮川が龍馬をねらうならまだしも、同じ討幕論者の中岡を斬る理由がありません。従って④⑤⑥の説が消え、残るは②京都見廻組説と⑦薩摩藩刺客説になります。顔見知りという点では薩摩の中村半次郎もそうなのですが、保留。理由は後述します。その後、明治に入り元見廻組が口を開きました。

事件の詳細を語る2人の元京都見廻組

今井信郎

「坂本龍馬を殺害の義は、見廻組与頭(くみがしら)佐々木只三郎(ささきたださぶろう)より差図にて(中略)きっと召し捕り申すべく、万一手余り候節は討ち果たし申すべき旨(むね)、達しこれあり」

明治2年(1869)、箱館戦争で降伏した元京都見廻組の今井信郎(いまいのぶお)は、兵部省の取調べで龍馬暗殺に関わったことを明かしました。今井の供述では7人の見廻組が実行し、自分は見張り役だったので殺害状況はわからないとしています。今井以外のメンバーは、すでに全員戦死していました。

ところが約30年後の明治33年(1900)、今井は「実は龍馬を斬ったのは自分だ」とする談話を発表しました。そこでは実行者は4人。今井、渡辺吉太郎(わたなべよしたろう)、桂早之助(かつらはやのすけ)にあと一人。あと一人は存命中なので名を明かせないとします。今井は自分が龍馬を斬ったとし、渡辺が現場に刀の鞘を置いてきたと話しました。

渡辺篤

この今井の記事を知って、もう一人の元見廻組が口を開きます。渡辺篤(わたなべあつし、当時一郎)という人物でした。渡辺篤は、今井が語る渡辺吉太郎とは別人で、龍馬襲撃に自分も加わっていたとし、今井の「渡辺が鞘を置いてきた」という表現が、子孫が自分の不始末と誤解しかねないので、真実を語ることにしたといいます。渡辺は死去する一年前に家族や門弟に語り残しており、今井のいう存命中の一人が、この渡辺篤であると考えられます。

渡辺篤によると、襲撃は佐々木只三郎を頭とする計6名とも7名とも。近江屋の階下の見張りに2人を置き、4人(ないし5人)が二階に上がりました。そのメンバーは佐々木、渡辺篤、世良敏郎他。今井の証言を信じれば、ここに今井信郎も加わることになります。そして渡辺は、「剣術の修行が浅い世良が現場に鞘を残した」と明かしました。世良は確かに見廻組に在籍しており、襲撃の帰り道、仲間が固まって歩いて世良の抜き身の刀を人目から隠し、世良は興奮のためか呼吸困難になったと渡辺は語っていて、リアリティがあります。

いずれにせよ、今井、渡辺篤の証言は内容に多少の違いはあるものの、当事者でしか知りえない情報が多く含まれており、「龍馬暗殺の実行者は京都見廻組であった」と現在、多くの研究者が認めています。とはいえ、これですべての謎が氷解したわけではありません。

見廻組は誰の命令で動いたのか? なぜ「暗殺」なのか?

若年寄格・永井尚志

事件の前日。龍馬と親しい伏見寺田屋の女将登勢(とせ)が彼の身を案じ、下宿(近江屋)でなく土佐藩邸に移るよう勧めたところ、「幕府若年寄格の永井玄蕃頭尚志(ながいげんばのかみなおゆき)と京都守護職の松平容保(まつだいらかたもり、会津藩主)らに面会しており、今では何も心配することはない」と返事をしたといいます。実際、幕府重臣の永井は大政奉還推進論者で、龍馬が「同志」と考える間柄でした。親しく接するうちに、龍馬が「殺人指名手配犯」として追われている罪も許すという口約束があったのかもしれません。龍馬はそれに安心し、堂々と幕府関係者に会って、今後のことを相談していた可能性があります。ただし松平容保が面会した記録はなく、龍馬は会津藩の要職と会ったのでしょうか。

会津藩が本陣を置いた京都の金戒光明寺

一方、見廻組佐々木只三郎の実兄で、会津藩公用方を務めていた手代木直右衛門(てしろぎすぐえもん)は晩年にこう語っています。「只三郎は見廻組の頭として在京していたが、某諸侯の命を受け、壮士二人を率いて、蛸薬師にある坂本の隠れ家を襲い、斬殺した」(『手代木直右衛門伝』)。この某諸侯は京都守護職松平容保であるとも、京都所司代松平定敬(さだあき、容保の実弟)であるともされます。いずれにせよ、「公議政体派」の龍馬が若年寄格の永井と親しく交わる一方で、治安維持をになう「佐幕派」の幕府機関は、指名手配犯の龍馬を追捕しようとし、その命令を受けた見廻組が実行に動いたことになるでしょう。

しかしそうであるならば、京都見廻組の行動は警察行為の「公務」であり、「暗殺」には当たりません。実際、見廻組の渡辺篤は龍馬暗殺後に論功行賞があったことも語っていますから、なおさらです。ただし、夜間に龍馬の宿所に踏み込み、素早く斬って立ち去る見廻組のやり方は暗殺そのものでした。それについては2つの理由が考えられます。

一つは奉行所の捕方を動員して捕縛する伏見寺田屋の時と同じ方法では、また逃げられてしまう恐れがあること。もう一つは大がかりな捕り物をすれば、目の前の土佐藩邸が気づき、土佐藩ともめる可能性があることでした。土佐藩は公議政体を藩論とし、幕府に友好的です。中には討幕論者もいて一枚岩ではありませんが、幕府方としては余計な刺激を与えずに、危険分子の龍馬(と佐幕派は思っていたようです)のみ捕殺できればよいと考えたのでしょう。

結局、龍馬暗殺は暗殺ではなく、指名手配中の龍馬を幕府の警察組織が発見し、逃亡されないよう京都見廻組が宿所に踏み込んで殺害した、治安維持活動の一環であったという図式になります。これで「すべて解決した」と言うことも可能ですが、それならばなぜ、事件直後に土佐藩や薩摩藩が疑われたのでしょうか。実は不可解な点がまだ残っているのです。

龍馬殺害に黒幕はいなかったのか?

殺害者は見廻組であっても、見廻組を間接的に動かした存在がいたのではないか。たとえば龍馬の居場所をリークし、自分の手を汚さずに、邪魔な存在を消したのでは? そんな疑いから生まれた二つの黒幕説を紹介しましょう。

沈黙を守る後藤の謎「後藤象二郎黒幕説」

維新後の後藤象二郎

龍馬の後押しで大政奉還を実現させた立役者というべき後藤象二郎。ところが龍馬が殺害されると、なぜか沈黙を守ります。この後藤の不可解な態度から、「後藤は大政奉還の発案を自分の手柄としたいがために、刺客に龍馬を殺させたのではないか」という疑いが生じました。しかし龍馬の案は後藤以外の人間も知っており、龍馬一人を殺したところで後藤が手柄を独り占めにできるとは考えにくいでしょう。ただ、龍馬は大政奉還直前まで、後藤の尻を叩く一方、武力討幕も視野に入れた「和戦両様」の構えでした。何より大政奉還を実現させようとする後藤にすれば、龍馬は信頼し切れず、快く思っていなかった可能性はあります。

福岡藤次

また後藤と同じ土佐藩参政の要職にあった福岡藤次(ふくおかとうじ、孝弟〈たかちか〉)は、公議政体論者で、龍馬の下宿近江屋の二軒隣に家を借り、龍馬とも親しく接していました。実は事件当日の午後、龍馬は福岡の下宿を訪ね、不在であったため、居合わせたお嘉代(かよ、後の福岡夫人)に近江屋に遊びに来るよう誘いますが、なぜか福岡の従者が止めています。その夜、福岡が帰宅すると、すでに龍馬は殺害されていました。しかし「坂本が殺された時、隣に福岡が下宿していたが見舞いもしなければ会葬もしない。どうも彼の気が知れない」と陸援隊にいた田中顕助(たなかけんすけ)が語っています。そのことをお嘉代が問うと、福岡は「お前の知ったことか」と激怒しました。この福岡の不可解な態度は何を意味するのでしょうか。

そして事件当日に「新選組のしわざであろう」と日記に記した土佐藩側用役の寺村左膳。彼も公議政体論の支持者ですが、日記にこう書いています。「龍馬も中岡もこうした時勢なので藩は寛大にも黙認しているが、もともと脱藩者であり、いまだ復籍もしていないので、今回の事件について藩は表向き何ら関知しない」。龍馬も中岡も脱藩の罪はすでに赦免されていたはずですが、寺村は復籍していないとし、事件についてもはなはだ冷淡な態度です。

土佐藩大政奉還建白書写。寺村、後藤、福岡らの署名はあるが、もちろん龍馬の名はない(国立国会図書館蔵)

思えば後藤も福岡も寺村も、土佐藩の上士です。対する龍馬や中岡は脱藩した郷士。その郷士風情がたまたま時流に乗じ、公議政体論などでちやほやされて上士と対等に接しているが、藩政の主導権はあくまで上士のものという根深い階級意識はあったでしょう。そうした意識が、諸勢力から狙われる龍馬を擁護せず、事件も関知せずという態度にしたのかもしれません。

不幸中の大幸なり「薩摩藩黒幕説」

中村半次郎

先述した殺害実行犯7つの説において、「薩摩藩刺客説」は保留にしました。人斬り半次郎こと中村半次郎は龍馬や中岡の顔見知りで、実行犯とは考えにくいのですが、半次郎が顔見知りを暗殺した実例があるのです。兵学者赤松小三郎(あかまつこさぶろう)の暗殺でした。

赤松小三郎の名は、それほど広く知られていないかもしれません。信州上田藩士の赤松は江戸で数学、西洋兵学を学び、勝海舟の弟子になって長崎海軍伝習所でも新知識を吸収。慶応2年に京都で英式兵学の私塾を開くと評判を呼び、その後、薩摩藩に招かれて兵学教授となった英才です。中村半次郎も教え子の一人でした。慶応3年5月、赤松は政治を一新させる建白書を福井藩主の松平春嶽(まつだいらしゅんがく)と薩摩藩国父の島津久光(しまづひさみつ)に提出。内容は天幕一和という大政奉還に近い考え方のもと、議政局を設けた議会政治を提案するもので、卓見でした。龍馬の「船中八策」の1ヵ月前のことです。

同年9月、赤松は藩の命令で国許に帰ることになり、京都市中で挨拶まわりをしていた白昼、中村半次郎ら2人の薩摩藩士に暗殺されました。理由は薩摩藩の軍事機密を知っていたことと、龍馬と似た公議政体論者であったためとされます。半次郎は面が割れており、失敗すれば薩摩は糾弾(きゅうだん)されますが、半次郎には失敗しない自信があったのでしょう。いざとなれば恩人でも躊躇(ちゅうちょ)なく暗殺する、薩摩の姿勢が見て取れます。中岡が「敵を知らず」と言い、現場に鞘を落としていることから、龍馬殺害を半次郎とするのは考えにくいですが、必要とあれば薩摩は「やりかねなかった」とはいえるでしょう。

西郷吉之助

次に西郷吉之助が龍馬の死に関して、薩摩藩の蓑田伝兵衛(みのだでんべえ)に宛てた手紙を紹介してみましょう。

「坂本龍馬、石川誠之助(中岡)の両人暗殺に逢い、(中略)後藤(象二郎)にも俗論よりは怨(うらみ)を受け既に危うき場にも陥(おちい)り候次第にて、此(こ)の上は正義の党(薩摩藩ら武力討幕派)と結合申さず候わでは致し方なき次第にて、(中略)土州(土佐藩)に取りては不幸中の大幸と相成り、天下の大慶に御座候」

龍馬が殺されたことで、公議政体論の後藤の立場も危うくなり、この上は土佐藩も武力討幕一本にせざるを得なくなった。これは土佐藩にとって不幸中の幸いであり、天下にとっても良いことだ、という意味です。つまり、薩摩藩が進める武力討幕が絶対であり、土佐はそれに乗り遅れなくて良かったなと言っているわけで、武力討幕への西郷の不退転の信念とともに、龍馬暗殺などは「大事の前の小事」というニュアンスが伝わってこないでしょうか。

最後に、龍馬が書いた手紙の一節です。幕府の捕吏が龍馬を追っていることをつかんだ薩摩藩の吉井幸輔(よしいこうすけ)が、大政奉還直後の10月17日、内部抗争が続いて土佐藩邸にも入れない龍馬を見かねて、二本松の薩摩藩に入るよう勧めたことを、龍馬が翌日に土佐の望月清平(もちづきせいへい)宛の手紙に書いています。

「二本松薩邸に早々入り候ようとのことなり。小弟(私)思うに、御国表(土佐藩)の不都合上、また小弟さえ屋鋪(土佐藩邸)には入るあたわず。また二本松邸に身をひそめ候は、実にいやにて候えば、万一のときもこれあり候ときは、主従(龍馬と藤吉か)ともにここ(近江屋)に一戦の上、屋鋪に引き取り申すべし(後略)」

「薩摩藩の世話になるぐらいならば、捕吏と近江屋で一戦した上で、土佐藩邸に入るつもりである」という内容です。かつて散々世話になった龍馬が、藩邸に赴くことを嫌がるほど、薩摩藩とは距離ができていました。行けば監禁されることを龍馬は危惧していたのかもしれません。もちろん、だからといって、薩摩藩が黒幕であったとする証拠にはなりません。ただ当時、龍馬が薩摩を嫌い、警戒していたことは間違いないでしょう。

明治維新の一面を探るきっかけとして

桂浜の坂本龍馬像(高知市)

さて、いかがでしたでしょうか。黒幕説については状況証拠しかなく、あくまでも可能性の一つとしてとらえるべきものでしょう。しかし、こうしてみると、暗殺される直前の龍馬が、さまざまな勢力から狙われてもおかしくない状況にあったことがわかります。裏返せば、それだけ彼の存在が大きかったということの証なのかもしれません。

また、龍馬暗殺に関心が持たれる理由の一つとして、龍馬のスター性もさることながら、そのスターが、「明治維新という謀略がらみの変革の犠牲者になった」と感じるからではないでしょうか。政治がきれい事では済まされないのは、昔も今も変わりませんが、特に維新前後の激動期には多くの謀略で政局が動きました。歴史は結局勝者が書き残すもので、ともすれば「勝てば官軍」になりがちです。龍馬暗殺の検証は、その暗部を探ろうと試みるものといえるかもしれません。明治維新の一面を探るきっかけとして、龍馬暗殺を考えるのも決して無意味なことではないでしょう。
さて、あなたはどう考えますか?

参考文献:宮地佐一郎編『坂本龍馬全集』、相川司『龍馬を殺したのは誰か』 他

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竜馬がゆく(一)

書いた人

東京都出身。出版社に勤務。歴史雑誌の編集部に18年間在籍し、うち12年間編集長を務めた。編集部を離れるも、いまだ燃え尽きておらず、noteに歴史記事を自主的に30日間連続で投稿していたところ、高木編集長に捕獲される。「歴史を知ることは人間を知ること」だと信じている。ラーメンに目がない。