Culture
2020.04.07

前田利家の妻がわざと夫を怒らせた理由とは?女性たちがカギを握った?末森城の戦い

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「歴史の影に女あり」とよくいわれるように、戦国時代、夫を成功の道へと支え導いた武将の妻たち。中でも、戦国一の女房と称されるほど、数多くのエピソードを残しているのが前田利家の妻・まつ(のちの芳春院)です。2002年の大河ドラマ『利家とまつ』で、松嶋菜々子さんが演じたことで知られています。今回は、そんなまつのたくましく、思わずあっぱれと言いたくなる活躍をご紹介します。

前田家にとって特別な戦いだった「末森城の攻防戦」

前田利家は、日本最大の藩、加賀藩の基盤を一代で築いた偉大な藩祖といわれています。織田信長や豊臣秀吉のもと、多くの武功を重ね、能登、加賀、越中の3国を手中にし「加賀百万石」の大名として、実質天下No.2の地位にまで登りつめました。その武功を語るのに欠かせないのが、天正12(1584)年に起こった、「末森城の攻防戦」での、まつの活躍です。

この戦いは信長亡き後、秀吉と徳川家康の覇権争いで起こった「小牧・長久手の合戦」と連動して起こりました。徳川方の佐々成政(さっさなりまさ)が1万5000の大軍を率いて、能登と加賀の国境に位置する前田領の重要拠点、末森城(現在の石川県押水町)に攻め入ったのです。対して、城内は利家の重臣、奥村永福(おくむらながとみ:漫画『花の慶次』では奥村助右衛門の名前で登場)ら500人足らず。

金沢城から末森城までの距離は約30㎞

30㎞先の金沢城で報せをうけた利家は、末森城と家臣たちを救うために出陣しようとします。しかし、そこに秀吉の使者が現れ、「金沢城を一歩も出てはならぬ。城の守りに専念せよ」という秀吉の命令が伝えられます。

佐々軍に包囲され追い込まれていく末森城。利家が来ることを信じ、耐える永福と家臣たち。一刻もはやく城へ向かわなければならない状況であるのに……利家大ピンチ。さらに、利家の手元の兵はわずか2500人と、数では佐々軍に到底及びません。

いっそ金銀に槍を持たせれば?

そんな頭を悩ます利家のもとに、まつがなにやら袋を持ってきてこう言い放ちます。

「日頃から兵を養うよう言っているのに殿は蓄財ばかり! それでは、いっそ金銀に槍を持たせたらいかがか」

そう言って袋を差し出すとその中身は、利家が貯えてきた金銀。かなりの倹約家だったという利家に、まつは強烈で皮肉たっぷりの言葉を浴びせたのです。その行動に利家は激怒。それも思わず刀を抜こうとするほどの怒りであったと『川角太閤記(かわすみたいこうき)』には書かれています。まつに罵られ、勢いづいた利家は息子・利長と合流し、末森城へ急行します。

「今に見てろ! 俺の貯金してきたことが正しかったと証明してやる!」(と、思ったかもしれません)。

尻を蹴飛ばされるように出陣した利家は、領民から佐々軍の布陣状況を聞き出すと、夜中、兵の手薄な海岸沿いを進み、敵の背後に周ります。そして夜が開け、一気に奇襲をかけると形勢逆転。

不意をつかれた佐々軍は、落城寸前まで追い込んだものの囲みを解いて越中へ向かって敗走してしまいます。数では優勢だった佐々軍でしたが、遠く離れた敵地での補給や、退却する道の確保が困難なための後退だったのでしょう。この地の利を生かした攻防戦の勝利によって、末森城は落城を免れ、利家は秀吉との関係が密になり、のちの「加賀百万石」を不動のものにします。

もしもまつの言葉がなかったら……利家は「加賀百万石」を築くことはできないどころか、自らのいた金沢城まで攻め込まれ前田家の存亡の危機を乗り越えることはできなかったでしょう。まつは、利家をわざと罵り、怒らせ、勝利を引き寄せたのです。

勝利の女神はもうひとりいた……?

ここまで、まつの活躍ぶりを紹介しましたが、実はこの攻防戦でもうひとり夫に発破をかけた妻がいました。それは、永福の妻・おつねです。

利家が到着するまでの間、丸二日間続く攻防戦で死傷者が増え、落城するのも時間の問題という状況の中、永福は「援軍もなければ、もはやこれまでか」と切腹を覚悟します。すると、おつねは強い口調でこう言い返したのです。

「いにしえの楠正成(くすのきまさしげ)は、日本中を敵に回しながらも籠城をまっとうしたと聞いております。おまえさまは、佐々ひとりに囲まれただけのこと。何を気弱なことを申されまするのか」

さらにおつねは、自ら武装して場内を巡回。兵を介護し、叱咤激励したといいます。いつもはおとなしいのに、まるで人が変わったような妻の言動に永福は鼓舞され、本丸だけでも守り抜こうと奮起したのです。

たくましき城主の妻たち。2人の活躍が前田家の絶体絶命を救った、そう言っても過言ではないでしょう。