かつては世界屈指の武器輸出大国!日本人はなぜ鉄砲を捨て、刀を選んだのか?

かつては世界屈指の武器輸出大国!日本人はなぜ鉄砲を捨て、刀を選んだのか?

目次

戦国時代の日本は、世界有数の鉄砲保有国だった。

応仁の乱の頃には影も形もなかった武器が、関ヶ原の戦いの頃になると「当たり前のもの」と化した。それがなければ戦に勝てない。もはや時計の針を戻すことはできなくなったのだ。

鉄砲の火力を借りて、豊臣秀吉は唐入りを実行した。最終的には寸土も得られなかったとはいえ、鉄砲が失われたわけではない。フビライ・ハーンは2度の日本遠征失敗にもかかわらず、3度目の計画を思案していた。それと同じように、徳川家康が決断を下せばさらに大規模の対外侵攻が行われていたはずだ。

が、実際にはそうならなかった。

日本人は鉄砲を捨てたのだ。

世界有数の陸軍を持っていた日本

今回はノエル・ペリン著『鉄砲を捨てた日本人 日本に学ぶ軍縮(中公文庫)』を参考に、筆を進めていきたい。

この本の和訳を手がけたのは川勝平太氏。筆者は静岡県静岡市在住だから、その名を頻繁に聞いている。他でもない、静岡県知事だ。川勝氏は、このような歴史物の著書を多く出版している。

さて、本題に入ろう。

本書が物語るのは、ほとんど世に知られていない歴史上の出来事である。高い技術をもった文明国が、自発的に高度な武器を捨てて、古くさい武器に逆戻りする道を選んだ。そしてその国日本はこの逆戻りの道を選びとって成功した。
(ノエル・ペリン『鉄砲を捨てた日本人 日本に学ぶ軍縮(中公文庫)』)

日本への鉄砲伝来は1543年。その1年後には現地鍛冶師の手により鉄砲のコピー製品が完成している。1549年に織田信長が500挺の鉄砲を発注しているから、伝来から僅か5年ほどで量産化を実現させたという判断で間違いないだろう。

ヨーロッパでは、既に「鉄砲の大量運用」は行われていた。1522年のロドス島包囲戦で、オスマン帝国のイェニチェリ軍団が聖ヨハネ騎士団に向けて鉄砲を放っていた。16世紀当時のヨーロッパで最も規模の大きい陸軍戦力を有していたのはオスマン帝国である。

が、16世紀末になると日本はオスマン帝国と比べても遜色ないほどの陸軍を持つようになった。

日本人は武士と足軽の混合部隊で朝鮮に出兵したが、所持していた武器たるや、てんでんバラバラであった。部隊の大多数は武士で、伝統的な両刀のほかに少なくとも弓か槍を携えていた。他の兵隊の大多数は鉄砲をかついだ。最初の侵略隊十六万人のうちほぼ四分の一強が鉄砲隊であったとみられる。
(同上)

このような軍隊に真正面から戦って勝てる国は、アジアには存在しなかった。朝鮮半島の日本軍を苦しめたのは、極寒の冬と補給の停滞である。

東アジア各国に武器を輸出

そんな国だから、当然海外にも武器を輸出していた。

現代であれば日本製の小銃が海外で販売されることはないが、16世紀はやはり容赦ない時代である。刀、具足、そして鉄砲。日本の兵器製造技術は莫大な利益をもたらし、同時に周辺諸国が日本製の兵器を必要としていた。

この時の日本は、世界でも五指に入るほどの武器輸出大国でもあったのだ。このことを前提にしないと、以下の話も呑み込めないだろう。

なぜ、日本の鍛冶師はたった1年で鉄砲という新兵器をコピーできたのか?

それは初めて見た代物をそっくり真似することができるだけの高い技術力を持っていたということだが、技術力とは利益の下支えがなければすぐに枯れてしまうものでもある。鉄砲伝来の直前から、日本の刀剣は素晴らしい性能を誇る武器として東アジア各国に知れ渡っていた。

戦争や騒乱があるから技術力が保たれ、西洋の新しい兵器にも対応できる。刀鍛冶は即ち兵器製造業者であることを念頭に置かなければならない。

刀剣と鉄砲の「格の違い」

徳川家康が豊臣氏を滅ぼした大坂夏の陣は、1615年のことである。

その3年後、ヨーロッパでは未曽有の大戦争が始まる。現代では「三十年戦争」と呼ばれる出来事だ。

三十年戦争に介入したスウェーデン国王グスタフ・アドルフは、1632年のリュッツェン会戦で戦死している。霧と極度の近眼が災いし、敵軍の鉄砲隊の前に出てしまったのだ。17世紀のヨーロッパでは鉄砲の進化が著しく、それに並行して戦争が頻発するようになった。

一方、日本では江戸時代という大平和期が到来していた。

この時期、日本人は火縄銃をより使い勝手の良い兵器として進化させようとはしなかった。冒頭で書いた通り、日本人は鉄砲を捨てたのだ。

ノエル・ペリンはその理由をいくつかに分けて書いているが、中でも筆者の目を引いた記述は以下の通り。

第三のかなり興味深い理由は、刀剣が日本ではヨーロッパよりもはるかに大きな象徴的意味をもっていたことである。それゆえ鉄砲が完全に刀剣にとってかわった場合、日本においてはヨーロッパにおけるよりも大きな損失を意味したであろう。
(同上)

領主が家臣に下賜するものといえば、昔から刀剣と相場が決まっていた。

即ち、刀は「尊いもの」なのだ。それは鉄砲では果たすことができない役目でもある。

また日本刀は、封建ヨーロッパよりもはるかに重要な社会的意味をもっていた。帯刀の権利がなければ、名字さえも持てなかったのである。封建日本にあっては農民、町人は帯刀の権利もなければ、名字もなかった。ときには農民や町人が出世して武士身分を許されることがあった。これは名字帯刀の特権といわれた。
(同上)

刀が己の身分を表している以上、鉄砲よりも刀が尊ばれるのはむしろ当然の現象である。

現に、鉄砲は平民でも所持することができた。江戸時代には裕福な商人の間で火縄銃射撃が流行したことすらある。その一方で、刀には「聖域」が存在した。平民が気軽に所持できるものではなかったのだ。

さらに江戸時代の日本は、島原の乱や文化露寇という例外を除けば全くの無風状態だった。兵器としての鉄砲は、全くと言っていいほど需要がない。こうして日本人は、近世以降の戦争に必要不可欠な鉄砲を自発的に捨てたのだった。

戦闘以外の意味合い

戦国時代当時も、日本刀は実用目的より「お守り」としての役割が強かったようだ。

実戦でも、じつは日本刀が用いられる場面は少ない。路上の喧嘩でもそうだが、格闘とは「殴り合い」よりも「取っ組み合い」になる可能性が高い。立っている相手にタックルを仕掛けてマウントポジションを取り、素早く短刀を取り出して止めを刺す……というプロセスの格闘術である。

しかし、いや、だからこそ、長大な刀は戦闘以外の特殊な意味合いを帯びるようになったのだ。

それが日本に2世紀半の平和時代をもたらしたことは、まさに逆説的な現象である。

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