まるで日本のスティーブ・ジョブズ!生まれる時代が100年早かった天才、佐久間象山

まるで日本のスティーブ・ジョブズ!生まれる時代が100年早かった天才、佐久間象山

ペリーが来航した1853年から明治維新までの1868年を大まかに幕末と呼ぶ。このたった15年のあいだに、日本はチョンマゲからさんばら頭になり、袴を脱ぎズボンを履くようになった。またこの時期は、後の日本を築いた志士も数多く登場した。幕府を倒さんとする者、幕府を護ろうとする者、国を開こうとする者。今回紹介する佐久間象山(さくましょうざん)もそうした野心を抱いたひとりである。
江戸時代後期の松代藩士にして思想家の象山は兵学、朱子学を極め、また机上の学問のみならず、大砲の鋳造、ガラスの製造、地震予知機の開発、さらには牛痘種の導入を企図するなど天才ぶりを発揮した。勝海舟や吉田松陰など名だたる俊才を弟子に持ち、100年先を見通していたと言われた男がどんな人物だったのか、日本の近代化を急ぎすぎた象山の知られざる素顔に迫ってみよう。

苛烈、気難し屋。天才はいつの時代も理解されにくい

顔の輪郭、手を顎に添えた仕草。冒頭の象山の肖像は、どことなくアップルの創業者・スティーブ・ジョブズを思わせはしないだろうか。剣術の達人であった父・佐久間一学(さくまいちがく)の門下生によると、象山は長身で、額が広く、また目は二重瞼でやや窪んでいたという。また風貌以外にも、ジョブズを匂わす逸話がいくつかある。

象山の才能は早くから高く評価されていた。20歳で松代藩第8代藩主・真田幸貫の後継の教育係を務めるなど向学意欲の塊のような青年だったが、その一方で、長者に対して不遜な態度を取ったとして幸貫から城への出入りを禁じられたりもしている。
天才学者にとっては、年齢など取るに足らない基準だったのかもしれない。またそうした慣習に窮屈さを感じていたのだろうか、城から締め出されている間に父が死去すると、象山は松代を出て江戸へと向かうのである。

私塾「五月塾」の門下生には勝海舟、吉田松陰、坂本龍馬など

象山は江戸で海外情勢を研究するきっかけを得ると、もともと人に教えるほど知識を持っていた朱子学や儒学に加え、語学、自然科学、医学、兵学などの精通に努めた。また有り余る才能は机上の学問だけにとどまらず、当時の日本においてより実用的な分野である大砲の鋳造やガラスの製造、さらには地震予知の開発にまで及んでいく。
しかし象山は、ただ賢いだけではない。大砲の開発中に砲身が爆発してしまう事故が起きると「百年の後わが心事を知る者あるべし」と謳うなど、悪びれるどころか失敗の先に成功があると言い放ってしまう。とんだ食わせものな一面もあった象山だが、良くも悪くも国家の大事をあずかる彼のもとには勝海舟、吉田松陰、坂本龍馬など、後に日本の基礎を形作る俊英が多く弟子入りしていた。

暗殺によりこの世を去った象山と死後の評価

快進撃を続けていた象山だったが、門弟の吉田松陰がペリー提督の艦隊で密航を企てたとして投獄されると、象山自身も松陰を後押しした罪で9年間の自宅謹慎に処されてしまう。そして、この9年という決して短くない歳月が後の命運を分けることになる。
謹慎が解かれたのち、将軍になる前の一橋慶喜の招待で京都に入ると、ここであっさりと暗殺されてしまう。先進的な思想をもつ学者として名の通っていた象山は、当時尊王攘夷運動の拠点になっていた京都では危険人物のひとりだった。そこにもってきて護衛もつけず、馬にまたがり闊歩していたところを「西洋かぶれ」という言いがかりに近い理由で、河上彦斎という佐幕派の志士に斬り殺されてしまったのである。
自宅謹慎の間に日本の情勢を知り得なかったのか、それとも生来からの強情さゆえにそうした振る舞いに出たのかは定かではない。しかし、象山の性格や人柄に対しての評判は日頃から良いものではなかったのは確かなようだ。門弟の勝海舟でさえ「軽率でチョコチョコした男」と吐き捨て、吉田松陰の門弟、高杉晋作からは「法螺吹き」などと散々である。残した功績からは讃えられて然るべき象山だが、近しい人物からここまでバッサリ言われてしまうとは、よほど気難しい性格だったのだろう。先をゆく人物が理解されにくいのはいつの時代も同じだ。こうした人物評も、どこかジョブズに通じるところを感じてしまう。

象山の息子・三浦啓之助

象山は生前「僕の血を継いだ子供は必ず大成する」と坂本龍馬に語ったと言われているが、彼の息子・啓之助は、父譲りの傲慢さを受け継いでしまった。
父の仇討ちのために新撰組に入隊した啓之助は傍若無人な振る舞いの末、脱走。その後、故郷の松代でも乱暴狼藉の罪で投獄されている。さらには明治維新後、象山の後ろ盾を利用して司法省に出仕したが、ここでも警察官と喧嘩を起こして免職となっている。
親の威光も考えものだが、啓之助の新撰組入隊が象山の死後であることを思うと、彼の功績が死して後も力を持っていたと言えるのではないだろうか。ちなみに象山は現在、長野県の象山神社(ぞうざんじんじゃ)の祭神として祀られている。

革命を起こす男は経歴さえも自分で作る?

国立博物館所蔵品統合検索システム(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/B-1096?locale=ja)

象山が自らの家系を記した『佐久間氏略譜』によれば、彼の氏族は桓武天皇の末裔だとされている。しかし、後に佐久間家の菩提所を調査した明治時代の学者・大平喜間太(おおひらきまた)は、これには多くの疑問があるとしている。また一方で、竹内軌定(たけうちのりさだ)が記した『真武内伝』では松代藩第4代藩主・真田信弘に仕えた岩間三左衛門(いわまさんざえもん)を佐久間家中興の祖としている。
このふたつの書物が示すように、象山の家系はハッキリしていない。真武内伝の成立が1731年であることを考えれば、それより後の時代を生きた象山がその存在を知らないはずはないのだが。

象山がいなければ日本の近代化は遅れていたかもしれない

国立博物館所蔵品統合検索システム(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/kyuhaku/A124?locale=ja)

象山の功績が讃えられない一因が、その人柄や啓之助の振る舞いにありそうだということは否定できないが、彼が影響を与えた人物やその数を鑑みれば、自身を「国家の財産」と自認していたのも決して間違いではないし、それもまた大人物の風格といえるのかもしれない。象山の向こう見ずな性格があったからこそ、日本の近代化が進んだとも考えられるのである。

トップ画像出典:国立国会図書館

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