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2020.03.27

鬼の異名を持つ戦国武将!上杉謙信に一目置かれた男、佐竹義重の生涯

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ご当地…といえばむかしは「ご当地ソング」、いまは「ご当地アイドル」が思い浮かびますが、戦国大名はいわば「ご当地ヒーロー」と呼べるのではないでしょうか。戦国大名・佐竹氏は江戸時代以降に現在の秋田県を治めたことで知られていますが、それ以前は常陸国(ひたちのくに、現在の茨城県)を領地としていました。一族の長い歴史の中でも活躍が目立ったのが、戦国時代から江戸時代初期に当主だった佐竹義重(さたけよししげ)です。上杉謙信や豊臣秀吉と親しく、伊達政宗と激しく抗争した彼はいったいどんな人だったのでしょうか。「鬼義重」の異名を持つ武将の生涯に迫ります。

常陸国の片隅で不遇の一族だった佐竹氏

佐竹義重は1547(天文16)年に佐竹義昭(さたけよしあき)の子として生まれました。

佐竹氏は源義家の弟・義光の子孫であるとされ、平安時代後期には奥七郡とよばれた常陸北部七郡を支配。また、常陸に強い勢力を持つ常陸平氏の一族大掾(だいじょう)氏と姻戚関係を結び、強い勢力基盤を有していました。中央において伊勢平氏、東国においては奥州藤原氏と結びついた常陸の有力な豪族でした。

しかし、治承・寿永の乱(いわゆる源平の合戦)の際、佐竹氏は平氏に味方したため、源頼朝に所領を没収されてしまいます。その後は頼朝に従って奥州合戦(鎌倉幕府と奥州藤原氏の戦い)に加わりました。鎌倉時代の佐竹氏は、奥七郡の支配権を宇佐見氏、伊賀氏、二階堂氏などに奪われ、さらに北条氏などにそれらの郡の地頭職などを獲られるなどさんざんで、恵まれない時代を過ごします。

南北朝時代になると、第8代当主・貞義(さだよし)と第9代当主・義篤(よしあつ)が早々に足利氏に味方して北朝方に属し、関東における南朝方勢力と争いました。室町幕府の成立後はその際の功績から守護職に任ぜられ、室町幕府の出先機関である鎌倉府の重鎮として活躍しました。ここまではよかったのですが、足利将軍家と鎌倉公方が争いを繰り返すようになるとそれに巻き込まれることになります。また第11代当主・義盛(よしもり)に男子がなかったことから、関東管領の上杉家から義人(よしひと)が婿養子に迎えられて第12代当主となりました。よそから当主を招いたこのことをきっかけに一族の内紛がおこり、戦国時代に突入した後も佐竹氏の常陸統一は困難に。戦国大名になるのも遅れていました。

第15代当主・義舜(よしきよ)の時代にようやく佐竹一族が統一されます。義舜は常陸北部を制圧して「中興の祖」と呼ばれるほどでした。しかし、関東の制覇を目指す北条氏に脅かされて、常陸全体の統一はやはり困難だと思われていました。

上杉謙信から名刀を授けられるほどの男・佐竹義重

流れを変えたのが義重でした。義重は1562(永禄5)年、父・義昭の隠居にともなって家督を継ぎ、15歳で第18代当主となります。それから間もない1564年(永禄7)年には越後の上杉謙信と協力し、小田城の戦いで常陸小田城主・小田氏治(おだうじはる)に勝利しました。しかし、隠居したとはいえ父・義昭はまだ30代で、影響力はまだ強く残っていました。そのため、1565(永禄8)年の義昭が逝去すると、ここぞとばかりにくすぶっていた反佐竹勢の力が強まり、常陸の統一がまた遠のいてしまうことに。若い義重には反対勢力を押さえる力がないだろうと周囲は見くびっていたのです。

悩む義重は、上杉謙信との連携をさらに強めます。そして1566(永禄9)年には小田氏治を再び攻めて小田領の大半を奪取しました。一度は敗走していた氏治でしたが、その後何度も小田城を取り返していたのです。抗争は何年にも及びましたが、ついに1569(永禄12)年、手這坂(てはいざか)の戦いに勝ち、小田城を奪取することに成功しました。謙信からは名刀「備前三郎国宗」を贈られたといいます。

同じころ関東では相模国の北条氏政が勢力を強めており、佐竹氏ら関東の諸勢力は小田原北条氏と対立することとなります。氏政は会津の蘆名盛氏(あしなもりうじ)・下総結城氏の結城晴朝(ゆうきはるとも)らと同盟を結んで、佐竹氏に従属する下妻の多賀谷政経(たがやまさつね)を攻めてきました。

義重は1572(元亀3)年に、義重は白河結城氏を配下に置くとともに付近の諸勢力を傘下に入れることに成功。1573(天正2)年には、小田城を攻略されたのちに北条方についていた小田氏治と戦って所領の大半を手に入れたのです。

義重ははこのように勢いよく戦いを進め、佐竹氏は一躍有力な勢力となってゆきました。もっとも、このことはかえって周辺の諸大名に危惧される原因になり、北条氏政や蘆名盛氏によって窮地に追い込まれてしまったのです。困った義重は策を練り、結城氏や宇都宮氏と婚姻関係を軸にして同盟を結んで氏政に対抗します。また、羽柴秀吉と懇意にするなどの努力も怠りませんでした。

蘆名盛氏の死後、跡継ぎの盛隆の代になると佐竹氏と蘆名氏は同盟関係になりました。これによって、奥州南部の諸地域がひとつの勢力圏を形成したのです。そして義重は評価されますが、それもつかの間、下野国に進出した北条軍の猛烈な攻撃に遭い、不利な状況での和睦を余儀なくされました。

伊達政宗との激戦! 奥州の覇者はどっちだ

また、蘆名氏は盛氏の死後、当主が次々と早世したため勢力が衰退してしまいます。蘆名氏の家督を誰が継ぐかという問題に際し、義重は蘆名亀王丸(亀若丸)をいち早く支持、伊達輝宗(だててるむね)が次男・小次郎を送り込むのを阻止しました。これをきっかけに、輝宗の後を継いだ伊達政宗と義重は本格的に争っていくこととなります。

1585(天正13)年、義重は蘆名氏との連合軍を結成、伊達氏と対立する二本松氏を救援することを名目として奥州に出陣。人取橋(ひととりばし、現在の福島県本宮市)で伊達氏と戦いました。義重は3万5千の兵を率いて戦いを有利に進めていましたが、留守中の常陸国で配下にあった者たちに不穏な動きがあることを知り、撤退することになってしまったのでした。

現在の二本松城跡(写真AC/D850撮影)

人取橋の戦いの翌年、二本松城(二本松城、現在の福島県二本松市に位置する)が開城して二本松氏が事実上滅亡したため、伊達氏と佐竹氏・蘆名氏との間で和議が結ばれました。しかし、義重と政宗の対抗は続きます。次男の義広を蘆名氏の養嗣子として入れるようとしていた義重に、弟の小次郎を蘆名氏の養嗣子にしようとした政宗が反発したのです。

この争いから、1588(天正16)年に義重は奥州の諸大名と連合して再び政宗と戦います。「郡山合戦」と呼ばれる戦いです。しかし、諸大名の連合軍で兵力こそ優勢だったものの、連合軍内での利害の対立によって軍の統率がとれず、岩城常隆の調停で和睦せざるをえませんでした。

蘆名義広はその翌年、磐梯山裾野の摺上原(すりあげはら)の戦いで伊達氏に大敗、白河結城氏、石川氏といった陸奥南部の諸大名が伊達氏に寝返ってしまいました。佐竹氏は南の北条氏直、北の伊達政宗の2大勢力の間にあって滅亡の危機に陥ります。このころ、義重は実権を握ったまま長男・義宣(よしのぶ)に家督を譲って、太田城(現在の茨城県常陸太田市に位置する)に隠居することにしました。なお、義重の治世には最新の冶金技術が領内に導入され、豊富な資金源で関東一の鉄砲隊を備えたといわれています。

関ヶ原の戦い、そして秋田へ…

義重の隠居後、懇意にしていた豊臣秀吉の小田原征伐が開始、義重は義宣とともに小田原に参陣するとともに、石田三成の忍城(おしじょう、現在の埼玉県行田市に位置する)攻略に参戦します。これを契機に義重は秀吉から常陸国54万石の支配権を認められ、一気に状況を挽回することに成功しました。さらに秀吉の援助を得て付近の勢力を一掃し、常陸国内をようやく統一したのです。念願の常陸統一後は実権も義宣に譲り、名実ともに隠居生活を送ることとなりました。

関ヶ原の戦いが起こると、義宣は懇意にしていた石田三成の率いる西軍に与しようとしました。しかし、時勢をかんがみた義重は徳川家康の東軍につくべきだと意見し、父子は対立してしまいます。結論を出せない義宣が曖昧な態度をとったことから、乱後は徳川氏によって佐竹氏は出羽国久保田(現在の秋田県)に減封されてしまいました。あやうくも改易を逃れることができたのは、義重が家康・秀忠親子に嘆願したためです。佐竹氏が出羽国へ移る際、常陸国中の美女を集めて連れて行ったため、これがいわゆる「秋田美人」にのもととなったと俗に言われていますが、おそらく後世の人の冗談でしょう。

現在の秋田城(久保田城)

移転後も反対勢力を押さえるべく地元の町割りなどに精を尽くしていた義重でしたが、1612(慶長17)年、狩猟中に落馬してこの世を去りました。享年66歳。闐信寺(てんしんじ、秋田市手形字蛇野)が菩提寺です。

北条軍との戦いにおいて、愛刀「八文字長義」を用いて兜ごと真っ二つにしたり、7人を一瞬で斬り捨てたという話が伝えられている義重は「鬼義重」と呼ばれるほどの勇猛果敢な武者でした。また、伊達政宗との人取橋の戦いは、のちに政宗が徳川家光に「生涯の大戦だった」と話したという逸話が残っているほどです。一方で、関ヶ原の戦いにおいて縁のある石田三成の西軍に味方せず、移封されはしたものの改易を逃れたのは、その知力によるものだといえます。諸大名と姻戚関係をよく結び、秀吉と懇意にしていたのもまた知力を働かせた成果だったといえるでしょう。義重は、武力と知力を備えた人物だったのです。

毛虫は何に由来!? 特徴的な兜の前立て

佐竹義重といえばぜひ一度見ていただきたいのが、その特徴的な兜です。前立ての独特さは一見の価値あり。わさわさっとして見える義重の兜の前立ては、毛虫をイメージしたもので「虫はうしろには下がらない、前進あるのみ」ということを表したものとのこと。「葉を食う」が転じて「刃を食う」という魔除けの意味も持つといいます。さらに源氏の系統であることから「げんじ」と「けむし」の言葉遊びも含まれています。古い発音では源氏を「けむし」のように発音したとされているからです。なお、この部分の素材は、毛虫ではなく羽毛です。

茨城県立歴史館・令和元年度特別展「佐竹氏-800年の歴史と文化-」展示図録の表紙にも義重の鎧兜があしらわれている(2020年発行)。

佐竹義重は近世以前には群雄割拠していた東国の武将であり、たとえば織田信長や豊臣秀吉のようなわかりやすいヒーローではありません。しかし武力と知力を兼ね備え、先祖代々争いが絶えなかった常陸国を統一、伊達政宗におそれられるほどだったのです。地方にはこうした隠れた英雄がたくさんいます。きっとあなたの地元にもいるご当地ヒーロー、佐竹義重はそんな存在を代表するひとりだといえるでしょう。

秋田市立佐竹史料館

所在地:秋田市千秋公園1-4
開館時間:午前9時から午後4時30分まで
休館日:年末年始(12月29日から翌年の1月3日まで)、展示替え期間(不定期)
観覧料:一般100円、高校生以下無料
アクセス:JR秋田駅から徒歩でポケットパークまで約5分、二の丸まで約15分。秋田自動車道秋田中央ICから車で約15分
https://www.city.akita.lg.jp/kanko/kanrenshisetsu/1002685/1009871/index.html

一般財団法人千秋文庫(旧秋田藩主佐竹家ゆかりの資料館)

所在地:東京都千代田区九段南2-1-32
開館時間:午前10時から午後4時まで
休館日:日曜日・月曜日・祝日及び展示替期間
観覧料:一般450円、大学生・高校生350円、中学生以下無料
アクセス:地下鉄東西線/半蔵門線/新宿線…九段下駅下車(2番出口)徒歩10分、地下鉄有楽町線/南北線…飯田橋駅、市ヶ谷駅下車 徒歩15分、地下鉄大江戸線…飯田橋駅下車 徒歩15分、JR飯田橋駅下車(西口)徒歩15分、市ヶ谷駅下車 徒歩15分、バス(都営)…九段上停留所下車 徒歩2分
http://senshu-bunko.or.jp/

書いた人

岡山市出身、歴史学の博士号をもつ大の歴史好き。レトロという言葉だけでは語れない、戦前の日本文化を伝えたいと思っている。趣味は読書と街歩きと宝塚観劇と漫才で笑うこと。紺野ともという名で詩人もしている。