Culture
2020.03.02

都市伝説!「東京を護る鉄の結界」の正体は?江戸の街づくり史から紐解く

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都市伝説というと、オカルトや胡散くさいイメージがあるかもしれません。でも、そうした何の役にも立たないと思われがちな知識や見解こそ、学校や職場もしくは酒場で盛り上がったりしませんか?
今回ご紹介するのは現在の東京に張り巡らされた鉄の結界と、江戸の街づくりにも活かされた風水のお話です。

江戸幕府以前から江戸城はあった

最初に江戸の地に拠点を置いたのは平安末期の武将・江戸重継と言われています。江戸城については15世紀の関東騒乱期、江戸氏が没落したのちに室町時代中期の武将・上杉持朝(うえすぎもちとも)の家臣・太田道灌(おおたどうかん)が築城したと徳川幕府の公文書『徳川実紀』に記録が残っています。江戸城は徳川家康が築城したわけではなく、幕府を開くときにはすでにあったんですね。

江戸の街づくりを指揮したのはお坊さんだった

徳川家康は、江戸幕府を開くにあたり都市の整備に風水を取り入れました。風水は中国から伝わった思想のひとつで、方角や物の配置などで気の流れを整える考え方です。軍記物『東奥老子夜話』によれば、伊達政宗は家康の天下統一後も天下取りの野望を捨ててなかったと記されています。江戸から見て政宗がいる東北は鬼門。彼を牽制するために家康が風水を用いたと考えるとふたりの力関係が見えてきますね。
そして江戸の街づくりを指揮したのは家康ではありません。また部下の武将でもなく、天海というお坊さんだったと言われています。

明智光秀と同一人物?謎多き高僧・南光坊天海

天海は天台宗の僧で、大僧正という僧侶を統括する官職に就いていたほどの高僧です。その昔は比叡山延暦寺で修行していましたが、織田信長による焼き討ちに遭ったあと、武田信玄、豊臣秀吉の懐刀としても活躍しました。また浅草寺の史料によれば、北条攻めの際に家康の陣幕にいたとされています。
また天海は生年がはっきりしておらず、そのため100歳以上の長寿だった、足利将軍家の落胤(私生児)だったなど様々な説がある謎多き人物。そして極め付けは、本能寺の変で織田信長を討った戦国武将・明智光秀と同一人物という説。
光秀は1582年の山崎の戦いで秀吉に敗れたとされていますが、実はどこで、どのようにこの世を去ったかは諸説あります。山崎の戦い後、光秀を匿ったという伝承が複数の寺社に残されていたり、改名して関ヶ原の合戦ごろまで生き延びたという伝承があったりと定かなことは分かっていません。加えて、日光にある明智平(あけちだいら)という地名の名付け親が天海だった、徳川家光の乳母に光秀の重臣・斎藤利三の娘である春日局が採用された、大坂の陣で豊臣方として戦っていた光秀の孫・織田昌澄が戦後に助命されている、光秀の居城があった近江坂本に天海の墓所があるなど、数々のエピソードも天海=光秀をうかがわせます。これらはあくまでひとつの説に過ぎませんが、ひと昔前は裏切り者というイメージが強かった光秀も近年、研究が進み名将という見方も強まっています。信長・秀吉との三つ巴を制して天下を獲った家康が、実は光秀とつながっていたと思うと感慨深いものがありますね。

江戸の街を護り続けた鬼封じ

天海が江戸の都市計画を進めていたのは3代将軍・家光の頃。1616年江戸城の鬼門に寛永寺を創建すると、みずから住職を務めます。

鬼門とは北東(艮=うしとら:丑と寅のあいだ)の方角のこと。ちなみに鬼門を恐れる習慣は日本独自の思想です。平安時代にはすでに疫病や天災を鬼に例えて恐れる文化があり、鬼の名がつく方角である鬼門は良くないと伝えられるようになったと言われています。
天海は邪気の通り道とされる裏鬼門・南西にも日吉大社から分祀して日枝神社を置き、寛永寺、江戸城、日枝神社を一直線上にならべることで鬼門を鎮護したと言われています。また江戸の三代祭、神田神社の神田祭、浅草寺の三社祭、日枝神社の山王祭は、江戸城の鬼門・裏鬼門を清める意味合いがあったという説もあります。

戦時中に張り巡らされた結界は現在も大都市・東京を護っている?

実は、現在の東京もある結界によって護られているという話はご存知でしょうか? 東京のJR山手線とその中を東西に蛇行するように通っているJR中央本線。このふたつの路線図を見てみると陰陽道における太極図が浮かび上がってきませんか?

太極図は白黒の勾玉を合わせたような構図になっていて、黒は下降を意味する陰を、白は上昇を意味する陽をあらわしています。そして黒の中央にある白点は後に陽に転ずる陰中の陽、白の中央にある黒点は陽の中にあっても陰をあらわす陽中の陰と呼ばれ、路線図の太極図を地図に当てはめてみると陰中の陽には皇居が、そして陽中の陰には歌舞伎町が位置しています。
この路線図が設計されたのは第一次世界大戦中。空爆されれば甚大な損害を被るリスクを負いながら、東京にこれだけ大規模な鉄道を敷いたのは陰陽道の気の流れで街を護ろうとしていたと考えられなくもないのです。

根拠の有無ではなく、そう考えることで面白くなるのが都市伝説

易(えき)や卜(ぼく)を取り入れた都市計画は世界中で見ることができ、実はそれほどめずらしいことではありません。そうしたなかで江戸や東京の街づくりが都市伝説として伝播する背景には、創作をめぐらす余白が残されている点にあるのではないでしょうか。
真実を白日のもとに晒すことなく敢えて残したまま伝わっていく都市伝説は、語る人と聞く人のあいだにある暗黙の優しさで成り立っている文化と言えるかもしれませんね。

トップ画像出典:国立国会図書館

書いた人

生粋のナニワっ子です。大阪での暮らしが長すぎて、地方に移住したい欲と地元の魅力に後ろ髪惹かれる気持ちの狭間で葛藤中。小説が好き、銭湯が好き、サブカルやオカルトが好き、お酒が好き。しっかりしてそうと言われるけれど、肝心なところが抜けているので怒られる時はいつも想像以上に怒られています。