驚異の行動力!ジョン万次郎が米国からの帰国費用を稼いだ命がけの方法とは

驚異の行動力!ジョン万次郎が米国からの帰国費用を稼いだ命がけの方法とは

目次

土佐の漁師・中濱万次郎。現代では「ジョン万次郎」と呼ばれている人物だが、彼はアメリカの西部開拓時代を知っている数少ない日本人でもある。

一口に「西部開拓時代」といっても、いくつかの区切りがある。我々現代人が想像するのは、恐らく南北戦争直後から1890年の国勢調査までの「金メッキ時代」を指すのではないか。ジョン万次郎のアメリカ滞在期はそれよりも前、カリフォルニアの金鉱発見をきっかけに始まったフォーティナイナーズ時代である。

万次郎はこのビッグウェーブに乗り、日本へ帰国するための費用を稼いでしまうのだ。

アメリカ人船長の養子になる

まずはジョン万次郎が渡米する経緯を、簡単に説明しておきたい。

1841年、当時14歳だった中濱万次郎は炊事兼雑用係として漁船に乗り込んだ。その船が難破し、伊豆諸島の無人島である鳥島に漂着する。鳥島では実に5ヶ月近くのサバイバル生活を送り、遂に1隻の船に発見される。しかしその船は、アメリカの捕鯨船だった。万次郎を含む5人の漁師は、ホイットフィールド船長のジョン・ハラウンド号に乗船しハワイに向かう。

日本人漁師はハワイで船を降りたが、万次郎だけはホイットフィールドに懇願してそのままジョン・ハラウンド号の船員になった。ホイットフィールドにとっても万次郎は息子のような存在で、実際に万次郎を養子にしてしまった。

捕鯨航海の末、ジョン・ハラウンド号が錨を下したのはマサチューセッツ州ニューベットフォードのフェアヘイブンだった。ここはホイットフィールドの故郷でもある。マサチューセッツ州とは、言い換えれば東海岸都市である。当時はまだパナマ運河がないから、ジョン・ハラウンド号は南米大陸の最南端を回ってアメリカ東海岸に寄港したのだ。現代人の目で見ても、壮大な旅路である。

先述の通り、ホイットフィールドは万次郎を養子に迎えた。アジア人の少年を、白人と同じように扱ったということだ。

これとまったく同時期に、ペンシルベニア大学では医師のサミュエル・モートンが頭蓋骨の容量から「白人が最も優れた人種で、アジア人や黒人、先住民はそれよりも劣っている」という論文を書いていた。実際に万次郎も、「お前はアジア人だから」という理由でいくつもの教会から礼拝拒否されている。人種差別が当然のように根付いている時代だったのだ。

だが万次郎は、モートンの学説を完全否定するかのような秀才ぶりを現地で発揮している。入学した学校で正確な英語、アラビア数字を使った数学、当時最先端の航海術も身につけ首席で卒業した。ホイットフィールドの目は、極めて高い精度の観察力を持っていたということでもある。

帰国のためにカリフォルニアへ

そんな万次郎が帰国を決意したのは、1850年のこと。

この当時のアメリカは、カリフォルニアでの金鉱発見によるゴールドラッシュ景気に湧いていた。広大な荒れ野に過ぎなかったこの地域に大勢の人が集まり、彼らはのちの歴史家に「フォーティーナイナーズ」と呼ばれることになる。万次郎は、そのフォーティーナイナーズのひとりになることで帰国のための費用を工面しようと考えたのだ。

もっとも、このゴールドラッシュで巨万の富を得たのは一握りの投資家か、フォーティーナイナーズに需要のある商品を売ることで成功した事業家である。

その名が最も知られているのは、リーバイ・ストラウスだろう。彼は金鉱山で働くフォーティーナイナーズのためのズボンを販売することで大成した。もちろんそれは、ただのズボンではない。「今あるものよりも丈夫で破れにくいズボンを作ってくれ」という労働者の声に応え、ストラウスは馬車の幌に使うデニム生地でズボンを仕立ててみた。それでもポケットが破れるから、そこには馬具の鞍に使う鋲で補強する。ガラガラヘビに噛まれないよう、染料はインディゴを使った。

彼の会社は「リーバイス」と呼ばれ、今でもズボンを製造し続けている。このように、カリフォルニアのゴールドラッシュは歴史に残る事業家も輩出したが、一方で夢破れてツルハシを投げ捨てる者のほうが圧倒的に多かった。少し考えれば分かるが、もし首尾よく金を掘り出したとしてもそれは土地の所有者のもの。また、カリフォルニアの鉱脈がどれほどの大きさなのかもよく分かっていない状態だ。そこに行ったら必ず儲かる、というわけでは決してない。

が、万次郎は金鉱山で働きに働き、3ヶ月ほどで600ドルもの大金を稼ぎ出してしまう。

さて、この600ドルとは1850年にどれほどの価値を有していたのだろうか。それを調べるためのプラットフォームがある。1800年から現在までの米ドルの貨幣価値を算出する『The Inflation Calculator』だ。今回はこれを使ってみた。1850年の600ドルは、2019年の貨幣価値では18676.73ドルと出た。つまり、万次郎は現在の日本円で200万円強のカネを手にしたことになる。巨万の富という表現からは程遠いが、労働者にとっては相当な高収入である。もちろん、その分だけ重労働かつ危険な仕事ではあっただろうが。

万次郎は、命がけで稼いだ600ドルを元手に帰国を目論んだ。

日本史を変えた600ドル

その後の万次郎の足跡は、日本人の間で広く知られている通りである。

万次郎は琉球に上陸し、そこから薩摩へ送られた。幸いにも時の薩摩藩主島津斉彬は、幕末きっての開明派である。万次郎は厚遇され、罪人として幽閉されるようなことはなかった。

ペリーの来航は、その後のことである。当時の日本において、アメリカを実際に見ている者は手の指で数えられるほどしか存在しない。万次郎は幕府にとっては極めて稀有な人材で、西洋式航海術を教える教育機関の設立にも関わっている。勝海舟や福沢諭吉が参加した万延元年遣米使節団にも同行した。近代海軍の創設に、万次郎は大貢献していたということだ。

無論、英語教育の分野でも万次郎は極めて重大な足跡を残した。とくに万次郎式英語発音表記は非常に独特ではあるが、むしろ発音としてはより正確ということで(Goodはグーリ、Waterはワラ、Thatはザヤタ)現代でも利用されている。

カリフォルニアで稼いだ600ドルは万次郎自身を、そして結果的に日本を救うことになる。もしもゴールドラッシュがなければ万次郎の帰国が遅くなった可能性は十分にあり、それと同時に日本の開国も遅れていたかもしれない。

日本史を変えた600ドルだったのだ。

【参考】
The Inflation Calculator

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