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2020.03.10

江戸・明治の人々は疫病にどう立ち向かったのか?芝居に見る先人たちの知恵 演劇評論家・犬丸治さん解説

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新型コロナウイルスでことごとく劇場が閉鎖した今月、かつての民衆は、芝居を通してどのように疱瘡(天然痘)や、瘧(熱病・マラリヤ)など疫病を乗り越えてきたのか、知らなかったさまざまなエピソードを演劇評論家の犬丸治さんに教えていただきましょう。

医学が十全でなかった時代、まず民衆が縋ったのは、生き神として表徴した成田不動の申し子・市川團十郎だった。

文/犬丸治(演劇評論家)

御承知の通り、新型コロナウイルスの蔓延を防ぐべく、各劇場は二月末から軒並み休演、いまこの原稿を書いている段階でも終息の見込みが立っていません。その今だからこそ、芝居をめぐる江戸・明治の人々が疫病にどう立ち向かったかを見ることにします。そこから、多くの先人の知恵が学び取れるのではないでしょうか。

「『何の因果で疱瘡まで仕舞うたことじゃ』とせき上げてかっぱと伏して泣きければ」。

お馴染み「菅原伝授手習鑑」「寺子屋」の、松王女房千代のクドキです。ワクチンもなかった江戸時代、疱瘡(天然痘)は致死率が非常に高く、治ってもあばたを始め障害が残りました。こどもたちにとって「大厄」だったのです。その疱瘡を無事済ませて一安心だったのに、今若君の身替りに我が子を捧げるとは…。千代の嘆きは、現代以上に当時の人々の心に突き刺さったはずです。

にらんだだけでまさか?!

医術が十全でなかった当時、民衆が縋ったのは当然神仏の加護ですが、それを生き神として表徴したのが、成田不動の申し子・市川團十郎です。

歌舞伎十八番「助六」の胸のすく名乗りの啖呵の冒頭「いかさまナァ、この五丁町へ脚(すね)をふんごむ野郎めらは、己が名をきいて置け。まず第一をこりが落ちる」、この「をこり」というのは「瘧」と書いて、「熱病、マラリヤ」のことです。

市川家の襲名などの儀式に欠かせぬのが、ピンと髷が立った「まさかり」の鬘に柿色の上下の團十郎(海老蔵)が、三宝を翳しての「にらみ」ですが、これは團十郎の眼力ひとつで邪気を払い、観客たちの無病息災が約束されていたからで、昔は「仕初」と呼ばれる重要な儀式の折に限られていました。

にらんだだけでまさか…とお思いでしょうが、こんな挿話が遺されています。文化六年(1809)六月市村座に近松門左衛門「日本振袖始」が出ました。今も時々上演されますが、スサノオノミコトの八岐大蛇退治の芝居です。この時、楽屋番の新七というものが瘧の病になったが、薬効全く無し。ならスサノオ役の七代目團十郎に「呪して」貰おう、というので三階(当時幹部の楽屋は三階)に上がると、衣裳のままの團十郎が帯剣を抜き新七の頭を三べん撫でて、その儘剣を持って「市川のりきみ」で睨んだら、見事快癒した(「歌舞伎年表」)というのです。

この話には元ネタがあります。「中古戯場説・上」に載っているのですが、同じ團十郎でもこちらは「役者の氏神」と呼ばれた二代目團十郎の話。上坂して寛保二年(1742)正月・佐渡嶋長五郎座で、いまの歌舞伎十八番「毛抜」「鳴神」「不動」の原型「雷神不動北山桜」を初演し、大当たりを取った年の夏のことです。

團十郎が役者仲間と天満の茶屋に涼みに寄ると、亭主から「ひとり娘が瘧で…」と頼まれた。二代目は「しばし待たれよ」とウガイ・手水して、手拭で頭を包み、懐の汗手拭を出して、差して来た小脇差を持って寝間へ入った。娘を抱き起させ「自分の顔を見るように」と言い聞かせた二代目。「件の短刀を抜放し汗手拭を握りて縛の縄にしつつ立上り病女を白眼(にらみ)し勢ひ誠に別人の如く」「病女一目見るより戦慄甚しく其まま打臥」、その後滝の如く汗を流して、瘧は跡形なく快癒した、というのです。

注意すべきは、ここで二代目團十郎は短刀と汗手拭で「不動の見得」を見せていることです。つまり、自身が当りを取った「不動」を再現したのですね。市川家の「家の芸」として、荒事と並んで自身が神仏に扮して示顕する「神霊事」があるのですが、それは、初代以来の成田不動への敬虔な信仰が、いつしか團十郎自身も霊力を持つ、と崇められていったのを示しています。

明治時代に大流行のインフルエンザを「お染風」と呼び、封じのお札は「久松留守」と洒落る、強靭な遊び心

もっとも、素朴な信仰のみでは如何ともしがたいパンデミックがあります。安政五年(1858)七月頃よりコレラが猛威を振るい、罹患すると立ちどころに死ぬので「コロリ」と恐れられ、八月中旬には猖獗を極めました。「芝居を初め物見遊山吉原など更に行くもの稀」で、繁盛は医者や薬屋ばかり、早桶も品切れで生産が間に合わぬ状態でした。このころの歌に「やえ雲も待つ間に映えて久方の夜に隈あらぬ今日の月影」とあるのですが、それぞれの頭の字を取ると「やまひよけ」になります。

この悲惨を潜り抜けた歌舞伎からは、例えば翌年二月市村座・河竹黙阿弥作「小袖曽我薊色縫」が生まれます。世にいう「十六夜清心」です。極楽寺の所化清心は、遊女十六夜と入水を図ったものの死にきれず、寺小姓の求女を殺して金を奪った上、一転悪の道をひた走ります。「人間僅か五十年…金さえあれば出来る楽しみ」とか、「一人殺すも千人殺すも、取られる首は立った一つ」とうそぶく清心改め鬼薊清吉のセリフに、地獄を見た当時の人々は快哉を叫んだに違いないのです。

しかし、ニヒルのみが病への向き合い方でもありますまい。明治二十三、四年にはインフルエンザが大流行したのですが、人々はそれを「お染風」と呼びました。久松にすぐ惚れたように、伝染りやすいという洒落でしょう。この流行を防ぐべく、それぞれの家で「久松留守」と書いた紙札を軒に貼ったというのです。中には「お染御免」というのもあったそうですが、これでは露骨過ぎますね。「修禅寺物語」「番町皿屋敷」の作者岡本綺堂が随筆「二階から」で伝えているのですが、今必要なのは、この遊び心の「強靭さ」かも知れません。

犬丸治

演劇評論家。1959年生まれ。慶應義塾大学経済学部卒。歌舞伎学会運営委員。著書に「市川海老蔵」(岩波現代文庫)、「平成の藝談ー歌舞伎の神髄にふれる」(岩波新書)ほか。

書いた人

東京都港区在住。2001年『和樂』創刊準備号より現在に至るまで、歌舞伎及び、日本の伝統芸能を主に担当してきた。プライベートでも、地方公演まで厭わず追っかけてしまうほど歌舞伎や能・狂言、文楽が大好き。