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2020.03.10

1年間の既読無視からの結婚!恋を貫き通した北条義時のピュアすぎるエピソードとは

この記事を書いた人

令和4(2022)年に放送する、三谷幸喜脚本、小栗旬主演のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が、制作発表されました。

小栗旬が演じるのは「北条義時(ほうじょう よしとき)」です。鎌倉幕府2代目執権……というより、北条政子の弟と言った方が分かりやすいでしょうか。

初代将軍の源頼朝が亡くなった後、後を継いだ2代目将軍の頼家(よりいえ)、3代目将軍の実朝(さねとも)を支え、頼朝が実現しようとした鎌倉幕府の政治基盤を守っていた人物です。

そのためには時に冷酷に振る舞わなくてはいけませんでした。数ある義時の評価の中には「権力のために他人を蹴落とす悪人」と言われる事もあります。

そんなクールでクレバーなイメージのある義時ですが、鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡(あずまかがみ)」には、義時のピュアすぎる恋のエピソードが描かれています。

恋に落ちた義時

北条義時が恋に落ちたのは、建久2(1191)年の事。満年齢で28歳の時です。

お相手は鎌倉幕府の女官「姫の前」です。幕府で女官を勤めるというのは、現代で言えば丸の内のOLぐらいのバリキャリです。

加えて、姫の前は「無双の権威を持ち」「容貌は美麗」と書かれています。米倉涼子や天海祐希がドラマで演じるような「女上司」のイメージですね。

そんな彼女に惚れてしまった義時は、ラブレターを送りました。

届かない想い

義時は姫の前に何度もラブレターを送りますが、それをずっと無視されていました。

その理由は吾妻鏡には書かれていません。しかし鎌倉時代の結婚には「家柄」が重要でした。

当時の北条氏は、義時の姉政子が源頼朝の妻である、という事だけが唯一の自慢できるところで、その他は出自も怪しい田舎の弱小氏族でした。

対して姫の前の実家は「比企(ひき)氏」です。比企氏は頼朝とその息子の頼家の乳母を勤めている家系で、北条氏よりも先に頼朝との繋がりがありました。

加えて姫の前の父は「内舎人(うどねり)」という、天皇のボディーガードをする朝廷の役職にもついていました。鎌倉では朝廷で働いたことがあるというだけでエリート扱いされます。

なので、姫の前は自分の結婚相手として北条氏の義時はふさわしくないと考えていたのかもしれません。

一年間の想いがついに実る

そんな義時の恋文はついに年を越して建久3(1192)年まで送り続けられました。その間、姫の前からの返信は……ゼロ!

それでも諦めきれない義時に、ついに恋のキューピッドが現れました。

姉の夫であり、鎌倉幕府最高権力者である源頼朝です! ふがいない義理の弟を見かねて仲を取り持つ事にしました。

まず、義時に「結婚したら絶対に離婚しません」という起請文(きしょうもん)を書かせました。

起請文というのは、契約破棄はしないと神仏に誓う契約書です。自ら信仰する神の名前を列挙して、もしも破った場合はこれらの神々から罰を受ける事になります。

現実的にも、裁判が起こった際に証拠能力が高い公的文書となりました。

実は鎌倉幕府が武士たちにもたらした新しいシステムの1つが「裁判」です。

それまでトラブルがこじれたら、武力で解決するしか方法がなかったところを、鎌倉幕府が間に入り公平な視点で判決を下す「裁判制度」が確立しました。起請文に書かれた事を破ったら、神仏だけでなく幕府からも裁かれる可能性があります。

つまり、いかなる理由であっても離婚した場合、義時が全方向から報いを受けることになります。並大抵の覚悟で書けるものではありません。

義時の覚悟が本気であることを示して、頼朝は姫の前に「ここまで言っているのだから、嫁に行ってはもらえないか?」と打診しました。

これには姫の前も心を動かされたようで、起請文を受け取って、建久3(1192)年9月25日、義時の元へ嫁いだのでした。

めでたしめでたし……では終わらなかった結婚生活

こうして姫の前は義時に嫁ぎ、建久4(1193)年と建久9(1198)年に男の子を産みます。

ところが、幸せな結婚生活は続きませんでした。

鎌倉のロミオとジュリエット

建久10(1199)年1月13日、源頼朝が急死しました。後を継いだ息子の頼家も、乳母が比企氏で、加えて比企氏から嫁をもらっていて、男の子も生まれています。

これは北条氏にとって、将軍の妻・将軍の母・将軍の祖父の地位を比企氏に奪われるピンチでした。お互いに謀略を張り巡らし、ついに建仁3(1203)年に北条氏と比企氏の武力による争い「比企能員(ひきよしかず)の変」が起きました。

北条氏の当主は、義時の父である北条時政でした。時政はなんと義時を大将にして、比企氏の館を攻めます。

姫の前の実家である比企氏はこの時に滅び、頼家の妻と息子も炎の中で亡くなってしまいました。

戦が世の常の時代。父の命令とは言え、最愛の妻の実家を攻めることとなってしまった義時。その心境はいかなるものだったのか、歴史書である吾妻鏡には書かれていません。

しかしその心の内を想像すると、どんなに言葉に尽くしても察するに余りある事でしょう。

その後の姫の前

姫の前がその後どうなったかは、吾妻鏡には書かれていません。

しかし同時代を生きた京都の貴族の日記である「明月記(めいげつき)」に、源輔通(みなもとの すけみち)という貴族は、北条朝時(ほうじょう ともとき)の同母弟であると書かれています。

この源輔通は、頼朝とは全く関係ない、ただ同姓なだけの源さんですが、北条朝時の母が姫の前なのです!

輔通が生まれたのは元久元年(1204年)ですので、「比企能員の変」の直後に義時とは離婚して、京都の貴族へ再婚している事になります。

さらに輔通の弟は天福元(1233)年に朝時の猶子(ゆうし=養子ではないけれど、実の子並みに世話をすること)にもなっています。

鎌倉で肩で風を切るバリキャリだった姫の前は、京都でも颯爽と第2の人生を歩んでいる……と思いきや、明月記の承元元(1207)年3月30日に輔通の父である具親(ともちか)の妻が亡くなったことが書かれています。

京都に来て3年……姫の前が心に負ったショックは、はたして癒えたのでしょうか。

起請文を破ってしまった義時

そして絶対に離婚しないと神仏に誓った義時はどうなったでしょう。

「比企能員の変」の後、父である時政を追放し、将軍を支える執権職を引き継ぎます。

数々の困難が降り注ぎ、最大の苦難である朝廷から名指して追討令が出された「承久の乱」を乗り越え、朝廷にも負けない鎌倉幕府を成立させたあと、元仁元(1224)年6月13日に急死しました。

あまりにも突然の死だったため、毒殺や祟りなど、当時からさまざまな噂がありました。

でも、もしも起請文に書かれていた神仏の中に、鎌倉幕府を守護する寺社があったとしたら……。

もしかしたら鎌倉幕府を盤石なものにするまで、義時への罰を神仏が待っていたのかもしれませんね。

書いた人

神奈川県横浜市出身。地元の歴史をなんとなく調べていたら、知らぬ間にドップリと沼に漬かっていた。一見ニッチに見えても魅力的な鎌倉の歴史と文化を広めたい。