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2020.03.16

新郎が行方不明でも結婚式を決行。石川啄木の妻・節子の凄まじい愛のエピソード

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明治の歌人・石川啄木は、紛れもなく天才だった。しかし生活能力は、ほぼゼロと断言できる。無計画で浪費癖のある彼は、いつも友人知人に借金をして暮らしていたそうだ。この物語の主人公は、そんな男の妻である。「天才歌人の妻」といえば聞こえはいいが「自由奔放すぎる男を愛した一途な女」と呼ぶほうが、この物語では適切だろう。啄木の妻、その名を「堀合節子」という。

学生時代から啄木LOVE

節子が啄木と出会ったのは、1899(明治32)年。岩手県の盛岡女学校に入学した年のことだった。啄木はひとつ上の中学2年生。互いにほんのりと恋心を抱くが、匂わせる程度ですれちがう。節子は可憐な容姿を持ち、音楽の才もあった。学年が上がるにつれて次々に縁談が持ち込まれるようになったが、そのときには、なぜか節子は啄木にぞっこんだったらしい。親にも「夫と呼ぶ相手は、啄木以外にいない」と話すくらいだから、相当なものだろう。節子は17歳で盛岡女学校を卒業する。

啄木との結婚のために妊娠の嘘をつく

啄木はというと、中学を卒業する間近で退学した。ちなみにその理由は2回のカンニングだといわれている。節子の父は、啄木のことをよく思っていなかった。病弱なうえにカンニングで中学を退学するような男であるから、そう思われるのも仕方ない。そんな父親のもとに、めまいのするようなニュースが飛び込んでくる。なんと節子が「啄木の子を身ごもっている」というのだ。妊娠を理由に結婚の許しを乞う娘に、しぶしぶ認めた父親であったが、これは節子のつくりごとだったと後日わかる。どれだけ啄木のこと好きなんだ、節子よ。

花婿なしの結婚式

結婚が成立し、節子は念願の挙式に向けて準備を始める。浮き足立つ日々のスタートかと思いきや、啄木は突如「詩集を出版したい」と上京したきり、なかなか帰ってこない。節子は、仕方なく友人に依頼して啄木を迎えに行ってもらうことにした。なんとかつかまった、啄木。友人と啄木は列車に乗り盛岡へと向かうが、ここでまたもや「友人に会いに行く」と言い出し、啄木は途中下車。なんと行方をくらませたのだ。ここまでくると、もう節子を避けているとしか思えない。節子は、花婿なしで挙式を執り行うことにした。

愛の永遠性を信じて疑わない

節子の愛は、強烈だった。啄木との結婚生活を心配する友人たちの声もあったが「愛の永遠性を信じて疑わない」と心配をはねのけたのだ。啄木も、なんだかんだで「恋よりも結婚を尊ぶ人は多いが、私は違う。真の結婚は心身ともに尊ばなければならない」と考えていたようだ。実際、啄木の素質は節子との恋愛によりかがやきを増したともいわれている。

ふたりの結婚生活は貧しいものだった。職を求めて岩手から北海道へと移住もするが思うようにいかない。やがて東京での活動に憧れた啄木は、ひとりで上京し、新聞社の校正係として勤め始める。稼いだ金を節子へ送金するかと思いきや、金が入るとすぐに映画を観たり娼婦を買ったりするなど娯楽にふけってしまう。啄木は友人知人に手当たり次第に借金をした。そのなかには同郷の先輩(で、言語学者金田一秀穂の祖父)である金田一京助もいたようだ。

28歳で生涯に幕を下ろす

節子も上京するが、いよいよ生活は切迫した。生活の苦しみなんか、節子にとっては痛くもかゆくもなかったのかもしれない。啄木の愛を信じつづけていたのだろう。そんな思いも虚しく、1911(明治44)年、啄木は肺結核にかかり病床につく。みるみるうちに病状は悪化し、1912(明治45)年、啄木はこの世を去った。啄木の子を身ごもっていた節子は、その数ヶ月後に出産。子どもを連れて実家に帰るが、翌年に啄木の後を追う形で亡くなる。啄木27歳、節子28歳の死去だった。愛を信じてどこまでも啄木を追いかける、節子。その最期も、彼女らしいものだった。