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Culture
2020.01.30

明治と大正を駆け抜けた美女たち!たくましく波乱に満ちた人生の物語

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戦国の乱世を生きた女性たちにも負けずおとらず、急速に変わりゆく時代の中でたくましく強かに生きた女性たちがいました。この記事では、和樂webで過去にご紹介した3人の女性の人生を、ダイジェストでお届けします。

カミソリ大臣の妻、陸奥亮子

まるでハーフのようなハッキリとした目鼻立ちに、しなやかさを感じる凛とした佇まい。
彼女は、カミソリ大臣とも呼ばれた陸奥宗光の妻・陸奥亮子(むつ りょうこ)です。

陸奥宗光は第2次伊藤博文内閣の時に外務大臣に就任し、日英通商航海条約を結んで、欧米諸国との間で結ばれていた不平等条約の撤廃を実現。また、日清戦争後に全権大使として伊藤博文とともに下関条約に調印するなど、列強国入りを目指す明治政府の一端を担いました。

宗光と亮子の出会いは、新橋の柏屋。そこで芸者として働いていた亮子は、その美貌で当時新橋花柳界で1,2を争う人気を誇っていたのだとか。そんな彼女は宗光に見初められ、前妻の蓮子亡き後17歳で彼の後妻となります。

政治家の妻としての道を歩み始めた亮子ですが、宗光の政治家人生は波乱万丈。
順調にキャリアを積みながらも、1878年には、政府転覆計画に加担したとして禁錮5年の刑に処されて投獄。出所後はヨーロッパ留学を経て政界に復帰し、駐米公使、外務大臣、農商務大臣を歴任するなど、目まぐるしく立場が変化しています。

そんな中でも亮子は母として子育てをしながら家を守り、また政治家の妻として各所で存在感を発揮。持ち前の美貌と聡明さで、社交界では「鹿鳴館の華」、宗光が駐米公使となって共に渡米した際は「ワシントン社交界の華」「駐米日本公使館の華」などと称賛されました。

シーボルトの孫、楠本高子

日本史で覚えた「シーボルト事件」。事件の中心人物であるシーボルト、彼の孫が歩んだ、壮絶な人生をご存知でしょうか? 『銀河鉄道999』のメーテルのモデルともいわれる孫・楠本高子。はかなげな美しさが、見る人の心を掴む美貌です。

楠本高子。出典:「幕末ガイド

彼女の母、楠本イネは、シーボルトと日本人の間にできた娘。混血であり差別も受けてきた身のため、結婚し子どもを産む人生を諦め、医師として強かに生きていくことを決意していました。しかし、イネの師であった石井宗謙による強姦で子を授かり、出産を選択します。1852年に生まれたこの子こそが、シーボルトの孫であり、イネの娘である、高子です。

医師として働くシングルマザーのイネは、高子の教育をお滝さんに預けました。13歳になるまでお滝さんのもとで育った高子は、お琴や三味線などの芸事に打ち込み、医学の道を志して欲しかったイネを落胆させたそうです。

高子は1866年に、シーボルト門下の医者で、二宮敬作の甥にあたる三瀬諸淵(みせ もろぶち)と結婚しますが、夫に先立たれた後、ついに産科医を目指しはじめます。しかし、その修行の途中、高子は母であるイネと同じように、医師に強姦され、子を身ごもってしまうのです。このことが大きなショックとなり、医師の道を断念した高子。のちに再婚を果たしますがまたも夫に先立たれ、以後はイネとともに暮らします。そのときに高子の生計を支えたのは、医学ではなく幼少時に熱心だった芸事でした。

5児の母でテニスプレイヤー、朝吹磯子

朝吹磯子(あさぶきいそこ)は実業家・朝吹常吉の妻で、大正時代に活躍したテニスプレイヤーです。

磯子がはじめてテニスラケットを握ったのは1923年。関東大震災が起こったため、軽井沢の別荘に滞在していました。そこで、夫・常吉が招いていた当時世界的プレイヤーだった原田武一にテニスのレッスンを受けます。
このときから、磯子はテニスに燃えます。その後、ふたりの子どもを連れてアメリカにテニス修行に向かいました。外国のコーチの教えを受けた、はじめての日本人女性です。

1924年に開催された第1回全日本女子庭球選手権大会のシングルスでは、ベスト4に入賞しています。このとき、磯子は34歳。息子4人と娘1人、5人の母親でもありました。大会出場者19人のうち、結婚しているのは磯子ひとりだったといわれています。さらに2年後の1926年には、全関東庭球選手権大会に出場。女子シングルス、同ダブルスで優勝を果たしています。5人の子どもの子育てをしながら、テニス界の最前線で活躍する磯子のパワフルっぷりに感動です!