Culture
2020.04.20

延期中止の相次ぐ今だからこそYouTube×芸能の可能性を探る!講談師・旭堂南海の挑戦

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新型コロナの影響でイベントや舞台の中止が相次ぎ、演芸界ではYouTubeを使った配信が広まりつつある。舞台をキャンセルになった落語家や講談師が高座を自宅などに移してトークや芸を披露しているのだ。演芸好きの人にとっても自宅で演芸を楽しめる貴重な手段となっている。普段は寄席など生の高座を主戦場としている落語家や講談師にとって、カメラに向う芸は本来の魅力が完全には発揮されないかもしれない。それでも、一般人に芸を届けるための方法を形にこだわらず模索するのも大衆芸能として親しまれてきた演芸のあるべき姿なのだろう。演芸とYouTubeという意外な組み合わせがスタンダードになるのもそう遠くないかもしれない。

そう思えたのも、新型コロナが発生する以前に「続き読み講談☆のこし隊」が配信している講談師・旭堂南海(きょくどうなんかい)の「祐天吉松(ゆうてんきちまつ)」について取材していたからこそだ。この企画は配信のためにスタジオで録音するなど、舞台でのライブ録音が多い他の配信とは違うこだわりを見せていたことや、聴いたことがない「祐天吉松」全編が聴けるということで個人的にも注目をしていた。自身のホームページすら持たない南海がなぜ他の芸人よりも一足早くYouTubeでの配信を始めていたのか。その経緯や想いを聞くと、手軽さということだけではない、大衆芸能であり伝統芸能である講談が敢えて今YouTubeで配信されることの意義が見えてきた。

大師匠二代目南陵と「祐天吉松」

旭堂南海の「祐天吉松」は平成30(2018)年4月から1年と3カ月にわたりYouTubeで毎月配信されていた講談の連続読みだ。視聴回数は第1話では2500人程、最終16話では900人程とYouTubeでは決して多くはない数字だが、その定着率の高さから、この配信を楽しみにしていた人が一定数いたことは間違いない。

さて、まずはこの「祐天吉松」が配信された経緯について説明したいのだが、そのためには旭堂南海と「祐天吉松」の関係を紹介する必要がある。関西を中心に活動してきた旭堂一門だが、江戸を舞台にした「祐天吉松」とは浅からぬ因縁があり、それは南海の大師匠にあたる二代目・旭堂南陵(なんりょう)と深い関りがある。

話は二代目・旭堂南陵がまだ前座として南花(なんか)と名乗っていた明治時代にまで遡る。旅芸人の講談師・増田南北が大阪の寄席に出るために前座を南花に頼んだ時のこと。南北は南花に支払うべき給金を支払わずに、「おれの講談を聴けることが給金代わり」だと言い張った。南花にすれば納得できる話ではなかったが、実際に南北の講談を聴いてみると面白く、聴いたことがない話だった。開き直った南花は南北の話を聴き覚えて、書き起こした。それが「祐天吉松」である。書き起こした台本を師匠の初代・旭堂南陵に見せて、二人で話を膨らませ、初代・南陵が高座で「祐天吉松」をするようになると、その面白さはまたたく間に関西で評判になっていったのだ。この時に初代・南陵は南花にお礼として着物か帯を贈ったという話が残っている。

その後、南花は東京へ行き、当時の神田伯龍(かんだはくりゅう)のもとで修業することになる。この伯龍が南花を預かった理由も「祐天吉松」が関係している。伯龍が関西に来た時に「祐天吉松」を聴いており、ぜひとも自分のネタにしたいと思っていたのだ。預かり弟子になった南花が伯龍に「祐天吉松」を教えて、伯龍が高座で「祐天吉松」をすると東京でもその話の面白さが評判になった。伯龍の高座を聴いた他の講談師も「祐天吉松」をするようになり、「祐天吉松」のストーリーは伯龍らによってさらに磨かれていったのだ。

それから数年後、南花に大きな話が舞い込んでくる。大阪に帰ってきて真打昇進と小南陵襲名をするよう勧められたのだ。当時の南花はまだ20代前半だったので、真打昇進には異例の若さだった。南花は迷った末に大阪へ帰ることを決めるが、周囲からは時期尚早との声もあったそうだ。そんな中、披露公演で小南陵となった南花が演じたのも「祐天吉松」だった。既に大阪の講談好きには馴染みのあった「祐天吉松」だが、小南陵が演じる「祐天吉松」はそれとはまた違っていた。伯龍ら東京の講談師によってさらにストーリーが磨かれていたのだ。それに、大阪よりも講談が盛んだった東京で修業した小南陵の腕前は大阪の頃よりも格段に上がっている。興行が始まると、その評判はたちまちに広まり、披露公演の客数も日に日に伸びていった。そうして小南陵は前評判を跳ね返して披露公演を成功させたのだった。

このように二代目・南陵は前座から真打昇進までの間、「祐天吉松」によって人に出会い、認められてきたといえる。また、「祐天吉松」も南花が書き起こしたことをきっかけに、初代・南陵や神田伯龍らの持ちネタになり、ストーリーが磨かれて講談の代表的な演目になっていった。

これほど旭堂一門にとって関係の深いと思える「祐天吉松」だが、意外にも実子であり弟子の三代目・南陵に受け継がれたかはわからない。それは二代目・南陵が真打昇進後は時代の流れに合わせて、「太閤記」や「難波戦記」で有名になり、「祐天吉松」をする回数が徐々に減っていったことが関係しているのであろう。そして、二代目・南陵の真打昇進から100年以上が過ぎ、近年では旭堂一門や他の一門でも全編を読む講談師はほぼいない状態になっていた。

蘇った「祐天吉松」

そんな全編読まれることがなくなっていた「祐天吉松」を蘇らせたいとこの配信を企画したのが「続き読み講談☆のこし隊」だった。「続き読み講談☆のこし隊」は二代目・南陵の孫・石津史子さんとその夫の良宗さんを中心にセミナーや音源の販売を通して講談の魅力を発信している団体で、二人は祖父にとって無くてはならない演目である「祐天吉松」がどのような物語なのか知りたいと南海に相談したのだ。すると、南海から明治43(1910)年頃の神戸新聞の連載が残っていることを知らされ、ならばそれを南海が読み、配信しようという話が決まっていったのだ。

このようにして一度は誰もやらなくなっていた「祐天吉松」が復活することになったのだが、過去の連載が残っているといっても、南海は連載通りに講談を読んでいるわけではない。現代には馴染みのない言葉をわかりやすい言葉に置き換えたり、説明を加えたりすることで視聴者にわかりやすくしていることはもちろん、ストーリーも大きく変えているのだ。前半は連載の内容に忠実だが、終盤は南海オリジナルの展開になっている。伝統芸能とも言われる講談において、これほど大胆なアレンジを加えてもよいのだろうか。そのことを南海に聞いてみた。

南海:増田南北がやった時は正月興行やから、(祐天吉松の連続読みは)半月か10日間やと思うんですよ。それを初代・南陵と南花は30日分に話を膨らませる。そして、神田伯龍や東京の講談師が内容を非常に整理して面白くした。講談は人から人へ伝わっていくにしたがって、良かれと思うように改変されていく。そういう芸能。だから、ぼくも現代の感覚では合わんと思うところは割愛するし、変えようと思うところは変える。これが講談の成長の一つなんです。

このように演者を介することで講談の台本は磨かれてきたからこそ、南海も台本をアレンジすることに後ろめたさはなく、むしろ講談師としてやるべきことだと考えているのだ。実際に南海は師匠の三代目・南陵や人間国宝の一龍齋貞水(いちりゅうさいていすい)から講談師は創作力が求められると言われてきた。

さらにYouTubeに全編を公開することにためらいはなかったのかと聞くと、これも予想外な答えが返ってきた。

南海:YouTubeで今回配信してるものは同業者でやりたい方がいれば、別に南海からもらったとか断りを入れる必要もないし、どうぞやってくださいと思ってます。もっと面白いのができると思えば改変してやればいいし、拝借する部分があれば使ってもらったらいい。そういう風にして、台本も成長するし、講談も発展するんでね。

自身の演目を他の演者に共有することに対して、これほど寛大な答えが返ってくるとは意外でもあった。だが、寛大でありながらも、その想いは単なる優しさではない。講談を過去の芸能にしないために、先人から受け継ぎ、受け継がせる使命感が伝わってくる。

講談×YouTubeの可能性

講談が盛んだった明治の頃には東京にも大阪にも沢山の講釈場が存在したそうだ。特に二代目・南陵が神田伯龍のもとで修業した頃の東京は講談の全盛期で、その時に多くの名人の講談を聴き、高座に上がったことが、後に大阪を代表する講談師になる上で欠くことはできない経験だったと後年本人も振り返っている。また、「祐天吉松」も神田伯龍が持ちネタにしたことで、多くの演者の耳に触れ、ストーリーが磨かれていった。当時の講釈場は講談師が成長する場であり、講談がより魅力的になっていく場でもあったのだ。

だが、今では講談師の数も講釈場の数も当時とは比べ物にならないほどに減ってしまっている。そんな時代だからこそ講談が発展していくためにYouTubeによる配信も一つの手段となるのではないだろうか。YouTubeを通じて一門や協会の垣根を超えて、他人の芸を聴くことができるのは、ある意味で当時よりも自由なのかもしれない。ネタを譲ることに関しては演者それぞれの考えがあるだろうが、南海のように敢えて台本の成長を見据えて公開する。それも一つ考え方であり、現代だからこそできる手段でもある。
さらに、南海が残した祐天吉松の音源はこの先何十年あるいは何百年と残っていくことで、講談を後世に繋げる架け橋にもなり得るだろう。二代目・南陵の新聞連載によって今ここに「祐天吉松」が受け継がれたように。

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書いた人

大阪出身。学生時代は三度の飯より筋トレ好き。よって、瘦せ型の不健康体質に。大学卒業後も体を鍛え続けた結果、少々人生を拗らせる。だが、話芸の奥深さを知り人生が一変!話芸の魅力を広める謎の使命感を持つ。今は会社員の傍ら月に一回浪曲会を開催。目標は大阪万博のパビリオンで寄席を開催すること。